伏籠 9




女は言った。


「お前が見ている世界が真実だと思うかい?それはとんだ思い上がりだネェ。この世はあまたの人間の認識でできてンのさ。認識しない事実は存在しないし、 存在しない事実は認識できやしない」


それでは矛盾している、と男――少年といっても差し支えない年の頃合だが、なぜか少年にしては背負うものが大きいような印象を受ける――が言った。

その言葉に、女はまたフンと鼻から息を抜いた。


「矛盾?この世は苦界でございますよ、熊野の。この世から矛盾を取り払ったら誰しも生きられない。だから人は忘却と誤認を繰り返して日々の生を受ける。忘れるッてことは幸せなことサね」

「じゃあ、誤認ってのはなんだよ?」

「誤認――先入観、思い込み、錯誤とも言うネェ。たとえお前が女を悦ばせたッてそれが演技だとわからなければ坊や、アンタは自分の妙技を過信するだけ。コッチもとっても幸せだね」

「・・・・・・そんなん例えに使うなよ」

「あァらごめん遊ばせ?事実は常にねじくれてンのさ。それを知るか知らないか――それはとても大きなもの。知ったところで、そこには無味乾燥な荒野が広がってるだけだがネ」


女は眼を伏せ、手の中の杯をもてあそんだ。その爪には漆が塗ってあり、白く長い指によく映えた。女はこれにかぶれない質で、光の加減によって茶色とも紅ともなるこの色をよく好んだ。

ヒノエは、一口で酒を呷ると、うめくような声で言った。


「アンタにはそのねじれってのが見えるのか」

「サァてね。それこそ知ったところでどうにでもなるモンじゃないだろ?」




そう、確かに知ったところでどうなるものでもなかった、とヒノエは無感動に広がる空を見上げながら思った。真実を探り当てたところで死者がよみがえるわけでも、移った心が戻ってくるわけでもない。 ただ、人はものすごい勢いで流れる時間と大挙してやってくる過去に対して、ひたすらに喘ぎながら処理していくことしか出来ない。


「ヒノエくん?どうかした?」


その処理が少しでも間違えば、人々は実際の現象と違ったことを事実として認識し、己の頭の中に収める。


「ヒノエくん?」


たくさんの誤認と忘却の中で人は生きる。真実を探している、知りたいと願ったところでそれを受け止める器に穴が開いていれば、 その時点で真実はただの事実に成り下がり、価値を失う。

その、誤認が他人と重なり合ったとき、人はその部分を真実と呼ぶのだろう。


「・・・・・・あぁ」


では、真実など初めから存在しないではないか。

「存在しない事実は認識できない」――昨夜の女の言葉が、酷く胸に重かった。


「すまないね、姫君。今頃になってやっと――」


それでも、この腕に抱くものがしっかりと存在していればいい。それだけが救いといえば救いで、失えば生きる意味を失うのかもしれない。


「やっと判ったよ」


庭から芥子の花を見つけてきた弁慶が見たものは、ヒノエが頭領になってから初めてといえるほど儚い笑顔で、そして晴れやかだった。


「で、アンタはちゃんと見つけた、と」

「・・・・・・えぇ、これですね」


と手の中の赤い芥子の花を見せ、どうかしたかと聞いた。それに明確な答えを見せず、その場から離れた三重を追って夏澄のいる対へと大股で歩んでいく。 その背中は望美の目にとても広くたくましく見えた反面、どこか抱きしめずにはいられない衝動に駆られた。

まるで、これから戦地に赴く男を見るような。


「ヒノエくんっ!」

「ヒノエ!?」


早足のヒノエが、夏澄の部屋の御簾を跳ね上げるほうが早かった。

三重が、夏澄に縋って意味不明なことを口走っている最中であった。その言の葉は宙ぶらりんに外に漏れ、 向かってくる夏澄の敵意を流すかのようにヒノエは眼を細める。


「へぇ、不思議なあざをお持ちの姫だね?」

「やはり、熊野の頭領殿でございましたか」


夏澄は藤衣に包まれた首をついと伸ばし、臆することなく彼の正体を言い当てた。


「父から聞き及んでおりました。熊野の頭領はひどくお若い方だと。このような場面でお会いしたくはなかったですわね」

「アンタがやったんだろう」

「何のことでございましょう」

「とぼけても無駄だね。その痣、成隆との褥で付けられた痣だろう?朝起きてから焦ったんじゃないのかい、夏澄姫?」

「この痣についてはお話できませんの」


ヒノエは、むき出しになった夏澄に対峙するにふさわしくヒノエをむき出しにしていた。

彼は冷酷な一面を持っている。関心がないものに対しては無感動で無感情だ。今、ヒノエにとって彼女を切り捨てることさえ眉一つ動かさずになせるだろう。

いつもとは違うヒノエがまとう空気に、望美はこくりと息を飲んだ。


「わたくしが吉野を殺したとおっしゃいますのね。では、どうやって?」

「アンタ、一昨日の夕刻に吉野を部屋に送ったって言ったろう。本当は、この部屋につれてきたんじゃないのか?そして首を絞めて殺した」

「あら、それでは成隆殿が逢瀬したという方はどこの誰でしょうかしら。怨霊が、この屋敷に?」


勝気にそう問う夏澄は本当に美しい姫だった。すっと伸びた眉は聡明さを表現し、涼やかな目元には雅さを保ち、黒髪との境の額は磁器のように滑らかである。 縋る三重を払った手は生まれてから日に当たったことがないように白い。口元の笑みは不遜をそのまま描いたようだ。


「アンタだ、夏澄姫。朔の日は明かりがなければ真っ暗だからね。夜目に慣れてない成隆が間違うのも無理ない――まして、酒と芥子の効果があればなおさらさ」

「面白い――ですが、証拠は」

「油の中の芥子の燃えカス、あんたの首の痣。それに、吉野の死体についた香り」


不遜さにヒビが入る音がした。夏澄が手に持った扇が床に落ちた音か、笑顔が顔から消えた音か。


「香り――うちの軍奉行は香りに精通しておりましてね。自ら調合するほどなのですが。その彼が教えてくれましたよ」


ヒノエの言葉を受けて弁慶が補足する。だが、夏澄の耳には明らかに届いておらず、ただひたすらヒノエを見つめていた。憎いと思う視線は恋をする視線と紙一重だ。


「夏澄姫、アンタは普段から白檀に包まれているからわからないだろうがね、吉野の死体にはこの部屋の香りがこびりついていた。 死体に香りが移るほどだ。そんな短時間で匂いは移らない」

「・・・・・・そうですね。それに、吉野殿がなくなったのは明らかに明け方ではありませんでしたし」

「どういうことですの、武蔵坊様」

「僕たちは彼女が死んだ昼間にこちらに伺っております。死体を改めさせていただきました」

「・・・・・・」

「もし、その日の明け方に殺されたのなら、死体は全身が固まっているのですが、指先までということはない。 しかし、僕たちが見たときは指先までがっちりと固まっていたのですよ」

「何かの間違いではなくて?」


夏澄の言葉に、弁慶はぞっとするほど綺麗な笑顔を浮かべるため唇を歪ませた。


「――何千という死体を見てきた僕に、愚問ですね」


戦場も白骨も、血ですらまともに見たことのない夏澄には、それはまるで酒天童子が火車から見せる笑顔にも見えた。 が、ぐらついた己を律するために強く扇を握り締めて背筋を伸ばす。


「なぁ、夏澄姫。言ったよな?一昨日、吉野はこの部屋に来なかったと。それなのになんでアンタの愛用の白檀が染み付くんだ?それも肌から香るほどに?」


ヒノエは容赦がなかった。水軍の荒くれを纏めるには懐の深さと非情さが必要だ。その非情さがたったひとり、 ちっぽけな夏澄に集中したとき、向けられた夏澄は恐れおののき逃げ場を探して無駄ともいえる足掻きをするしかない。


「成隆は確かに吉野の部屋に来た。そして首を絞めた。しかし、その女が吉野とは限らないんじゃないのかい? アンタ、生前の吉野と良く似ていたんだって?それを利用したのかな。死んだ吉野をこの部屋に置いておいたのは夜に自分がここにいたと思わせるためだろう ――そこの、三重に」


ヒノエから向けられた視線にひいと三重が顔色を失くす。空中のあらゆるものを切り裂いてはばからないその視線に、三重は恐怖に笑う膝を押さえることが叶わなかった。 再び降り立った二体の悪鬼は三重にとって悪夢のようであり現実感が欠落している。彼女の正気はもう、限界に近い。


「成隆が部屋を出た後、死体をこの部屋に運ぶ。何、衣は全部引っぺがすんだ。お前一人でだって出来るさ」


夏澄は気丈にもヒノエを見ていた。


「三重が見たという寝ている『夏澄』の姿。成隆が抱いたという『吉野』――この二つがねじれの原因だ」


――夏澄は気丈にもヒノエを見ていた。















背景に朱雀をもってきてみました
悩んだ末ヒノエが謎解き。話の流れ上、彼にやっていただくことに。
夏澄にダキニ降臨しちゃいました。あは。