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熱病 7





気が長いというのは少し違う。どちらかと言えば辛抱強かった。

細く脆い鎖を、それも複雑怪奇に固く絡まった鎖を解いていくような心持に近い。少しでも力を入 れればあっけなく切れてしまう。諦めたらそこでそのまま終わってしまう。彼はそのどちらも良く わかっていてなお、ゆっくりと慎重に解いていった。

そうやって一度大きく開いた距離を詰めていった。

そうやって一度ぶ厚く聳え立ってしまった壁を崩していった。

気の遠くなるようなことを良くやるものだと思いつつも、弁慶は、僅かながらも近付いてゆくこと に専念していた。

いっそのことその双眸を抉り取って他の誰も映らないようにしてやろうか。

いっそのことその両手を切り取って他の誰にも触れられないようにしてやろうか。

狂っていると一言で片付けてもらって構わない。はっきりと自覚したこの想いの背徳と罪を知らな いわけでもない。腹を括ったその瞬間からもう、彼は自ら昏い奈落に堕ちていったようなものだし 、もちろんひとりで堕ちるつもりも無かった。それをおくびにも出さず毎日を過ごしている神経こ そ、おかしいと言えばそうなのだろうし、それが出来るだけの力量が彼にはあった。

知能犯で確信犯ともなりえる弁慶はもう、引き返す道を自ら閉ざした。覚悟も決めた。後は、鳥か ごの中に居るべき小鳥をとっ捕まえて逃がさなければいいだけの話だ。





壁に掛かったカレンダーは九月をいつの間にか示しており、バイトと遊びとサークルに明け暮れた 一ヶ月は驚くほどあっけなく過ぎていた。暑い日差しは変わりがないものの、そういわれてみると 夕暮れの空気は冷たさと深みを増したようであるし、ふいにヒグラシが鳴いた。あぁ、秋なのだな と思ったそのとき、秋はやってくる。

季節なんてものはそんなものだ。気がつかなければそ知らぬ顔をしてさっさと行ってしまうし、気 がついたら眼前に広がっている。そしてだからどうしたと言わんばかりに次の季節へと移り変わる 。時間は確実に流れ、そしてそれは不可逆であった。


「――はい、はい。ええ、帰ってきたら伝えておきます。・・・・・・ええ、お気遣いありがとう ございます。そうですね、はい。・・・・・・ありがとうございます」


社交辞令を並べ立てるのも幾分か疲れて、望美は受話器を耳に当てながらちらと時計を見やった。 時刻は午後六時を示そうという時間で、世間一般の主婦は夕飯の支度に掛かりっきりの時間帯では ないのかと密かに感嘆をつかざるを得ない。電話で繋がれた向こうにいる人物は会話を止める気配 はなく、仕方なしに付き合っていたのだが、いい加減うんざりしてきた。

相手は父親――「実の」父親――の兄だか弟だかの奥さんで、これまた中高年の女性の例に漏れず 話好きだった。遠くに住んでいるため新盆に参加できなくてごめんね、から始まって、そちらでの 生活はどうだ、弁慶はいい息子だから心配ないだのとよくもまぁ話題が尽きぬと或る意味感心でき る。対して望美はといえば、彼女の顔はおろか、名前ですら危ういのだからはぁと相槌をうつしか ない。


「はい・・・・・・はい。それでは、はい、失礼します」


ようやっと電話を切ったのが話し始めて三十分後。足元に視線を落とせば財布と携帯電話だけが入 ったバッグが転がっている。夕飯の買い物をしようと準備したのだが、いかんせん今の電話で気力 をそがれた。それくらい、父方の親戚とは遠い付き合いをしていたということなのだが。

溜息ひとつついて、望美は買い物を諦めた。

冷蔵庫の中身はさして切羽詰ったものではないし、弁慶はあまり食べ物に好き嫌いを言わない―― 単に無頓着と言うだけかもしれないが――ので心配は無いだろう。今ある食材とにらめっこして、 そして自分の腕とよく相談すればいいだけのことである。

さてと自分を鼓舞して台所に向かおうとした時、バッグの中の携帯電話が振動して着信を告げる。 探り出して手に取る前に振動がやみ、メールだと分かった。


――早めに帰ります


たった一言だけのメールであった。題名も無題のままであるが、メールでさえ丁寧な口調で伝える のは彼しかいない。そして、こうしてメールを交わすようになったこと自体、大した進歩である。 顔を合わせることも会話をすることもままならなかったのは遠い過去の話ではないはずなのに、不 思議なものだ。どちらが先に歩み寄ったか判然とせず、気がついたら今の状況があった。


――分かりました。駅に着いたら連絡をください


一言だけのメールに二言だけ返し、望美は夕飯の支度に取り掛かった。





『分かりました。駅に着いたら連絡をください』


自分が打ってからさして間をおかずに携帯が鳴った。ぱくんと開いてボタンを操作し中身を見れば 妹からの返信であった。それを、弁慶は感情のない表情で一瞬で読み取り、そして携帯を放り出す 。大きく息を吐き出しついでに椅子に体重を預ければぎしときしんだ音を立てて背もたれがしなり 、目の前の画面と少しだけ距離があいた。

学生が夏休みを満喫するように、大学関係者も満喫するわけではない。コマの準備がなくなる分だ け、自分の研究に没頭でき、そして論文を精読し己のものも書き上げる。いくつか書いて教授に見 てもらい、論旨に穴があれば適宜直していく。そうやって八月が過ぎた。

弁慶はいつ淹れたかもう忘れてしまったコーヒーを手に取った。視線を落とせば吸殻の溜まった灰 皿がある。こくりと嚥下すれば冷たくもなければぬるくもない。

研究室から見える夕日はとても鮮やかな夕日で、茜に染まった西の空は、この暑くじめっとした空 気をさらに際立たせていた。それでも、頬を撫でる風に深みが増したのは気のせいではないだろう 。九月も半ばを過ぎようとしており、見上げれば、もう気の早い星が瞬いていた。


「さて、帰りますか」


愛しい人がいるあの家へ。あの人が、自分をどう見ているかなんてこの際問題ではない。玄関を開 けたその瞬間から、世間と言う名の外界とは切って離された世界が広がる。自分と、愛する熱があ るだけの、とてもシンプルな世界だ。

書きかけの論文をメモリに移し、簡単な操作でパソコンの電源を切る。無意識に出てきた溜息に、 苦笑一つ零して弁慶は研究室を後にした。





道すがら買い込んできた飲み物を提げて玄関を開ける。上がり口からすぐの引き戸を開けるとそこ はリビングになっており、仕切りが無く続いたところにキッチンがある。駅で連絡を入れた彼の帰 りを予想していた望美は、気配に振り返った。


「ただいま」
「お帰りなさい」


たったそれだけの、ありふれた言葉が心に染み入るのはなぜだろうか。視線を絡めるわけでもない のに、彼女が、自分を見ているというだけでもう満足してしまう――本当に、これだけで満たされ るのかと言ったら嘘になるのだが。

すぐに着替えてくると言った弁慶に、望美は急がなくていいという。不器用な彼女はなんとか食べ られるものを作れるようにはなったのだが、時間が掛かる。けれど、そんなことは瑣末なことだ。 ダイニングテーブルに二人で向かい合って同じ皿のものをつつく。生きている中で誰もが行うであ ろうこの行為を、こんなに特別に感じるのはきっと、相手が望美だからだ。

階段を上がって左手に折れた方向にあるのが弁慶の部屋だ。階段の真正面にある扉を開けると望美 の部屋がある。今亡き父は、本当に彼女が大学に上がったら呼び戻そうと考えていたのか、その部 屋をいつも綺麗に保っていたようだった。知らなかった。高校を出てすぐに、大学に通いづらいか らという理由で――理由が先行していて、わざと通いづらい大学を選んだのだが――家を出た弁慶 は、彼岸の父が考えていたことを推して測るより他ない。

スーツの上着をハンガーにかけてネクタイを解く。


「・・・・・・」


望美は、古い言い方をすれば不義の子だ。それを知ったのは全くの偶然の産物だったが、父は自分 が生まれてすぐに望美の母と不倫関係にあったらしい。

ワイシャツのカフスボタンを外して一気に脱ぐ。カーテンを閉めただけの、窓から入り込んだぬる い空気が上半身をなでた。ベルトを解いて、ふうと息をついた。

その父と女は、女の妊娠をきっかけにして離婚し、改めて結婚した。父は弁慶を母親から取り上げ 、そして新たな家庭へと迎え入れた。だが、その幸せも長くは続かない。女は、望美の出産をきっ かけに三途の川を渡った。

まだ年若かった弁慶は、父のやったことを許せなかった。母親を裏切って、自分だけ幸せになろう とした彼を汚らわしく思った。だから、その子供である望美との接触も意識的に避けた。今になっ てみれば、なんとも安っぽい正義感、若気の至りと一笑に付してしまう。新しい母が亡くなり、ど んどん背中が薄くなってゆく父を見ても、ザマァみろとしか思わなかったのも事実だ。


「・・・・・・」


けれど、今は。

望美の母親と、嫌った父に感謝をしたい――彼らがいなければ、望美はこの世にいないのだ。そし てさらに好都合なことに、二人揃って河の向こう岸から見ているしかないのだ。

残された息子と娘が、背徳の道を歩もうとしても、彼らは一切の手出しが出来ない。

神仏なぞクソ食らえ。





「クーラーが?」


鸚鵡返しに聞き返してきた望美が、口に運んでいた箸を止めた。対する弁慶はにこやかに、けれど 困った風に笑って頷く。


「ええ、困ったものです。まだ暑いというのに・・・・・・」
「業者に電話しましたか?」
「しましたよ。明日、来るそうですが――望美さん、君は午前中、家にいますか?」
「はい。えーと、何時ごろ来るって言ってましたか?」
「十一時ごろ、だそうですよ?」


僕は其の時間、もう居ないからと言って弁慶はまた笑った。ためらいがちに望美は視線をさ迷わせ て弁慶に問う。


「でも・・・・・・勝手に部屋に入っていいんですか?」
「君なら構いませんよ。それに、見られて困るものはないですから」


やんわりと許可をくれる顔は穏やかそのもので、いつもと変わらない。望美は少し考えて、軽い気 持ちで承諾した。さらに話を聞けば、修理は三十分程度で終わるのだという。だったら午後から目 一杯入れたバイトにも間に合う。気楽に応じたこの用件が、望美の心に大きな葛藤を呼ぶのは明日 の話である。


「それで、僕はリビングで少し仕事をしますが――構いませんか?」
「あ、はい。じゃあ邪魔しないようにしますね」
「そんなに気を使わなくても大丈夫ですよ」


優しい笑顔そのままに、彼は言う。すっかり安心しきった望美ははいと答える。平穏な夕食は、弁 慶の混沌とした内面を微塵も感じさせること無く過ぎてゆく。彼は、自分の心を隠すことに関して は誰にも負けないのだ。

夕飯の片付けも済み、一息ついた頃合に弁慶は自分の部屋からノートパソコンを持ってリビングに 居た。傍らには灰皿がある。研究室で中断した論文の続きを呼び出してざっと斜め読みをする。低 くうなるクーラーの音が耳についた。銀縁のメガネをかけて煙草を咥えるまでの一連の動作はもう 、身についたものでほとんど意識せずにやっている。


「どうぞ」


添えられた控えめな一言に、画面から視線を外してみれば望美がはにかんで笑っている。本当に進 歩したものだと思い、密かに自分の努力を賞賛したくなる。本当に、つい最近までだったらこんな こと望むべくもなかったのだ。


「ありがとう・・・・・・」


出してくれた麦茶を一口飲んで言う。カランとグラスの中で氷がぶつかった。

洗い物も終わってもう、このキッチンにいる理由がなくなった望美はそっと振り返った。ダイニン グテーブルのさらに向こう、置かれたL字型のソファに弁慶が座っている。ローテーブルに置いた パソコンの画面を、背中をかがめて見つめていた。

照明に照らされた琥珀色の髪は金色に近くなっていて、涼やかな目元は銀色のメガネが縁取ってい る。じっとしている眼差しは真剣そのものだった。普段、彼の仕事姿を見たことがない新緑の双眸 は、好奇心か何かわからないまま、じっと見入ってしまう。

半そでから伸びた、意外に筋肉のついた二の腕。推敲を重ねているのであろう頭を支えた片手は顎 の下。綺麗な指がピアノを弾くようにキーボードの上を滑る。そして、いつか覗き見たときと同じ く、薄い唇に煙草を食んでいた。知らない、真剣な表情を彩るように眉間に少し皺がよっている。 立ち上る煙を嫌ったのか、長い指が一度口元を隠して煙草を外し、代わりに大きく息を吐き出す。


「――」


やっぱり、息苦しくなる。

あの唇の感触を知らないわけではない。其のことの意味を知らないわけではない。だから余計、心 臓が。

煩いこの鼓動は、あれに触れたらおさまるのだろうか。


――そう考えることがどうかしている。











今回のポイント「咥え煙草にメガネかけてパソコンする男」
しっかし会話が少ない上に話が長いわ進んでないわで散々だな!すいません(土下座