伏籠 8
三重の案内で三人は吉野の局へと通された。
局の中は質素というわけでもなく、さして華美というわけでもない。隅々まできちんと手が届いており、ひとつひとつの調度も生前の吉野の気品さを感じさせるものだ。
入ってすぐに御帳台があり、衣架という、着物を広げてかけるもの――仕切や衣に香りをつけるのに使用するものが見えた。几帳台のそばに燭があり、火芯はほとんどない。
――きちんとしてるなぁ・・・・・・
望美は思わず、この時空にはない自分の部屋を思い浮かべ、苦笑いをしてしまった。もしも唐突に、死ぬということはないにしても、
入院やしばらく帰れないとなってしまったとき、あの部屋は見せられない。
――還ったら、片付けよう。うん。
三重は、穢れを嫌って入ってこなかった。局の入り口で控え、三人の様子を窺うわけでもない。
「ここで、その、吉野さんが・・・・・・?」
「ふふ、姫君。怖がることないさ。オレがついてる――ね?安心しておくれ」
「ヒノエ、そんなことをしている暇があるなら、こちらを調べてください」
御帳台の中から弁慶がくぐり出てさりげなく望美とヒノエの間に割って入る。褥は吉野の遺体を運び出す際、一緒に外に出したのだろう。
御帳台の中には畳が二枚、乾いた地面のようにひいてあるだけだった。
「昨日、なんのためにあそこに行ったのです?」
「・・・・・・アンタのほうが、よっぽど詳しいと思うけどね、クソ法師」
「残念ながら、僕はその分野に疎いのですよ」
にこりと笑う。
望美はなんのことかと聞いてみたが、いつものごとくはぐらかされた。
「あぁ、やっぱりあった。結構な量だっただろうね」
「え?な、何が?」
「芥子、ですよ、望美さん」
「けし・・・・・・芥子って、あの」
「そう。今頃咲き始める――毒薬とでもいいましょうか」
「アヘン、ですね。でも・・・・・・なぜそんなものがここに」
ヒノエは燭台に溜まった油を中指で掬い、それを懐から出した布にこすりつけ、望美に見せた。油独特の染みの中に、黒いものがこびりつき、
紙が燃えたかすではない――塊が浮かんでいた。
「芥子ってさ」
「え?」
「芥子の花は一日で枯れるんだ。で、成熟しきってない果実から乳液を取ってそれを乾燥させて――って作るらしいぜ」
「ふうん・・・・・・」
「で、効果は知ってのとおり、気分がよくなる、幻聴、幻覚――五感の麻痺、と」
弁慶はこくりと頷いた。それを恨めしそうに睨みながら、ヒノエは言葉を止めない。
「ったく、アンタが行けばいいのにさ。アイツ、アンタによろしくってよ」
「ふふ、あそこは現役は嫌いますから。それに、彼女のほうが僕よりこういったことは詳しいですからね」
「あぁ、それと――景時は、何て言ってたんだ?」
望美は二人の会話に全くついていけない。大体にして、この二人は二人だけでわかっていることを前提に話しているのだ。今朝からずっとそう。約束なんてしなければよかった。
「文字を教えるから、代わりに姫君と一日過ごさせてくれるかい?」と囁かれた時からきっと決まっていたのだろう。
会話から離れた望美は、ぐるりと局の中を見回した。弁慶が言っていたとおり、遺体を発見してから的確な処置をしたため、特に「穢れ」を感じるわけではない。
しかし、四隅に集まった影が、どことなく気にかかるのも事実。これは一体なんだろうか。
それに、この香り。
沈香の、ゆったりとした清廉な香りの中に、どこか――そう、まるで清流の中に一筋の酒を流したように存在を主張する香りが混じっている。
「景時はやはり優秀でしたよ。嗅いだだけで判りました」
「あぁ、で?」
「沈香と白檀が混じっているそうです。おそらく、調合したわけではなくあとから香りが混じったのではないかと言っていましたね」
それと、と思わし気に言葉を切り、ヒノエを見てまた笑った。しかめ面を隠そうともしない彼に、望美はちょいちょいと袖を引いた。
「なんだい、姫君?」
「ね、白檀って・・・・・・」
「あぁ、さすがは姫君だね。さっきの夏澄姫からしていた香りが白檀だよ。まるで涼風のような香りだっただろう・・・・・・神子姫には、
もっと華やかな、沈丁花がお似合いだけれどね」
「ヒノエ、よくもこんなところで望美さんを口説けますね」
「悪いね。美しい姫を前に押し黙るは何よりの罪悪さ」
さて、とヒノエが望美の手を引いて外に出た。中での会話を一言一句聞き逃さなかったのだろう。三重はまるで悪鬼に出会ったかのようにひいと声を上げ、立ち上がることもままならなかった。
それを、ヒノエは眉一つ動かして口元をいつものように不遜にゆがめる。後から出てきた弁慶にいたってはにこやかな雰囲気を崩さぬまま、三重に尋ねた。
「さて、お聞きのとおりです。三重殿、僕たちに、何か話していないことはありませんか?」
「あ、あの・・・・・・わたくしは」
「いいえ、貴方を疑っているわけでも、こちらの姫を咎人に落とすつもりもありません。ただ、真実を知りたいだけですので」
「わ、わたくしは・・・・・・一昨日、姫様を見ましたし、眠っておられました!」
「それは確かですか?」
「え・・・・・・」
弁慶のいわんとしていることをヒノエが引き取り、さらに畳み掛けた。
「寝ている姿、は見たが顔は見ていないんじゃないかい?」
「・・・・・・」
「手燭の明かりで照らしたとき、夏澄姫の顔までは見えなかった――違うかい?」
「・・・・・・ひ」
三重は顔の色をなくし、目の前に立ちはだかる二体の悪鬼からどうやって我が姫主を守ろうかと算段をめぐらせる。あぁ、やはり成隆がいけなかった。
あの男がこの屋敷に来なければ、いや吉野なんかに心変わりしなければ、こんな風に――地獄の記録者を目にすることはなかったのに。
口をつぐめばさぁと下腹部に直撃するような低い声で促される。
眼を逸らせば酒天童子が笑っている。
逃げ場は当になく、わけもなく震える体は言うことを聞かない。ついに三重は肯定するよりほかなかったのである。
夏澄はゆっくりと息をついた。
皐月晴れが続いている。先ほど見えた神子という人が、神泉苑で舞い雨をもたらしたという方だとは父から聞き及んでいるが、どうでもいいことだった。泣く演技にももう疲れた。
この屋敷の北の方が吉野の葬儀を出さないといったのは僥倖だったかもしれない。これ以上、あの女に振りまわされるのはもうごめんなのだ。
どうでもいいのだ。吉野はもういない。吉野に移ってしまったおろかな男は牢につながれている。
判るわけがないのだ。計画は完璧。
なんのためにわざわざ朔の日を選び、庭に芥子を植えたのか。
判るわけがない。誰も知らない。
けれど、先の神子ではない人物――源氏軍の軍師とその見習い――のことがただ気にかかる。
何を調べている?何に感づいた?何がわかった?
それは、夏の日差しが落とす色濃い影のよう。光が強ければ強いほど影は濃度を増し、瞳に焼きつくのは光ではなくくっきりとした影の形。あぁ、まるであの軍師はその影のよう。
傍らの男は眩いばかりの光。では、自分は。
自分は、あの二人を前にしっかりと受け答えできていただろうか。
「・・・・・・いいわ、いらっしゃいな」
小さく呟いて、夏澄は喉元まで扇を持ち上げた。
そこには、あぁ――蛇が絡みついたような薄い痣が。
さっさと解決しろよー。どっちでもいいからー
芥子に関する記述は資料を基にしていますが、若干嘘。