陽炎 4





その日は晴れてはいたがびゅうびゅう風の強い日で、近くにある雲から遠くにある雲まで一様に早 い動きを見せていた。日差しの暖かさを風が吹き飛ばしてしまっていて、屋敷のものがみな、解け 始めた雪を横目に見ては首を縮込ませて一日の活動を開始していた。


「あら、哉道様、お出かけなさるのですか?」


と彼の妻は外出しようとする夫に問いかけた。その問いかけに夫はうん、と小さく首を動かして一 つ、


「こんな日は傷が痛むのぉ」


と返事にもならない返事をしたという。そして、妻は懐にある一通の書状に目を留め、梶原から呼 び出しを受けたのだろうと――宇治での戦がつい先日終わったばかりだったから――さして気にか けなかった。

妻から見える横顔は、古傷の無いほうの頬で、ああこの角度から見ると息子の一人に良く似ている 、と思ったそうだ。どちらへですか、と聞いてみるといつもの哉道らしからぬ、ああとかうんとか 曖昧な頷きが返ってくるだけで、なんの意味も成さなかった。それでも、まあいいかと長年連れ添 った気安さが手伝って妻は深く追求せずに、


「何時ごろお帰りですか?」


と柔らかくきいたのだという。それに対し夫は出来るだけ早く、と答えた。ちょっとだけ悪戯心が 働いたとでも言おうか、妻は口元に微苦笑を浮かべてこう聞いた。


「どうして行かれるのですか?」
「――さぁな。だが、話をせねばならん。このままでは、あやつのためにも儂のためにもならん」


いやに瞳がきゅうとしまって、これから歩む先を見据えるその目は、やはり武士然としたそれであ った。妻はそうですかとひとつ頷き返し、行ってらっしゃいませと見送った。これが、二人の最後 の会話となるとも知らずに。寒いのだからもう一枚羽織らせればよかったかしらと思いついたのは 彼がすでに出てしまった後で、すぐに帰ってくればいいと思った。


「母上?」
「ああ、哉弼ですか。どうしたのです」
「馬を一頭、遠乗りに出かけようかと思ったのですが・・・・・・あいにく、出払っているようで すね」
「そんなことはないと思うけれど」


実はこの日、馬の調整をかねて信頼の置ける厩舎人に命じて放牧していたのだが、彼らのあずかり 知るところではなかった。長男の命である。お前はまたどこかに、と母親は言いかけたが、次男は いつもの、へらっとした笑いを見せて――大抵こんな笑い方をするときは余計なことしかしないの だ――まぁまぁと逆にこっちを逆撫でするような声で言を遮った。


「まぁ、馬が無くてもいいか・・・・・・」
「お前、また出入りしているようですね。いい加減になさいと何度・・・・・」
「娯楽ですよ、母上」


次男はあっけらかんとそういい、ではと一礼を残して母親の前から消えた。さて、この母子の会話 が最後になるのだが彼女にそんなことは知る由もなく、後から思い返してみて、どうして同時に二 人と最後の会話を成さねばならなかったのかと仏を恨んだという。

これが昼少し前の出来事である。

その後、昼餉を持っていった女房の一人が息子である哉弼の不在に気がついたが、彼が何も言わず にふらりといなくなっては帰ってくることが日常的であったので誰も気に留めなかった。日が伸び てきたとはいえ、まだまだ暗くなるのは早い季節である。どうせ午前様でも決め込むのだろうと、 妻は頭を痛くした。彼は、長男と同じように育ててきたはずなのに、どうにも奔放が過ぎる。それ とも、世間の男性と言うのはあれが一般的なのだろうか。あまり外のことに関わらない妻は、比較 対象となるべき人物がおらず、わからないと小さく頭を振った。

のちに夕闇に紛れて帰ってきたらしき哉道の姿を門人が確認している。が、この門人いわく、


「お返事も曖昧でなんだか変なご様子でしたなぁ。いつもはお綺麗な羽織をお召しになっているの にあの時はなんか汚れているみたいでしたしねぇ」


という。更に話を聞いてみると不可思議だった。


「お帰りになったわけじゃないんですよ。これからお出かけなさるところだったんですよ。だって 門から出て行きましたから」


以後、哉道は死体となって発見されるまで行方不明となる。





「・・・・・・で、その門人の言葉が決め手になったんですか」
「そう。逃げるところだったんじゃないか、ってね」


景時が哉道の屋敷で聞いてきたことを話し終えると、譲は確認するように尋ねそれに律儀に頷き返 した。頭の上では雲がゆっくりと動いている。明るい群青に綿を投げたような雲が動いてゆくのを 、景時は目の端で見ていた。

昼下がりである。

からと綺麗に晴れ渡った皐月の一日はとても麗らかで、木々の緑と、空の青と、雲の白がその一瞬 でしか見られないような対比を醸し出しては美しいと思わせる隙も見せずさっさと崩れて次の形を 作ってゆく。行商人から手軽な食べ物を買い求め、ちょっと休憩しようかと景時が提案したのは河 原を通り過ぎる一歩手前のことだった。

この時代のジャンクフードだろうかと譲は恐る恐る口に入れてみるも、何のことはない。単に穀物 を細かくすり潰して焼いたものに漬物やら魚の焼いたのやらを包んだものである。クレープに近い なと思いながら二口目を頬張ると、不意に何か閃いた。が、それはあいにくと形に出来るようなも のではなく、思いついたのに言葉に出来ず、言葉にして外に出そうとすればするほど遠のいてしま うような、なんとも歯がゆい感触だ。


――何かがおかしい・・・・・・


これは、一連の事件を聞いてから誰しも思っていることである。ただ、対外的な問題として下手人 不在として処理できるほど彼らの身分が低くなく、かといって下手人を公表すれば醜聞は免れずま た一門の抹消にもつながりかねないほどきわどくもあった。

どうしようもない違和感が付きまとっているのだ。手をかざせば地面にまんまそっくりの影が落ち るように、振り返らずとも足元を見ればまん丸の影が落ちているように、この件に関して違和感が あるのだ。武士たるものが、という先入観に似たものを取っ払ったとしても、拭いきれない気持ち の悪さが胸の辺りにつかえて上手く見られない。


「仮に、本当に哉道さんが哉弼さんを殺したとしてみましょうか」
「うん」
「だとしたら、これは計画的に行ったものなんでしょうか?」
「・・・・・・どういうことだい」


譲は両足の間に生えていた雑草を手持ち無沙汰に抜き取りながら先を続けた。


「計画があったとして、ひどく穴だらけ――杜撰、ともいえると思うんです」
「・・・・・・」
「人を殺すのに、自分の家でやってしまうリスクを考えてないし、出て行く姿を門人に見られてい る」
「りすく?」
「ああ、危険のことです」


同じことを三人の前で言ったとき、弁慶は「ついカッとなったのでは」と言っていた。が、話を聞 く限り、そうでもないようである。かといって計画性があったとは言いがたい。人が人を殺すとき 、どれだけ冷静でいられるか、そんなことはわからない。だってやったこともないしやろうと思っ たこともないのだ。けれど、一連の流れを見る限り、そこに殺意を見出すことは愚か故意を見つけ るのもなんだか難儀する。


「しかし、死体はちゃんと隠していますよね――どうやったのかは知らないですけど」
「うん・・・・・・」


――朧気だ

故意的であったとして、だとしたら死体は運び出すなり隠すなりするはずである。逃げるならもっ と遠くに逃げるはずである。けれど、一切のことがなされていない。殺して、放って、逃げて、殺 された。それだけである。一見、何の疑問の余地もないように見えるのだが――


「――オレたちは、前提を違えている気がする・・・・・・」
「景時さん?」
「いや、何となくなんだけれどね。そんな気がするよ」

手近な木に繋いでいた馬が一ついなないて、帰ろうかと景時が切り出した。





「――チッまたお前の勝ちかよ」
「負け続けじゃアこっちも商売上がったりなもンでね」


恨むなら神を恨め、と女はそれはそれは艶やかに笑って賽を取り上げた。目の前の木札――ここで 金銭と同等に扱われるもの――を回収されたその男は胸糞悪いといった感情を隠しもせず、食い物 を奪われた餓鬼のそれ同様、忌々しげに睨み付けた。そんな視線を肩の辺りで交わして平然として いる女にまた腹が立って、近くを通りかかった男から酒を買い求める。


「おニイさんよ、ンな飲んだくれても負けは負けサ」
「うるせぇんだよ」
「もう一勝負イッとくかい」


さっさと配れと男が言う。女は笑う。周囲のものは一様にだまってしまって、異常なほどにぎらつ いた男の瞳と、その下にこさえた隈をどこか別世界のもののように見ながら、それでも手元にやっ てきた札の内容に注意を向ける。せせら笑っている女は誘っているのだかどうだか知れない。

深追いしたら確実に戻れなくなる。

それを察知している何人かの玄人は入れ替わり、始めの面子で残っているのは男だけである。


「デカいのを狙うか、チッさい勝ちを積み重ねるか――お前サンらの自由さ」


けれどね、と煙管を加えたまま女は続ける。立ち上る紫煙に瞳を細くして、ちゃんと口をあけても いないのにくぐもりもせず、ごく自然に言った。


「引き返すトコを誤っちゃアなんねェよ」


骨までしゃぶられたくはなかろう?















お久しぶりの更新でやんす
若干譲に持っていかれ気味な気がしないでもない。
しかし本当にむさくるしいのでそろそろのんちゃんに出てきて欲しい今日この頃