熱病  6 




幕を下ろしたような雨が降り続き、それが過ぎ去ってしまえばからりと晴れ渡って人を急かすよう な夏がやってきた。蝉の声は絶え間なく辺りを埋めて、陽炎が見えるほど気温は天井知らずで上昇 していく。大学に慣れず四苦八苦していた望美も、いい加減なれたものだが、気がつけば期末試験 はすぐそこだった。


「理論構成が理解できてないからだめなんだよ」


と顔を合わせる将臣に言われてしまった。

大学の試験は今までのように暗記さえしていれば良いと言うものではない。教科書に書かれる理論 や議論を理解した上で、さらに問題が聞いていることを答える。要は結果ではなく、結果に至るま での道筋を問うているのだ。


「はー・・・・・・っ」
「溜息ついてなんだよ、若いもんが」
「若いって、将臣くんと同い年ですけど!」


広い範囲の試験を全て終えた望美は最終日の帰り道、これまたいつものごとく将臣とファーストフ ードに寄っていた。いつもならバイトへと急いでいたが、試験期間くらいは控えないとやっていけ ない。いつ出るかも分からない成績を今から心配したってどうなるものでもないが、自分の書いた 論文にいまいち自信のない望美は、幼馴染の気安さでテーブルに突っ伏した。


「試験も不安だけど、お金も不安だよ・・・・・・」
「あ、俺もだ。前金払えるかわかんねぇ」
「前金?またどっか行くの?」


顔を上げてみれば、将臣はん、と気楽に笑っている。確か、ゴールデンウィークもどこかに飛んで いったはずではなかったか。いったい、何が彼をここまで旅に駆り立てるのかさっぱりわからない 。聞いてみれば「行きたいから」と至極簡潔な答えが返ってきて、望美はますます分からなくなる のだ。


「今度は潜りにな」
「沖縄?」
「あー沖縄は今航空運賃高いからパス。小笠原」
「へぇ、小笠原・・・・・・」


書類上、東京都に属する島群は「東洋のガラパゴス」と言われるほど、特有の生物と南国に近い気 候をしているらしい。となれば、ダイビングにはまっている彼が行くのも頷ける。望美は肘をつい て幼馴染の自由さを恨んだ。


「いいなぁ・・・・・・あたしも行きたいなぁ」
「来るか?旅費は自分持ちだぜ」


本気で誘っているのか冗談なのか分からない。でも、行けたらいいなと望美は思う。

将臣のそばは居心地がいい。

外はうだるような暑さ。日差しは透明なくせに焼け付くようで、アスファルトの地面にくっきりと 影が落ちていた。目先の試験に囚われて、夏休みの予定なんかこれっぽっちも立てていなかった望 美は、試験も飄々とこなして旅行まで計画していた将臣の要領のよさが羨ましい反面、悔しい。


「いつから行くの?」
「来月の頭からお盆前まで」


行ったきりの鉄砲玉を地で行く将臣が予定通りに戻ってくるかは限りなく怪しい。怪しいけれど、 小笠原はかなり魅力的だった――家にいなくていい。


「旅行、考えておく」
「おう」


幼馴染はとても気安い関係だ。二人でどこへどれだけ行こうと、起こりはしない。

だから、将臣のそばは居心地がいい。

そう思っている望美は、将臣のいかんとも形容しがたい複雑な表情に気付かなかった。





いくら胃に酒を流し込んでも、全く酔わない。弁慶の酒の強さは法学部の教授の間でも有名で、 だからこそ酒席へのお誘いはあとを絶たない。ましてや、試験も終わり、夏休みに突入したとあれ ば無下に断ることも出来なかった。

「今夜は無礼講で」の常套句から始まった堅苦しい席で酔えるものか。味ですらしないというのに 。この場に景時でもいればとっ捕まえてあれやこれやと気軽な話が出来たものを、今は年配者のみ で、必然と弁慶は席の世話役に回るしかなかった。


「・・・・・・」


ビールの入ったグラスを口元に運ぶ形に留めたまま、ふと思いつく。今夜は遅くなると言ってこな かった。彼女は心配しているだろうか。


「・・・・・・バカらしい」


春の終わり、梅雨に入る前に己がしでかしたこと。あのことが未だに尾を引いているのは火を見 るより明らかな事実だった。

今まで上手く取り繕ってきた「同居人」としての顔も、綺麗に保っていた二人の間の距離も一気に 飛び越えて、彼女を追い詰めた。結果、どうだ。おびえさせて、一緒に住む前以上に警戒させ、他 人より遠い存在になってしまったではないか。

手に入れたいと思う存在が、他人より遠いとは。


「・・・・・・いっそ」
「え?何か言ったかい?」


グラスを持ったまま動こうとしない先輩研究員が、大げさに耳を傾けてこちらに乗り出してくる。 それをやんわりとした笑顔で遮って、弁慶は再び進められるがままに酒を開けた。


――いっそのこと、共に堕ちればいい・・・・・・


狂気にも似た想いはもう、出口を探して暴れまわっている。





望美が家に帰ってくると、案の定玄関の鍵は開いてなかった。当然、明かりも点いていない。


「・・・・・・ただいま」


誰に話しかけるでなく、それでも呟いてしまうのはもう長年体にしみ込んだ習慣とでも言おうか。 去年までは、帰ってくれば「お母さん」が台所から「帰ったの?」と大声を上げてお帰りなさいを 言ってくれたが、今はもうそんなことはない。


「・・・・・・」


これでは独りで暮らしているようなものだ。一軒家に、自分以外の違う命がいるだけのこと。


――さびしい・・・・・・


淋しいのは、人の温かみがないからだとずっと言い聞かせている。もう子供ではない。どっかしら で独立をしていかなければならない。これは、そのためのトレーニングだと思っていればいいのだ 。

暗い居間に入り、手探りで電気をつけると青白い蛍光灯が当たり前のように景色を見せてくれる。持 っていたカバンをソファの近くに放り出し、ついで冷蔵庫まで行ってオレンジジュースを取り出し た。時計は夜十一時を指そうとしている頃合。こんな時間に帰ってくれば、「お父さん」から大目 玉を食らっていたが、今はもうそんなことはない。

将臣と別れた後、友達からメールが入って買い物をしてきた。試験が終わった羽伸ばしついでで思 いっきり遊んだのと夕食が腹に入って程よく消化され始めたためか、その両方もあいまって眠気が ぐるぐると頭を囲んでいる。どさりとソファに座ったが最後、指の一本も動かしたくはなかった。

ふと、ソファに放り出されたままのシャツが目に入る。

弁慶のものだ。


「・・・・・・」


無意識に手に取る。畳んでやろうと言うわけではない。

ワイシャツではなく、彼の私服の一枚だった。共有スペースにお互いの私物を出しっぱなしにして おくのはかなり珍しいことで、望美はまじまじと見入ってしまった。

低いクーラーの音が響いて、夜でもお構いなしに鳴き喚く蝉の声が遠くで聞こえる。

弁慶の匂いが、する。


「・・・・・・あぁ」


琥珀色をした人はこんな香りをしていたのか。

このシャツを着ているところをもう何度も見たことがある。だけど、触るのは初めてだった。男物 のシャツは自分が持っているそれらとは大きく異なって、丸みのない直線の裁断をされている。一 見華奢なようにも見えて、大きなシャツを纏っている。

そうして脳裏に浮かぶ彼の姿。

思い浮かべるだけで心臓が跳ね上がって泣きたくなるのはどうしてか。

これではまるで、彼に恋焦がれているようなものだ。

突如として閃いた、背徳の考えに望美自身がうろたえ、シャツを前にしたままじっと動けなくなっ てしまった。目を閉じれば現実は消える。





「これは・・・・・・」


己が帰って来ても居間に電気が点っていた。クーラーも点けっぱなし。珍しいこともあるものだと 覗き込んでみれば、そこにはソファに体を横たえて眠っている望美の姿があった。

しかも、自分のシャツを羽織って。

何を意味しているかを考えることは愚かしい。ただ、そこに広がっている事実を認めるだけで頭は 喜びに打ち震えそうになる。


「ん・・・・・・」
「望美さん?」


寝返りを打った拍子に彼女がこちらを向く。無防備な寝顔だ。弁慶は足音立てずに近寄る。


「望美さん・・・・・・?」


どこの大学も似たような時期に試験を実施しているので、特に聞かなくても望美がテストをしてい たのは分かる。きっと、連日の試験勉強の疲れが出ているのだろう。ためしに声をかけても熟睡し きって何の反応も示さなかった。

力の限り抱きしめたら折れてしまうのではないかと思うような華奢な体躯、真っ直ぐな藤色の髪。 今は閉じてしまっている新緑の双眸は、幼いとき、自分を試すような視線を送っているばかりだっ た。


「君は・・・・・・」


その双眸に、自分以外の誰かが映りこむことにすら耐えられない。彼女の脳裏に浮かび上がるのは 自分だけでいい。しっとりと呼吸を繰り返す胸は規則正しく、女性特有の丸みを帯びている。力の 抜けた手は白く、細く、何を求めるでなく腹の上。


「君はもう少し、僕から逃げる術を学んだほうがいい・・・・・・」


白い頬にかかっていた髪を一房掬い取り、弁慶は笑った。笑って、望美の淡く色ついた唇を我が物 として奪った。

時は止まる。

相手が堕ちぬならば、引きずり込むまで。











今回のポイント「男もののシャツを羽織って寝る女」
でも寝てる女にちゅーするのは変態だとおもう(ぇ