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熱病  5 




混乱、憧憬、憎悪、恋慕。

相反する二つの感情がかわるがわる押し寄せてきて、もう自分の処理能力は限界に近い。煩い心臓 の音、欲しいと願う体温。何も知らない頃に戻れたならと、らしくもなく過去を振り返って弁慶は 溜息をついた。

幼い自分を残して母親は出て行ってしまったのだと、ずっと思っていた。四歳の幼子が覚えている のは曖昧な記憶と思われがちだが、案外そうでもない。あいにくとくっきりはっきり覚えているも のなのだ。新しい「お母さん」がこの家に来て自分を抱き上げた瞬間というものは。


「・・・・・・」
「弁慶?」
「・・・・・・」
「べーんけい!」
「あ、あぁ・・・・・・景時でしたか。どうしたのです?」


ふと顔を上げると、かつてのサークル仲間が長身を半分に折るようにしてこちらの顔を覗き込んで いた。灰色スーツはお互い似たり寄ったりだが、ネクタイを外しているところを見ると、もう彼の コマは終わったのだろう。意識を再び周囲に向ければ、ああここは大学の中庭だったかとようやく 思い出す。そう、昼休みもとうに終わりを告げ、梅雨の合間に見えた晴れ間、気分転換に珈琲缶と 煙草を持って出てきたのだった。


「何かあったの?」
「なぜ?」
「ひっどい顔してるよ。弁慶にしては珍しいくらいに、ね」


いつも笑っているようで自分の周りにいる人間への気遣いを忘れない彼は、聡く指摘してきた。植 え込みのレンガに腰掛けていた弁慶の隣に、携帯灰皿をポケットから出しつつ景時も座った。入梅 してから一週間ほどたった日、太陽は気まぐれに雲を追い払い、頭痛がしてくるような青空が広が っている。からりとした空気はこの島国で望めるはずもなく、これからやってくる暑気を予感させ るようにじっとりと重たい。


「眉間のシワ、これ結構注意ね」
「?」
「弁慶、俺が声かけるまですっごいシワ寄せて地面睨んでるし」


そんなにコーヒーが不味かった?と茶化してくるのはやはり、踏み込んでいいものか悪いのか判断 しあぐねているからであろう。そしてそんな気遣いをさせてしまうほど、自分はひどい顔をしてい たのかと隠れて嘆息を吐いた。

ん、と景時がライターの火を差し出してくれる。唇に咥えたまま着火していなかった煙草からよう やくニコチンとメンソールを吸い込む。それだけで目の前にかかっていた靄がさくっと晴れていく ように感じるものだから、中毒者もいいところだ。自分の研究室以外、屋内は禁煙区域が厳しくな ってしまったのでこうして外で大いに煙を吐き出すのは少し良い気分である。

しばらく、二人は煙を吐き出しては霧散していくさまを子供のようにじっと見ていた。一度として 同じ形になることはなく、風も無いのに消えていく様子は万華鏡と手品を組み合わせたものみたい に思えた。


「・・・・・・聞いていいものかどうか分からないけど、いいかな?」
「なんです、景時、君らしくもない。どうぞ、何でも」
「妹ちゃんのことでなんか悩んでたり・・・・・・する?」
「・・・・・・」


景時は話したいなら聞くよ、というスタンスをあらかじめ滲ませてくれていた。この男はいつだっ て相手の退路を確保していてくれる。口を開く権利と閉ざす権利を同時に与えてくれていた。

だから、迷う。

一度誰かに吐露してしまいたい気になってしまう。

この際、神にでも仏にでも何でも全部洗いざらい話して、横っ面を二三発ひっぱたいてくれないか と。頭をがつんがつん揺さぶられて、そうしたらきっと目が覚める。底なしの夢から目覚めたら、 広がる現実をキチンと受け止められる――それが、今の望みといえば望みだろうか。

曖昧な笑顔を顔に貼り付けた弁慶を、景時はどう認識したのか知れない。ただ、ゆっくりと煙を吐 き出し、唐突に彼の手の中にある煙草を放ってきた。危うく受け止めた弁慶はその意図を知るべく 首を傾げた。


「そんな不吉な煙草吸ってるから顔が暗いんだよ」


景時は立ち上がりざまに煙草を携帯灰皿に入れて伸びをする。


「たまにはこっちにしなよ。どうせなら、おめでたいネーミングのほうが良くない?」


器用に片目だけ瞑って景時は言った。

弁慶は、手の中にある銘柄を読んで軽く笑った。「幸せド真ん中」、そんな浮かれた名前で解決で きる問題なら、とっくにそうしている。





遠いのに近い。いや、近寄ってきたというより一気に距離が無くなった。むしろマイナスか。

アレ以来、望美はまともに弁慶と話をしなければ、顔を合わせることさえしていなかった。前から そんな状態だっただろうと思うが、何か一つ決定的に違っていた。

一ヶ月も過ぎれば分かってしまう。自分が過剰に彼を避けるように、彼も自分を避けているのだと いうことに。朝の出勤は今までよりずっと早くなったし、帰りは帰りで日付変更線をまたいでから だ。望美は望美で、バイト日数を増やしたしサークルにも入った――半ば押し切られる形で、だが ――のでこれまでみたいにのほほんと大学生活を送っているわけではなかった。


「今日、遅くなるってちゃんと言ってあんのか?」
「大丈夫だよ」


久しぶりに望美のバイト先にヘルプとして来ていた将臣はカウンターから声をかけた。ホールでテ ーブルを拭いていた望美はお馴染みの笑顔で応える。嘘ではない。どんなに望美が遅くなっても、 弁慶より後に家に入ることは無いのだから。だから、大丈夫、とだけ返したのだ。

ここのところ、業務そのものにも慣れてきたのでいろいろな仕事をさせてもらっている。忙しいと きでも対応できるようにと、オーナーが彼女にパフェの作り方を教えてくれたが、


「もうちょっと仕事に慣れてからにしようか」


と苦笑交じりに言われてしまった。望美だって、出来上がったものが商品として通用するとは思え なかった。パフェとは綺麗に盛り付けられて成立するのであって、そうなっていないものは単に果 物と生クリームとチョコレートをごちゃ混ぜにしただけのものだ、ということを身をもって学べた だけ収穫か。


「・・・・・・望美」
「何?」


将臣は少し間を空けて、それからゆっくりとカップを拭く手を止めた。オリエントブルーの瞳がこ ちらをじっと見ている。こんなに真剣な顔を見たのは久しぶりだ。白いシャツに黒いサロンと同じ 色のパンツ。バランスの取れた体躯をしている将臣が纏うと、ありふれたウェイターの格好なのに それなりに上等に見える。

将臣は問いかけたくせになかなか話そうとしない。望美がテーブルを拭き終えてカウンターに戻っ てくると、少し言いにくそうに頭をがしがしと掻いて口を開いた。


「その、無理・・・・・・してないか?」
「え」
「なんだ、お前、いろいろと変わっただろ、生活が」
「・・・・・・それは仕方ないよ」


こう言われると、改めて自分の生まれ育った環境の複雑さを実感してしまう。世の中探せば望美よ りもっと複雑な事情を抱えた人は五万と居るのだろうが、比べるほうが間違っている。鎌倉から離 れる日が来ないとは限らなかったけれど、まさか、こんな形で訪れるとは思ってもみなかったこと だ。死んだ人間に恨み言を言っても始まらないではないか。それに、義両親はきちんと望美の意思 を聞いてくれたし、何より弁慶と暮らすと決めたのは他でもない、望美だ。


「夏休みには鎌倉にも来るんだろ?譲も心配してるぜ」
「そうそう、譲君ね。こないだメールしたよ」
「へぇ。あいつ、口開くと二言目にはお前のことしかいわねぇ」


笑って、そっかと望美が返したのと同時に、カランコロンと扉の上についているベルが鳴り、来客 を告げる。久々の晴れ間を見せた一日の終わり、夕日と一緒に店にやってきたのは九郎だった。い らっしゃいませと二人同時に言う。


「弁慶は元気か?」


通されたカウンター席に着くなり、九郎はアイスコーヒーを頼むと同時に望美に尋ねてくる。望美 がバイトを始めたんですと彼に教えてから何度か店に来てくれて、今ではすっかり常連だ。


「え・・・・・・どうして、ですか?」
「いや、最近なかなかつかまらなくてな」
「えと、その・・・・・・」


まさか同じ屋根の下で起居しているのに会っていませんとは言えない。望美は、忙しいみたいです とだけ返しておいた。運よく望美の休憩時間となり、そそくさと奥に引っ込んだ彼女を、二人の男 は不思議そうな視線で見送った。





一度だけ、朝出かける直前の弁慶を見た――覗き見たという表現のほうが正しい。

不意にぱっちりと目が覚めてしまい、二度寝するには遅い時間だったから潔く起きてみた望美は、 下の部屋で動く気配に吸い寄せられて階段を下りた。もちろん、気配の持ち主は決まっている。自 分と、彼以外の誰かだったら即警察に通報するのが賢明な判断だというものだ。


「・・・・・・」


朝の気だるくもすっきりした空気の中、居間で弁慶は身支度をしているようだった。いつもならば 望美のほうが先に起きてあれやコレやと動いているからか、彼は滅多に着崩した格好では現れない 。しかし、そのときは違った。

白いワイシャツのえりを立て、ネクタイは結びもせず首にかけているだけ。通りに面した窓から差 し込む光はかすんだ空気を浮き立たせて、彼は外に目を向ける。しかめた目元のまま唇には煙草を 咥え、カフスボタンを留めていた。すうと一本の線を引いたように伸びた背筋から腰へのライン。 逆光のせいで黒いシルエットになった弁慶を、望美は馬鹿みたいに見つめていた。

見つめて、泣きたくなってしまった。


「・・・・・・」


革張りのソファの前にある、低いテーブルに置いてあるカップからは湯気が立っていた。彼は毎朝 きついコーヒーを一杯飲んでから出かける。ゆっくりとした仕草でその隣にある時計を持ち上げ、 左手首につける。望美はパジャマ代わりにしているTシャツの裾をぎゅっと握った。

火のついていない煙草を咥えた唇が見えた。目元を伏せて腕時計をつけている。柔らかそうな唇に 咥えられた煙草に火をつける様子はない。だた、薄い唇が軽く食み、煙を立てることなく当然のよ うにそこにある。望美は息を呑む。


――・・・・・・っ!


それだけ、だったのに。

望美ははじかれたようにその場を後にした。

たったあれだけの、あの一連の動作を見ていただけで、抱きつきたくなったなんて誰にも言えない。










今回のポイント「咥え煙草で身支度する男」
マニアックすぎてほんとスイマセン……でもモエ〜^^