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熱病 10





こんもりと盛り上がったベッドの中――とは言え、単にマットレスをそのまま床に置いているだけ なのだが――からにゅうっと腕が伸びる。手が届く範囲を当てもなくまさぐり、腕の持ち主は目を 開けるどころか布団のから顔を出しもしない。ううと呻くような声が漏れて、弁慶はやっと顔を見 せた。

両目の内側、目頭に力をこめてしかめ面を作り、仕方ないといわんばかりに上半身を起こした。目 的のものは、しばし遠いところにあったようだ。昨日、適当に放り出した腕時計は主を恨めしそう に床の上から眺めており、そいつをおもむろに掴んで目の前まで持ってくる。針を読み取るのに数 秒を要したが、結局、大きな溜息をついて這うようにしてベッドから出てきた。

急に体を包み込む冷気にふるりと体が震えて鳥肌が立つ。だが、この一瞬は意識を覚醒へと仕向け る働きがあった。上半身に何も着ないで寝るにはそろそろ寒い季節になったのだと、こんなときに 分かる。寝起きの、強烈に凶悪な顔つきのままテレビをつけてみると、女子アナがやけに滑舌よく 「十一月ももう半ばですねー」と満面の笑みで言っているところだった。

決して早起きといえる時間帯ではないが、起きたばかりというのは関係ない。何を考えるのも面倒 だし、気だるくて、ともすればもう一度ぬくぬくした布団に戻りたくなるものだ。しかしそんなこ とが許されるわけもないので、毎朝起きたら行うことをなぞるようにして体を慣らす。

ベッドに腰掛けたまま煙草に火をつけて、ニコチンとメンソールが駆け巡るのをゆっくり感じ取る 。テレビは垂れ流しにして、カーテンを、これまた座ったまま開ける。さぁと光をもたらす窓辺に 険しい視線を投げかけてから、ようやく立ち上がるのである。

その様子はまるで、情交のあとの無慈悲な男が女を振り払って去っていくようでもある。


「・・・・・・」


一人暮らしをしていたときならば、この格好のままうろうろとノロい動作で仕度やら朝のメールチ ェックやらをこなしていくのだが、自分以外の人がいる今、そんなことはなくなった。耳を澄ませ ば、ばたんばたんとドアが開け閉めされる音に混じって足音が遠ざかったり近付いたりする。木曜 日のこの時間なら、彼女はもう家を出る頃合だろう。階段を下りる音を最後にして、気配そのもの がなくなってしまった。


「・・・・・・」


部屋の中央、床に直接置いたテレビの傍らに立ったままの弁慶に、朝日があたる。

秋もいい感じでふかまりつつある今、朝の空気は部屋中に満たされた清水のごとく透明度をまし、 彼の姿をより一層はっきりさせた。上着を着るという、いたってシンプルな動作を省いて寝付くの は毎晩の話で、逆に目覚めにいいからと言い訳する始末だ。

研究室の学生らが金を出し合って買ったというジッポの蓋を片手で開けて煙草に火をつける。軽い 動作で浮き出る筋肉は、無駄につきすぎた感がなくかと言ってひょろっちい印象も受けない。細身 の部類に入るのであろうが、その実、きちんとつくとこにはついていたし、無駄な肉はなかった。


「――・・・・・・」


琥珀色の、透明でとろりとした蜂蜜のようなのに、その視線には一切の甘さがなかった。焦点をは っきりと結ばない視界の中央に据えたもの、それは真珠のピアスだ。

望美が出て行ったのはとうに分かっている。弁慶も一足遅く、一日の行動を開始した。





弁慶がゼミを一つ任されている、とは言っても完全にそのコマを受け持つわけではない。ついてい る教授の補佐と言うのが正しい表現かもしれない。教授の都合が悪ければ代わりに教壇に立つし、 そうでなければ、日がな一日本の虫になることもある。論文を書くための資料をかき集めては整理 をくりかえし、教授の分も――頼まれれば、だが――用意する。

そうこうしてるうちにどこからともなくお声を頂き、来春には正式に講師として大学に雇われるら しい。このような話を全く他人事めいた顔で景時に言うと、もっと喜べと苦笑されてしまった。


「はぁ、この書類を、ですか・・・・・・」


礼儀正しいノックの音の後に現れたのは自分がついている教授であった。三つボタンスーツをぴっ ちりと着こなして、丸メガネをかけているあたりはなんだか、お札に描かれている肖像のような印 象がある。弁慶の知る限りでも、柔軟な発想と綿密な考察が物を言い、名の知れた学者の一人であ る――試験の採点は厳しいが。


「そう、悪いんだが・・・・・・僕も、急に用が入っちゃってね」


眉を下げて困った風にいう。仕方なしに大きな茶封筒を受け取ると、意外にずっしり重い。中身を 聞けば、共同執筆した本の原稿だと教授が言った。


「それ、僕の部分の原稿なんだ。先方が紙で欲しいと言ってたんだが、急にいけなくなって」


ようはお遣いに行かねばならないらしい。さして難しいことでもないが、書きかけの論文が気にな る。ちらと背後に視線を流した弁慶に苦笑一つ零して、人のいい教授はこう付け加えた。


「そのまま帰っちゃっていいから。学生には言っておくし」
「研究生から相談をもらってますよ。そこのメモに書いておきましたから――読んでおいてくださ いね」


心持低い彼の声に、教授はあははと笑って出て行った。出際に、ちゃんとメモを取っていくのもわ すれない。なんだかんだで抜け目のない人である。だから、法学部副部長になっているのかもしれ ないが。

さてと気分を取り直して書類と一緒に渡された連絡先を見て、ぴくりと片眉が動いた。それは傍に いても分からないくらいの反応だったが、彼は、紛れもなく動揺したのだった。





弁慶のいる大学からそこまでは、電車で二十分ほど乗ったところにある。乗り換えの必要はない。 車体が黄色の電車に乗り込み、駅を出れば徒歩五分足らずでついてしまうのだ。そして、大学の校 門をくぐってすぐに目に付くのがツタが絡まった校舎である。

通称、ツタ館。

先日――といっても二週間ほど前になるが、望美と待ち合わせをした場所である。あのときの彼女 は、いつもと違って少しばかり飾るということをしていた。もともと人見知りはしないほうだと知 っていたが、さすがに教授と会うということで緊張もしていたのだろう。ぎこちない笑顔を懸命に 貼り付けて、関節が凝り固まったような動作で食事をしていた。

目を閉じれば、いつだって。

いつだってあの人の姿が浮かぶのだ。もう、これは重症としか言いようがないのかもしれない。癖 のないまっすぐな藤色の髪に大きな新緑の瞳が特徴的で、彼女が笑うと、真っ白な花がほころぶよ うに取り巻く空気が柔らかくなる。ひきつける何かを持っていながら、彼女自身はそれに気づいて はいない。

そのアンバランスさが、弁慶を蝕むのだろうか。


「さて」


電車に乗る前に一本電話を入れておいたので問題はないと思う。先方もなかなかに名が高い人のよ うで、学校の研究室につめていることは少ないが、今から三時間ほどならば確実にいると言ってい た。ついでなので自分の研究についての質問も二三してみたい。

傍にあった構内案内板をざっと読み取って脳裏にそのまま写すと、適当に歩き出す。すれ違う学生 達はどこも変わらぬようで、サークルのこと色恋のこと、それに授業の情報交換に忙しい。とっく に冷たさを増した秋風に頬を撫でられ、無意識のうちに首を竦めると、ぎゅうと体の中心に力が入 る。見上げる建物は高く、秋の空を四角に切り取っていた。

実際に会ったその教授は話で聞くより、ずっと気難しい人であった。あっけらかんとして楽天家の 自分の教授だからやっていけるのか、それとも仕事上の付き合いと割り切れるからやっていけるの か、一度では判断できぬが、とにかく、教授然とした雰囲気をまとって、それはそれは威圧的に応 じたものだった。

用件を済ませ、ついでに歩きがてら整理した自分の質問をぶつけると、端的ではあるが結構的を得 た回答が返ってくるのはさすがである。刑法は法律の数学である。理論と現実の隙間を埋めるよう にして彼らは生きている。論を口にするのはたやすいが、それを実行するとなると――事実に当て はめるとすると――どうしても感情との間に齟齬が発生する。


「我々は裁判官ではないからねぇ」


弁慶の教授とは対照的に、神経質そうな銀縁の眼鏡を中指で押し上げながら彼は溜息をついた。な かなか精悍な顔立ちをしている。テレビのちょっとしたインタビューに答えたり、大学の宣伝パン フレットに載ったりしているせいだろうか、これが初対面という印象は受けなかった。

しかしよくしゃべる人だった。そうですねと相槌を打つのも限界に近く、弁慶は必要な情報をとう に引き出してしまっているため、これ以上の長居は無用なのだ。と、そこまで考えが至ったところ で、なぜ教授に「今日はもう帰っていい」と言われたのかようやく分かった。

そして、自分は押し付けられたのだとも。


「では教授、またお話を伺いに参りますよ。これ以上お邪魔してしまってはいけないでしょうし」
「ああ、構わんよ。連絡さえくれればいつでも相手になる」


話の切れ目を逃がすことなく、弁慶はどこまでも柔和な笑顔を浮かべた。相手の言葉にありがとう ございますと形式的に返事をして、やっと部屋を辞した。きっと、弁慶の教授はこの、放っておく と止まらぬ長話に付き合う気がなかったのだろう。ここにくればそうなることを予想して、彼を遣 いに出したに違いない。


「――それでは、また。参考になる話をありがとうございました」


相手に口を挟ませる隙を与えないのはさすが弁慶である。まだまだ話し足りなさそうな教授を尻目 に、ささっと部屋を後にした。出されたコーヒーが信じられないくらいまずかったことしか記憶に 残っていないのは、どうしてだろうか。





一人の男が電車に乗っている。さして混雑する時間帯でもないが、家路を急ぐ人が増えてきたよう だ。彼と似たようなスーツ姿の同性がちらほらと、手持ち無沙汰そうに乗っていた。扉に体重のほ とんどを預け、じっと夕暮れを見つめている姿は人目を引くものがあり、琥珀色の髪は、茜の夕日 を受けて絹糸を纏めたように美しかった。

遠くに定めた視線の中にはなんとも形容できない混沌としたものを感じ取り、それがまた一層彼に 人目をひきつけるのだ。だが、彼の口元に浮かんだ笑みは、とてもじゃないがこの世のものとは思 えなかった。ふ、と抑えるように弧を描く口元にあわせて眦も動く。それはもう、暗いなんてもん じゃなかった。

彼の内面を駆け巡るのは混乱なのか、絶望なのか、それとも決意なのか。いいや、全部が混じって さらに憎しみまで加わっているのかも知れない。負の感情に支配された人は、こうも自虐的な嘲笑 を浮かべられるのか。見ている人の、背筋に氷を当てたように悪寒が走る笑顔だった。

弁慶の脳裏にあるのは、さして珍しいことでも突飛なことでもなんでもない。

ただ、望美を見かけたというだけの話だ。

同い年くらいの友達数人に囲まれて、楽しそうに談笑している姿を、遠目ながらはっきりと見ただ けの話である。しかし、それは彼に彼女の世界を突きつけるには十分だったのだ。


――あれが


あれが、現実と言うものだ。誰も知らないだろう、この想いは。許されざるものと十分に分かって いる反面、彼女が欲しいという気持ちは抑えられそうにもない。そして、それを成就させたとき、 彼女はどんな存在になるのかも。

見たことのある服を着て、ジーンズをはき、いつも持っている大きなバッグを足元において楽しそ うに笑っていた。そう、何の屈託もなく。


――痛い・・・・・・


痛みは一体、どこから来るのだろう。一体、何が感じ取ってこんなに痛いのだろう。弁慶が垣間見 てしまったあの瞬間、彼女は確実に日常にいた。一つも疑いを抱くことなく、明日が来ると思って いる笑顔だった。

あれを、奪い取ってしまいたい。

世間と彼女を繋ぐ糸を一本一本丁寧に切り取って、居場所が自分のところだけにしてしまいたい。


――けれど


けれどそんなことできるものか。彼女には、望美には日の当たる場所こそがふさわしい。本当に、 心からそう思う。太陽を背にして生きることを要求できるべくもなく、だとしたら、この暴れる想 いをどうしたらいいのだろう。

誤魔化すにはもう遅い。忘れてしまうには深すぎる。

どうあがいたって自分は望美の兄で、父親が同じで、その事実は動かせないのだ。動かすとしたら それは時間を遡って、彼女が生まれるときに戻るしかない。


――それでも


それでも欲しいのだ。他の誰でもなく、望美だけが。彼女だけがいれば他は何もいらない。

安っぽいラブソングの歌詞のようだが、今こそ、彼の感情を表現するにはふさわしい。欲しいもの は禁忌を犯さねば手に入らなく、手に入れねば失ってしまう。一生、兄という立場は変化すること はないが、それだけではもう足りない。


「クックック・・・・・・」


突如として笑い出した男に、周囲は一斉に驚きの目を向ける。そしてそれがまた気違いじみている からさらに好奇の視線が集まるのだ。だが、男は頓着する風もなく、自分を嘲笑う笑いを止めるこ とは出来なかった。


――あぁ、なぜ兄弟に生まれてしまったのだろう


何でもいいから自分を止めて欲しい。











今回のポイント「上半身裸で寝る男、そして寝起きは最悪」
密着!変態弁慶の24時!みたくなっちった……しかも会話少ないorz