陽炎 4





翌日も皐月晴れであった。昼前の、爽やかで十分に磨き上げたガラスを一面に填め込んだような空 は群青色で、視界一杯に広がっている。遠くのほうに綿をちぎって投げつけたような雲がぽつんぽ つんと浮かんでいる。風もなく、音がないままゆっくりと流れていくそれらを見上げながら、譲は ふうと溜息をついた。

自分のいる世界の空とはすこし違う。数多の車から排出されるガスや、どこにあるのかわからない 工場から立ち上る煙がないせいか、とても澄み渡って鮮やかな色をしている。くわえて、空を切り 取る背の高い建物が皆無であるから、空は、果てしなく空のままだった。

太陽に少しでも近付かんと伸びる木々の、葉の一枚一枚までもくっきりと浮かび上がって、景時の 屋敷の庭は、緑が盛りを迎えていた。さすがは桓武天皇まで遡る家の庭である。しっかりと作りこ まれているくせに押し付けがましくなく、どこまでも手入れが施されている。これを維持するのに 、どれくらいの人手が必要なのか、無意識のうちに考えてしまうのが譲らしい。


――話を聞くんじゃなかった


というのが先ほどの溜息ににじみ出た。うかつに立ち聞きなんかするものじゃないとうっすら後悔 してももう遅い。内容が戦ではないとはいえ、かなり血なまぐさい。もちろん、昨日集まっていた 三人の役職と立場を考えれば無理ない話ではある。が、譲はちょっと前までただの高校生だったの だ。



「あーあ・・・・・・」
「どうしたの、譲君?」
「あ、先輩・・・・・・」


一緒に花の手入れをしていた望美が、二度目の溜息で振り返った。薄紅の羽織が汚れてしまわない よう、しっかりとたすきがけをして草をむしりとる。


「なんでもないですよ」


口元に軽く笑みを浮かべて答えるも、望美は大きな瞳でじっと見つめ返してきた。まさに、今周り で勢いを増す新緑をそのまま填め込んだ瞳の色である。無邪気に小首を傾げて土をいじっている様 は、どうしても「白龍の神子」と結びつかない。

けれど、彼女は確実に、そう僅かな疑問を挟む余地もなく「白龍の神子」であった。雪が残る宇治 川、怨霊とやらに囲まれたとき、彼はその力をありありと見せ付けられた――同時に、自分がいか に無力であるか、ということも。


「そう?でもそんなに大きな溜息、珍しいから」
「そうですか?」
「うん」


疲れてるの、と望美は聞きつつまた草を抜いた。


「あ、それ、雑草じゃないですよ」
「えっ!」
「先輩・・・・・・ちゃんと説明したでしょう」
「ご、ごめん!ああ、どうしよう・・・・・・元に戻せるかな」


二人して彼女の手元に注目しても、そこには無残にとられてしまった草があるだけである。さすが に、これは修復できない。違う意味で譲は溜息をまた吐き、そして愛おしさからくる苦笑を浮かべ るのだった。


「ここら辺で止めにしましょうか」
「う、うん。本当にごめんね?」
「いいえ、次に気をつければ十分ですよ。あ、それと」
「なぁに?」


泥のついたままの手で彼女は藤色の髪を掻き揚げようとするので、譲は慌てて手ぬぐいを出した。 ありがとう、と望美は笑って受け取る。


――参ったなぁ・・・・・・


こんな、何気ないときに自分の心臓は自分のものではなくなってしまう。普段ならあるのか無いの かわからないのに――なかったらとっくにあの世で手を振っているのだが――どきりといきなり存 在を主張するのだ。


「オレ、これから景時さんと出かけますから、先輩は留守番しててくださいね」
「どこに行くの?あ、星の一族のお屋敷?」
「違いますけど・・・・・・外出したいんなら、ちゃんと誰かと一緒に出かけてください」
「えーつまんない。あたしも一緒に行っちゃだめ?」


貴方は危なっかしいから、と譲は言い、しかし可愛らしいそのおねだりを聞き入れることはなかっ た。

あんな血なまぐさい話に、こんなに綺麗な人を巻き込みたくない。





哉道の屋敷――家督を受け継ぐ手続きを済ませればここは長男の屋敷になるのだが――は景時の屋 敷から少しばかり離れていた。本拠は鎌倉にあるので、ここはあくまで仮住まいだというが、かな りの規模である。

ぐるりと囲まれた塀の外、東四足門の前で待っていた譲の前に、景時がごめんごめんと口にしなが ら現れる。家のものに話を聞きにいっていたのだ。譲にも来るかと訊ねたが、現状を考えた彼はあ っさりと辞退し、門の前で待つことしばらく。道行く商人や一般市民を眺めていた。


「それで、わかりましたか?」
「うん、ここから少しまたいくけど、いいかな?」
「構いませんよ。そのために来たのだし」
「いやぁ、本当にごめんね。すぐ終わるから」


苦笑を交えながら、連れられてきた馬の手綱を握る。彼の馬はとても立派なもので、蒙古の血が混 じっているのだという。干血馬、という品種だと景時は言った。この種の馬は持久力に優れ長く走 っても平気なのだそうだ。頼朝から賜ったこの馬を、彼はとても大事にしている。


「本当に、すぐ終わればいいですけど・・・・・・」
「平気だって。話を聞く分には問題ないだろうからね。それより、譲くんは大丈夫かい?」


ひらと身軽な動作でそうそうに馬に跨り、景時は見下ろしながら聞いてくる。きっと、最後の問い かけには心配も含まれているのだろう。譲は、乗馬にまだ慣れきっていないのだ。
戦に出るのに、馬に乗れないのはかなりの痛手である。歩兵戦はそれだけ命を危険に晒すことにな るし、なにより譲自身は白兵戦――刀で斬りあう戦法――は不向きである。宇治から京に拠点を移 してからこっち、暇があれば馬になれるようにしているが、その手つきはかなり危うい。


「乗らなきゃ乗れるようにならないでしょう」


と、馬に跨ろうとしてもじたばた大騒ぎしてようやく乗れる程度なのである。これでも、上達した ほうだ。最初のころは九郎が気を使って温厚な性格の馬を貸してくれていたのだが、それでも振り 落とされる日々が続いた。不思議なことに、望美といえば自分と同じ、馬に慣れていないかと思い きやそうでもない。当たり前のように一人で乗りこなす姿に呆然として、なんでと思って、そして 置いてけぼりを食らった気分だった。

守るためには必要なスキルである。いくら肌を擦りむこうと、青あざを作ろうと、身につけなくて はならない。


「うん、なるべくゆっくり行くから、馬を無理に動かそうとしないでね。手綱は軽く握って、止ま るときは馬の胴体を足で締めながら綱を引く」
「・・・・・・はい」
「上体を楽にして背筋を伸ばさないと方向転換できないから」
「・・・・・・はい」
「で、馬も生きてるってことを忘れなきゃ、平気さ」


最後の一言はずっと言われ続けていることだった。生真面目に頷いたのを確認して、景時は馬を出 す。時々振り返って悪戦苦闘している姿を見ては一声かける。馬に乗るコツは馬に乗ってしまった ら堂々としていることである。おっかなびっくり、引け腰のまま乗っていては背中に乗せている馬 のほうが不安になって騎手を落とす。

そうこうして周りの景色が少し変わった頃、やはり景時は一つの屋敷の前で馬を止めた。先ほどの 哉道の屋敷よりかは少し規模が落ちる。だが、門から見える邸内はちゃんと手入れが行き届いてい るし、こざっぱりとしている。

最初の印象としてはすっきりしている屋敷だな、と譲の目に映る。塀の上には瓦はなく、真っ直ぐ 立てば頭が見える程度の高さで、四足門はない。馬上から見える庭先、つまり南庭に人工池はなく 、こじんまりとした寝殿にあつらえた飾りは数は少ないものの、かなりいいものを使っているのが わかる。いいものは、どんなに少なくても小さくても、その存在を目立たせるのだ。


「えっと、ここだね。確か今江って女房だったはずだけど」
「いまえ、さん・・・・・・ですか」
「うん。俺と同じくらいの年だって聞いてるよ」


馬の背に跨ったまま会話をしていると、先に伝令を出していたのか中から門人が出てきた。そして 、景時の姿を認めるなり地面に膝をつき恭しく口上を述べる。途中で遮るわけにもいかないので一 応、それらしき顔を作って聞いているものの、傍らにいる譲は慣れていないのかそれとも生来の性 分なのか、腹の横辺りがこそばゆくて仕方ない。





こちらです、と言って通されたのは景時が言っていた今江という女房の局の前、廂より一つ中に入 ったところだった。通常、寝殿造りの屋敷では来客とはここで対面する。女性は帳を降ろしたまま 向こう側から会話をすると思っていたのだが、彼女は違った。


「お初お目にかかりまする」


そういって頭を垂れれば、豊かな黒髪がさらりと肩から流れ、単の裾を通り越して床までついてし まう。続けて今江にございますと名を名乗り、景時が面を上げさせた。


「今回訊ねたのは他でもない。哉弼殿のことでね」


前置きをすっ飛ばして景時は切り出した。胡坐をかいて、心持声も低い。いつものようにふわふわ して弾むような口調ではなく、一本ゆるぎない芯を通したような、そんな声だった。


「哉弼様は私の母が乳母でございました。そのころから御付の女房として控えておりました」
「君が最初に見つけたそうだね」


彼の死体を、とみなままで言わないのは景時なりの配慮だろうか。譲は、彼より少し後ろに座った まま背中を見た。ちらと見えた横顔、その瞳は厳しい。


「・・・・・・はい」
「どんな様子だったのか話してもらえるかな」


一瞬、視線を彷徨わせた今江は膝の上に重ね合わせた彼女の手を見つめた。白魚の、とはいえない が白く柔らかそうな手をしている。日に当たることは少ないのだろう。伏せた面は白く、大きな黒 の瞳が言葉を捜しあぐねているように揺らいでいる。

きゅ、と景時は口の中を小さく締め、それでも促した。話してほしいと。


「私が哉弼様を見つけましたときは夕刻でございました。あたりが薄暗くなりまして、灯明の油を お持ちして火を入れようといたしました」
「そのとき、君は一人だった?」
「はい。朝から哉弼様のお姿が見えなく、お戻りがいつになるとも知れませんでしたので」
「戻るのがわからないのに火を入れに行った?」
「ええ、哉弼様はお屋敷の裏門から人知れずお戻りになることが多々ございました。お部屋が暗く ては不自由だろうと思いまして、いつもそうしております」


ふうん、と景時は相槌をいれ、また促す。譲は黙ってこの場を景時に任せている。

さやさやと、背中のほうで草木が揺れる音がした。局を正面にしていると陽の光が僅かしか入って こず、対面している今江の姿は、日中だというのに半分影に隠れてしまっている。この天井をぱっ くりと開けてしまえば底なしの晴天が広がっているというのに、なんだか、ここだけ夕暮れが過ぎ て夜が迫る少し前の、なんともいえない暗闇に包まれている気分になってしまう。


「私が灯明をお持ちいたしまして、哉弼様のお部屋に入りますと、その、なんだか変な匂いがいた しまして・・・・・・異変を感じました」
「それで」
「御帳台の方に明かりを向けまして、そして・・・・・・見たのです」


今江は苦しそうに顔をゆがめた。みしりと音がしそうである。手を喉元にやり、浅い呼吸を何度も 繰り返す。思い出したくないのだろう。そして、思い出させたくないと景時が思っていても、ここ はこらえて話をしてもらうしかないのである。事件が起きて短くない時間が経ってしまった今、彼 女の記憶はかなり重要だ。


「何を、見たのか話をしてくれるかい」
「――哉弼様のお体に、大振りの刀が、刀が刺さっておりました・・・・・・!」


ひゅうと息を呑んだ譲とは対照的に、景時は長い溜息をついた。今江の顔はもはや蒼白になり、今 の話が作り話でも空想でも何でもない、ただの事実であることを物語っている。しばし、誰も言葉 を発しようとはせず、日中だというのに漂う薄暗闇がわずらわしかった。

ふうん、と幾分か抜けた音を出したのは景時で、長い手を顎の辺りにやり、ひとしきり何かを考え ているようだった。そして、他所にやっていた視線を今江にやり、その外は、と聞いた。


「その他・・・・・・でございますか」
「君はその光景を見たんだよね。他に何か目についたものはなかったかい。変わったところ、それ から君はどうしたんだい?」


景時には珍しく、遠回りな口調をしていなかった。今江は質問を受けてさすがに話したくは無いと いった様子だが、それでも一度唾を嚥下し、唇を湿らせてから話し出す。


「御帳台の中は・・・・・・その、血にまみれておりまして・・・・・・お恥ずかしいことですが 、私はそこで倒れてしまいました」
「無理もないね。それから?」


軽い相槌一つ挟んで、先を促す。


「気がつきましたらすぐに人を呼びにゆきまして、戻ってきたときには・・・・・・」
「哉弼殿の姿は無かった、そういうことだね」
「はい」


固い面持ちのまま、今江は頷き返し、失礼と目顔で合図を送ってから傍らの冷水を手に取った。杯 に入れたそれを一気に飲み干してしまうと、はあと心地をつける。もう勘弁してくれと言いたげな その仕草を汲み取った景時は、ちょっと振り返って帰ろうかと譲に言った。


「最後に一つ、いいかな」
「何でございましょう」
「哉弼殿は、どんな様子だった?」
「・・・・・・仰向けに倒れておりました」


単純そうに見えて複雑な様相を呈している今江の話を最後まで聞き届けると、景時はやっと笑顔を 見せた。そして、話してくれてありがとうといつもの口調で言った。

外に出ると、空はやはり快晴であった。
















馬の乗り方は良くわかんないので適当です。はい。
望美が出てきたけど話に関わらないのかな?
えっと、よくわかりません、全部。あはは。