伏籠 5
景時の屋敷で休んでいた望美は、遊びつかれたのかうとうとし始めてしまった白龍のそばで、ぼんやりと庭を眺めていた。
先ほどお昼を平らげ、九郎も景時も弁慶、そしてヒノエまで不在だというので朔から借りた書物を読むともなしに読んでいたのだ。
空は快晴。
風が吹くたびに木々がさざめき立ち、傍らの白龍の寝息も手伝って今にも寝てしまいそうになる。借りた書物の内容はさっぱりわからない。
これが文字かと誰彼構わず聞いてしまいたい。筆を左手で持って適当に走らせたようにしか見えないのだから仕方ないのだが。
久々のお休みなんだから寝てしまっても構わないかな、などとぼんやり思っていると、急に視界が遮られた。
「きゃあ!」
「・・・・・・ふふっ」
不遜な笑い声はうなじあたりから聞こえてくる。これは――
「ヒノエくん?」
「嬉しいね。手のひらだけで判っていただけるなんて、姫君もよほど俺に会いたかったのかな?」
「もう!びっくりするでしょう!」
「おっと、あんまり声を立てるなよ?白龍が起きるぜ?」
そうだったと口を塞いでから気付く。
「そうじゃない・・・・・・」
ヒノエは望美の双眸を覆っていた手をするりと外し、背後から柔らかに抱きこむ形で止まっていた。顎を彼女の肩に乗せ、
貝殻のような小さな耳朶に唇を寄せて甘く囁く。
「俺は姫君に会いたかったんだけど・・・・・・」
「ヒノエくんてばまたそういうこと言う」
「ははっ、つれないね。俺はいつでも本気なのにさ」
「いつもそういうこと言ってるから信用できないの」
望美が本格的に身を捩る前に、ヒノエは拘束を解く。
白龍は望美に寄りかかる形で眠っていた。三人がいるのは寝殿の南庭に続く階のところで、昼下がりの日差しが薄衣のように空間を明るく照らし出している。
白龍の反対側に腰を下ろし、望美の膝の上にあった書物を取り上げた。
「へ〜ぇ、こんなの読んでたの」
「うん。っていうか、全く判らないんだけどね」
潔くきっぱりと言い放った望美に、思わずヒノエは吹き出してしまった。
「ぶっ、あはっははっは」
「な、なに?」
「わかんなかったら、いつでも俺のとこにおいで?すぐさま読めるようにしてあげるからさ」
抱えた膝の上に顔を乗せ、下から覗き込むように望美を見つめれば、陶磁器の頬が面白いようにみるみるうちに薄紅に染まっていく。
表情豊かな新緑の双眸は慌てて視線をさまよわせ、藤色の髪が風に舞った。
「あぁ、ただ教えるってのはつまらないな・・・・・・」
「えぇ?」
「俺のお願い、一つ聞いてくれる?」
一方、弁慶は九郎の下に戻っていた。穢れの件はヒノエに任せることにして、こちらは九郎、ならびに景時への報告を担当することになったのだ。
景時は元を質せば桓武天皇に連なる平家の出である。彼と、今の主人たる鎌倉殿――頼朝との邂逅は涙なくして語れるものではないらしいが、
あまり興味がない。きちんと、己の立場を把握し現状に一役買っている彼は、もちろん義路とも面識があった。
というのも、もともと梶原党は関東を本拠地にしているが、彼は幼い頃から京で育った。当時はまだ院は帝の地位にあり、
景時はもちろん平家の一員として周囲と付き合っていたからだ。院とのつながりは義路のほうが深く長いに決まっているが、
当時内裏を席巻していた平氏と院の繋がりを無視することは出来ない。加えて、景時は非常に風流にも通じていたため、
院に近い義路と共に帝の位にあった後白河に何度か会っていたのだった。
そして、一つ聞きたいことがある。
「・・・・・・というわけなんですよ」
「そうか。わざわざ悪かったな」
お前も忙しいだろうに、と九郎は付け加え、隣に座った景時もうんうんと長い首を縦に動かした。話し終えた弁慶は口の渇きを潤すために出された白湯を軽く含み、
ゆっくりと嚥下する。皐月は、気候が温暖で晴れ渡る分、何かと乾燥しやすい。
「義路殿は情にお篤い方だからねぇ」
「えぇ、ひどく落ち込んでおられましたよ。――夏澄姫も」
「会ったのか?」
「いいえ。喪に服していますからね、彼女と直接話すことは出来なかったんですが」
「が?」
「夏澄姫御付の女房――三重、といいましたか、彼女と話すことは出来ましたよ」
三重は、風流に年かさを重ねたような女人であった。この屋敷に使える女房の中でも三番目に古いという。元は夏澄の姉の御付女房であったが、
夏澄が生まれたのをきっかけに彼女付きになったのだ。生まれも悪くはなく、気性も姫と合った。なのであえて嫁にはいかず、
今までずっと仕えてきた、と三重は幾分か誇らしげに言った。
弁慶は確かな記憶を引き出して、二人に話し始めた。
昨夜、三重は確かに吉野の部屋を訪れる成隆を見たと言った。
「ふうん、結構はっきりしてるね」
「まぁ、昨日の今日ですから、当たり前でしょうね。何でも、吉野さんに声をかける成隆殿の声をはっきり聞いたんだそうです」
そして、あぁ今夜もかと溜息を付いて女主を見舞ったのだという。なにせ、かつて結婚まで約束した男が同じ屋敷の、他の女を訪ねてきているのだ。
傷ついて涙を流していなければいいが――と三重はそっと妻戸から夏澄に向かって声をかけた。
「ちょ、ちょっと待った弁慶。な、成隆殿は、初めは夏澄姫と、その・・・・・・」
あえて景時は言葉を濁したにも関わらず、弁慶はあっさりと言ってのけた。もちろん、笑顔で、である。
「ええ、初めは夏澄姫目当てで通っていたそうですよ?」
「それは本当なのか!」
「本当です。義路殿に確認しましたから。なんでも、屋敷に引き入れる役目をしていた吉野殿といつの間にか男女の仲になってしまったのだとか」
「か、夏澄殿は――」
「あぁ、初めはさすがに傷ついたようですがね、仲睦まじい二人を見て許したそうです」
あけすけな弁慶の物言いに、九郎の思考回路は付いていけない。何をどう間違えれば恋人の女房とそうなってしまうのかわからなければ、
それをあっさり許してしまう夏澄の胸中もわからなかった。女人は難しい。改めてそう頷いてから、それてしまった話を元に戻す。
折しも、昨晩は月が無い夜だった。とうに寝てしまったかと思った三重は、急に灯明の油が切れていることを思い出したという。
真っ暗闇の中で付け足すのは危険極まりないし、かといって明日に持ち越せば忘れてしまうかもしれない。
それに、油が切れているから今晩のうちに足しておいて欲しいと夏澄は言っていた。
「それで、一旦ご自分の局に戻り、燭を持って改めて夏澄さんの部屋に行ったんだそうです」
寝ている主を起こすのは忍びないと思い、あえて今度は声をかけなかった。
暗闇に手元の燭だけを頼りに部屋に入ると、炎の揺らめきに不規則な影が出来上がり、いつも愛用している白檀が香った。
御帳台の中に寝ている夏澄を確認し、そっと油を注ぎだした。途切れ途切れ、風の向きによって声が聞こえてくるが、
こんなに熟睡しているのだからきっと気付きはしないだろう、そう思った、という。
「声、とは?」
「九郎、察してください」
無邪気に聞いてくる九郎に、やはり読みきれない笑みを浮かべて答えを拒否する。解答が得られなかった九郎は疑問いっぱいの瞳で景時を見やるが、
なかなかどうして景時の答えも要領を得なかった。
「そして、夜更けに忠実に命を果たした彼女は夏澄さんの部屋を出て、自分の局に戻りました」
出たとき、吉野の局から声がやはり聞こえてきた。
――・・・・・・めて・・・・・・つよ・・・・・・
閨の睦言を盗み聞きするほど質が悪いものは無い。年相応に恋愛も人生も経験している彼女はさっさと局に戻り、褥に包まった。あぁ、
自分にもあんな時機があったなと柄にも無く思い出しながら眠り、悲鳴で眼を覚ました。
「発見した女房はあまりのことに気を失ってしまったそうですよ」
と弁慶は結んだ。弁慶の話には不明な点が無く、それだけ自身の中で整理されているのだろう。だが、整理されきっているだけに、恐ろしく感情が排除され、
まるで記録を読み上げているようでもあった。ゆえに、聞き手の二人はこれといった感想をもてなく、ただそういうことがあったのかと納得しただけに留まる。
「うーん、どう考えても成隆殿が、その、吉野殿を・・・・・・って考えておかしくはないと思うよ?」
「あぁ、疑う余地はないんだが・・・・・・」
「でも九郎。君も言っていたでしょう?婚儀を控えた男が許婚を殺すものかと」
「それはそうだが・・・・・・」
ちなみに、ヒノエは屋敷の舎人に話を聞き、昨夜は他の来訪者はなかったと言っているし、侵入者も無かったと聞いている。つまり、実行できたのは――
「成隆殿以外に考えられんな」
九郎はこんがらがる前にすっきり結論を出した。
対し、弁慶は何か腑に落ちない顔つきのままである。違和感が瞳の前にとぐろを巻いて、素直に状況を見られない、そういった感覚が付きまとっている。判らないのは男の動機。
それさえきちんと判れば総てが丸く収まる。なのに、それでは己の頭が納得してくれないように思えた。
全く同じ感覚を、ヒノエも味わっていると弁慶は知っていた。義路の屋敷からの道すがら、会話の中で十分に感じ取れたことだ。
「それで、九郎。僕とヒノエに、成隆殿と会う許可をくれませんか」
「弁慶?」
「ここは一つ、会って話をするのが一番だと思うのですよ」
「それは構わんが・・・・・・」
何するつもりだ?といつに無く腹を探るような九郎の視線をやんわりと受け流し、今度は景時に向かい合う。
「景時、一つ頼みがあります。・・・・・・君を、見た目にそぐわぬ風流人だと見込んで」
一言多い弁慶に、景時は苦笑した。
景時に関する記述は嘘っぱちです
やろーばっか書いてても楽しくない。
くろーは絶対カマトトぶってます