還ってこないならもういいわ。

お好きになさればいいわ。

だけどね。

あたくしは許さなくてよ?

どうかお覚悟なさってね――獄中は、地獄の方がましだとお聞きいたしますから




伏籠




「あら、吉野、どうしたの?」

「あぁ、姫様、少し気分が優れなくて・・・・・・」

内裏にて執務を終えた父・義路(よしみち)を出迎えるため、この屋敷の姫である夏澄(かすみ)は自身の部屋がある西の対から寝殿へと移動していた。 その最中に、乳母姉妹である吉野の挙動不審さに眼を留めて気遣いの言葉をかけるも、とうの吉野は平気だといって首を振った。

「だめよ、吉野。無理はいけないわ?最近は平家の怨霊が町を跋扈しているのだし・・・・・・弱った体ではいつ狙われるかわからないわ」

「姫様、わたくしなら単に寝不足ですから・・・・・・」

さらに言葉を重ねる吉野は、言ってしまってからはっとした。うかつだった、と顔を伏せるがもう遅い。耳聡く、隣の古参の女房が意地悪く言い放つ。

「まぁ、姫様の前でよく言えたこと。あなた、義路様と姫様のご恩に仇で返したって、わかっていらっしゃらないようね」

「そんなつもりは・・・・・・軽率な発言、お詫びいたします」

「その可愛らしいお口ではなんとでも言えますものね。成隆(なりたか)様をまんまと騙しおおせたのだからねぇ」

「およしなさないな」

止めなければどこまで続くか判らない女房の口を縫い合わせたのは彼女たちの主人である夏澄の、静かではあるが強い一言だった。 だが、恨みがましい視線を送って言葉に従うも、やはり何かいい足りない様子。夏澄はやや苦笑して後ろを振り返った。

「私なら、もう気にしていないわ。吉野、どうか忘れてね?成隆様はとてもいいお人よ。きっと、貴方を幸せにしてくださるわ」

「姫様・・・・・・」

「祝言は近いのでしょう?だったらなおのこと、もう休みなさいな」

「でも、義路様がお帰りになる前にお休みするなんて」

「父上には私から申し上げるから――ね?さ、貴方の部屋に行きましょう?」

義理堅く、堅実な乳母姉の手を取って夏澄は歩き出した。主人に逆らうわけにも行かず、吉野はただ付き従うだけである。白い小袖の上に着た柔らかな色合いの 黄檗(きはだ)の袿が翻る。古参の女房が案の定、「送るなら自分が」と言い出したが、それを聞く夏澄ではない。 さっさと彼女をしたがえて西の対へと消えてしまった。

後に残ったのは沈香と白檀のほのかな香り。




その話が九郎の下に舞い込んできたのは、全く以って寝耳に水の話だった。

以前から、身分が身分なだけあって縁談や半ば強制的な顔合わせ―見合いは絶えることがなかったが、今度ばかりは無碍にするわけにもいかない相手だ。

が、しかし、その家とはあまりつながりがなかったし、おそらくは一生縁のない一族だろうと勝手に踏んでいたのがいけなかった。何しろ、かの後白河院直々のご紹介である。 自分には神泉苑でお披露目した許婚がいるからうんぬんと逃れようとするも、相手が後白河では分が悪い。

「何も正室にしろと申しておるわけではないのだ、九郎」

「は、しかし・・・・・・」

「側室あたりでどうじゃ?」

「い、いや、院・・・・・・」

「なに、おなごとややは多いほうがよかろうて、のう、九郎?」

それは質問という押し付けに近かった。

確かに、いついかなる状況でこの命を失うと知れない時代ではある。ましてや、自分は戦火の元に身を投じるのだ。己の子孫を残しておいて損はない。 ないのだが――九郎は、女人がこの世で二番目に苦手なのである。まともに話せるのは白龍の神子である望美と、景時の妹御である朔くらい。 それも、望美とは常に喧嘩しているのだか話しているのだか知れない。

そんな九郎が、いきなり見合いをしてそれなりの血筋の女性ときちんと対峙できるか。いや、きっとできないだろう。

「院・・・・・・戦が近いのです。そのような状況で・・・・・・その、このような話は」

「いやいや、無理は要らぬぞ。そなたも戦続きで疲れが溜まっておろうと思うてな」

「は、あの・・・・・・」

「なに、義路の娘は美しゅうてな。わしも手元に置きたかったのだが――」

後白河はつるりと頭を一撫でした。

二人は法住寺で余計な人を排除して話していた。なので、九郎には助けを求める人がいなければ退路もなかった。

後白河の身を包む豪華な袈裟に日の光が反射する。金糸を惜しまず刺繍を施したそれは、かの「大天狗」を飾るにふさわしく、九郎は思わず目を伏せた。 京の警護を司る彼にとってはさっさとこの場を辞して本来の執務に戻りたい。その一心が、ついに九郎に承諾の言葉を言わせたといっていいだろう。

六条堀川に戻ったとき、弁慶の苦言は甘んじて受けるとして、とにかく無駄にした時間を取り戻す勢いで仕事をこなすのみ、と強く心に誓った。




「はぁ・・・・・・君という人は」

「あぁ、いい、弁慶。それ以上はどうか言わないでくれ」

執務がひと段落し、院に呼び出された用向きを話し終えた九郎は、小さく顔を背けて弁慶の言葉から逃れた。皐月晴れの空がとうに暗くなり、 昼間の陽気が夜の透き通った涼しさに変わろうとする頃合である。

「しかし義路殿ですか・・・・・・よりにもよって」

「あぁ」

「確か、中立に近いお方でしたね。と、いうより院側の人間といいましょうか」

だから、断るわけにも行かなかった、ということである。

もしもこれが平家に近しい家の話なら自分の置かれた立場を語って逃げられる。逆に源氏に近しいならば、鎌倉にお伺いをといって時間稼ぎをし、その間にうやむやにしてしまうことも出来た。 院の側近の娘とあっては厄介の何者でもない。

平家討伐を口にして構わないのはひとえに院のおかげであるからであって、京で確固たる地位と力を振るえるのも彼の院宣のおかげである。ここで、彼の機嫌を損ねるのは、 あまり上策といえなかった。

どう転んでも置かれた状況から脱するすべを見出せない九郎は、弁慶に救いの目を向ける。

「まぁ・・・・・・望美さんには言わないほうがいいでしょうね」

「なんでここであいつが出てくるんだ?」

「これ以上、喧嘩はしたくないでしょう?」

にっこり笑う弁慶に、九郎は更なる質問を重ねることが出来なかった。

とにかく、頭を振り絞って逃れ口上を考えなければならない。

根っからの武士である九郎には、約束を反故にするという選択肢は初めから持ち得なかったし、かといって側室といえ迎え入れることも出来なかった。 ましてや、一夜の慰み者にすることも出来なかった。

昼間の、院の話の本当のところはこれだったのである。

往々にして、身分の高い者の世界というのは狭いのである。一度でも九郎に抱かれた女とあれば、彼女の将来に大きく影響する。源氏に情勢が傾いている今、 その源氏の名代が眼を向けた女とあれば世の男が興味を示すであろうし、もしそうでなくても一晩を理由に婚儀の話がずっとすすみやすくなる。

だから、厄介なのだ。

「まぁ、いざとなれば景時に泣いてもらいましょうか」

「おい、あいつに押し付けるのか?」

「だいたい、君がきちんとお断りしていればこうはならなかったはずですよ?」

「や、それはそうだが・・・・・・」

「さて、では僕は景時に報告に行きますね。今日はあちらにて休みますから」

笑顔を崩さない弁慶に反論できるわけもない。いや、反論したところでそれ以上の言葉で丸め込まれ、曖昧にされ、最終的には何を反論しているのかわからなくなるだけである。 これ以上は何も言うまい、と潔いのかどうなのか微妙なところで腹を括った九郎を見て、弁慶は一段と深い笑みを浮かべた。


この話は誰もが予測しえなかった方向に転ぶ。




翌日、追って使者を出すといった院の言葉を受け取った九郎を待っていたのは、全く違う報告だった。

思わず、素振りに使う太い木の枝を己のつま先に落としてしまったほどだ。

「なんだって?」

驚愕に、痛みを忘れた。

目の前の部下は膝を折って先ほど口に上げた言葉を、一言も違わず繰り返した。

「は。義路殿の邸内の、女房が殺されました」

愕然とした九郎は、とにかく景時の屋敷に居る弁慶に使いを出すことだけを、かろうじて出来たのである。







この時点でまだ探偵役を決めていないてけとーっぷりorz