熱病 9





長い間同じ檻で飼育されてきたオスとメスのゴリラは、生殖行動をしないのだという。

野生の森で群れを成して行動する彼らは、同じ群れにいるものを自分の「兄弟」として認識し、次 に生まれる子孫が濃い血を受け継がぬように回避するのだ。意識して行っていることではない。む しろ、本能が「ダメだ」といい、誰に教わるでなく、そう、遺伝子レベルで刷り込まれたものであ ると言っていいだろう。ゆえに、実際に血のつながりがなくても、同じ空間で長く過ごした相手と は決して繁殖行動を行わない。

人間と動物を区別する大脳新皮質はたったの数センチしかないという。

たった数センチに支配された人間はそのほかの動物が成しえないような、複雑なことをやってのけ るようになった。もともとヒトという動物は弱いものだから、防衛本能がそうさせたのかも知れな い。だが、新皮質を一枚剥いてしまえば野性となんら変わらぬのである。

では、その野生でさえ本能で回避することを回避しないというのは、どうしたらいいのだろう。

人間は、新皮質で他の動物ができないことをやってきた。様々なことを認識し、精査し、判断し、 行動する。しかし時に愚かになる。どんな動物でも絶対にしないような禁忌を、悪いと分かってい て犯すからなお悪い。

道徳だとか、規範だとか、そういった当たり前の行動指針を定めたその人間が、それを破り捨てる 。その瞬間、彼は一体何になるのだろうか。ヒトでもなく野生でもなく――ああ、ただのオスとメ スになるのだ。





あっという間に十月になった。時間の早さを早く感じるほどオトナになった証拠、などとはよく言 ったもので、実際のところは子供よりも大人のほうが一日にやらねばならないことが多いからそう 感じるだけのことである。寝て食って遊んでいればよかった時期はとっくに過去のことだし、望美 は環境の劇変に適応するだけで精一杯だった。こう思うとなんだか大学に入ってからの時間を無駄 にしているような気がしないでもない。

前もって授業の終了時間を聞いていた弁慶が、結局望美の大学まで迎えに行くと言った。運悪く、水曜日は 五時限目までカリキュラムを組んでおり、一旦家へ戻ってからでは時間が遅くなってしまうのだ。 というわけで望美は食事会へ行く格好のまま一日を過ごしていたし、事情を知った友達が軽くお化 粧もしてくれた。

いわく、

「あんた素材はいいんだからちょっとは飾りなさいよ」

だそうだ。


「えっと・・・・・・五号館の前って約束したよね」


望美の大学で目印になるのは五号館――通称ツタ館で通じてしまうほど目立つ建物である。歴史は それなりに長いらしく、この大学に足を踏み入れたことの無い彼でも、あぁと一つ頷いて分かった くらいだ。そこのエントランス前で落ち合い、適当にタクシーを拾った後、教授と娘さんの待つレ ストランに行くのだという。

腹の底が据わってない感覚が望美を襲う。授業があるのは先方も承知のことだから、重たい教科書 が入っているバッグは別として、こないだ買ったスカートが変じゃないかとか髪の毛がはねてない かとか、そんなことばかりが気になって仕方ない。

そうこうしてるうちに思考の流れは約束した夜に戻っていて、あの時に何なりと理由をつけて断れ ばよかった、と帰結する始末だ。かといってタイムマシーンの実現不可能が証明されている今、望 美があのときに戻ることは出来ない。大体、学生の身分でそんな先のことまで予定を詰めているな んて、滅多に無いことだ。

両手で提げたバッグの向こうから、自分のつま先が見える。衝動買いしてしまったオープントウの パンプス。目についてしまうから足の爪にペディキュアを塗ってみたのは昨日の夜。念入りに髪を ブローしたのは今朝。友達がイロイロなものを貸してくれて顔を整えたのはついさっき。何かが間 違ってるかもしれないという、不安にも似た思いがちらちら脳裏を過ぎ去るけれど、望美自身だっ て正解を知らない。


「望美?」
「あれ、将臣君」


ツタ館から出てきたのだろう。将臣がその長身を折るようにして声をかけてきた。身軽な格好をし た彼は、先を行く彼の友達と砕けた挨拶を交わして望美の前で立ち止まった。


「何、どっか行くの?」
「あー、うん、ちょっとね」
「へぇ・・・・・・それでいつもと違うのか」


曖昧に笑って変じゃないかと望美は聞く。こんなに自分の姿を気にするのは、きっと、初対面の偉 い人と会うからだと無意識のうちに原因がスライドしていた。


「さぁ?いいんじゃねぇの?」


しかし返ってきた言葉は無責任をかたどったようなもので、いささか脱力してしまう。将臣の言葉 は、つまるところ「特に変ではないので特に言うべきこともない」ということ。望美の質問に託さ れた期待とは全く明後日の方向もいいところだ。


「似合ってる」
「・・・・・・適当に言ってるでしょ、将臣君」
「聞いてきたのはそっちだろ」
「そうですけどもね」
「あーはいはい、可愛いですよー見違えるくらいにーオジョウサマみたいですよー」
「もうっ!」


望美が、からかいをくれる将臣に向かっていつものように小突くその瞬間だった。視界の端っこに 琥珀が過ぎ去ったかと思うと、耳に入り込む、雑音とは一線を画する声が聞こえた。


「――望美さん」


耳朶に滑り込む声とも言おうか。きっと、この音に色がついているのだとすれば、金に近く透明な 色をしているに違いない。ビロードのように柔らかでありながら、芯が通っている。振り向いてみ れば、かの人は暗がりに存在感をあらわにして立っている。口元には穏やかな微笑を浮かべ、片手 にはスーツのジャケットがあった。

黒地に細やかなストライプがあしらわれたそれは、学校で目にする就職活動中の彼らが着ているも のとは大きく異なり、また着こなしからして違う。板についていると言い切ってしまうにはどこか 足りないものがあり、シルエットからして上質なスーツなのだと一目で分かった。


「あ・・・・・・」
「そちらは?」
「ええと、将臣くん、です。鎌倉の幼馴染の」


望美の短い紹介に、弁慶はすばやく合点が言ったようで、ああと頷き自分から名を名乗った。それ に対して将臣はどうも、と一言添えただけで終わってしまう。いたたまれない空気が流れた。気の 早い夜は早くも支配せんと闇を地上にもたらし、ともすれば対峙している人の表情が隠れてしまう 。視界の隅に、イミテーションの真珠を散らしたように星空が見えた。


「いつもお世話になってるみたいですね」
「や、まぁそれほどでも。ノートいっつも見せてもらってますし」
「仲良くしてくれているんですね」


と弁慶はにこやかに笑った。

なんて、なんて偽善めいた言葉なのだろうか。この人と過ごしてきた時間は、将臣とのそれの比で はないはずなのに、まるで、ずっと昔から一緒にいたかのような口を利く。それとも、それだけ望 美を妹として大切にしてくれている証拠だとでもいうのだろうか。いいや、ならば。

――ならば掻き乱さないで欲しい。


「さて、あまり長話をしていると遅れてしまいますね――望美さん」
「はい?」
「行きましょうか。教授も待っていることですし」


はいとしっかりした返事も無く、望美は弁慶のほうへと足を向けた。望美に向けられる視線に、含ま れるものを将臣が感じ取ったのはほんの一瞬のことだった。はっとしたが呼び止める用事も無く、 じゃあなと過ぎ去った違和感に蓋をするしかなかった。感じ取ったものを暴いてしまおうという感 性は彼の中に存在せず、結局、肩を並べて人ごみの中へと消えてゆく二人を見送る。少年のあどけ なさが失せてゆく頬を、秋風が撫でた。




道すがら捕まえたタクシーはテレビドラマで使われていそうなホテルの前で止まった。ここで、と 弁慶の心持低い声が狭い車内に響いて、彼が精算している間に望美は外に出た。さして長い時間乗 っていたわけでもないのに、車中で交わした会話は皆無に等しく、将臣の前で見せたにこやかさは 一体どこへ行ってしまったのだろうかと、口を開くことを躊躇うくらい重たい空気を運んでいた。

夜空に浮かぶ街灯が現れては後頭部へ流れてゆくさまを、望美はじっと数えているうちにタクシー は止まり、外に出てようやく、一息ついた感触がある。場所が場所でなかったら、大きな伸びでも したいくらいだ。


「・・・・・・」
「行きましょうか。レストランはここの十七階だそうですから」


それとなく望美を誘導し、弁慶は歩き出す。いつもとは雰囲気の違う彼女は、生来のもつ可憐さや 清廉さを際立てて、どこぞの令嬢でも通って不思議でなかった。整った外見をしているにも関わら ず、彼女は割合自分の外見に無頓着で、注がれる視線を意識すらしていない。

そう、きらびやかなエントランスからエレベータホールまで、何人の男が彼女を振り返ったか、知 りもしないだろう。

だから、一つ飾り立てたくなる。

他の誰でもない、この自分の手で。


「望美さん」


弁慶が望美に呼びかけたのは、エレベータが動き出して間もなくのことだった。平日の利用者は休 日より少なくて当然だが、レストラン階に直通しているらしいこのエレベータに乗っているのは彼 ら二人だけであった。さっきよりも密室度が高まった長細い箱は、それぞれの思惑を乗せたまま上 昇してゆく。


「なんでしょう・・・・・・か?」
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」


ふ、と弁慶は抑えて笑い、そして手にしたジャケットのポケットから銀色のものを取り出した。手 の中にすっぽり納まるほどの、筒状のものだ。三分の一くらいのところに切れ目が入っていて、一 瞬、望美にはそれが何だか分からなかった。


「どうぞ」


気安く渡されたそれを自分の手の中に収めてみてから、望美はそれが何なのかようやくわかった。

口紅。

それもドラッグストアやコンビニに並んでいるものではないとすぐに分かった。どこか、デパート ではなく百貨店に入っている店舗でしか手に入らない、高級なもの。海外ブランドが日本で販売す ることを考慮したのだろうか、竹をモチーフにしたデザインのものだった。


「え・・・・・・これって」
「君に、ささやかではありますが御礼です」
「お礼?」


お礼されるほどのことはしていないと望美は素直に言った。事実、これといって思い当たることが ないのだ。しかし、言葉を受けた弁慶はゆっくりと笑みの表情を作り、渡したときのように優雅に 口紅を取り上げた。


「いつも、家のことをしてくださいますからね・・・・・・君に、似合うといいんだけれど」


口紅の購入者は綺麗な指で少し固い蓋をあけ、紅をくり出す。淡く色つく、桜色だった。

さぁと弁慶が促した時にはもう遅く、望美の華奢な顎を捉えて柔らかい唇に優しく塗ってゆく。琥 珀の瞳が望美に身動きを許さなかった。咄嗟のことに大した反応も出来ず、少し冷えた指が、自分 の顔から離れていったときに血が昇る。

新緑を填め込んだガラス球のような二つの瞳は、大きく開いて目の前の男を映し出して、望美の瞳 の中の弁慶は満足げに笑って言った。


「良く、似合ってますよ。この色にしてよかった」


どうしてこの人はいつもこうなのだろう。唐突にこちらの動きを縛ってしまう。あの琥珀の瞳の中 を見たら危険だということは十分すぎるくらいに分かっているはずなのに、目をそらすことすら出 来なくなってしまう。綺麗に塗ってくれたことは確認するまでもなく、紅潮した顔を伏せて隠すの が精一杯だった。声も出ない。

この箱が悪いのだ。この一種密室状態を作り出す箱の中は、弁慶の支配領域――それもかなり中心 に近い――に等しく、そこに存在してしまった望美には当然、拒否権は用意されていない。鼻腔を かすめる香水の香りに混じって、煙草のにおいもする。密度を増した空気は望美の喉を塞いで、す ぐ傍にある気配が、より一層強く感じるのだ。

望美の手に改めて口紅を握らせたのと同時にエレベータは目的の階に到着し、出迎えのウェイター が荷物を受け取ろうと声をかけてくれても何も返せなかった。ぐうと押し黙る望美をよそに、弁慶 はさっさと歩いていってしまうし、それを追うより他ない望美は、この後に口にする料理の味も覚 えていなかった。

ただ、口にものを入れるたび、取れてゆく口紅がひどく惜しかったのは確かだ。











今回のポイント「女に口紅を塗る男」
冒頭のゴリラのネタは嘘か真かわからんちん(ぇ