熱病  4 




困惑の一言に尽きる。

何をどうしたら彼女をそう見てしまうのか、いくら考えても答えが出てこない。わからずじまいに しておけばまだなんとかなるのだろうが、考えることそれ自体を止めることが出来ないのだ。夜も 朝も。いつからこんなに堕ちているのだろうと自分を嘲笑ってみても始まらない。

だから余計に困惑する。

ふとした仕草、視線。その一つ一つにいちいち反応する自分の視覚や、とある拍子に感じる香りを 追いすがってしまう嗅覚。まだ何も知らない、幼子のような望美をどんな風に日々見守っているか 、誰にも知られてはならない。これは弁慶にとって至上の命題であり己に課した最大の試練でもあ った。

もちろん、望美自身にも知られてはならない。


「じゃあ、今日は遅くなるんですね?」
「はい」


朝のあわただしくも新鮮な空気の中で、望美はすまなそうに言った。職業柄、不規則と規則の間に ある生活を送っている弁慶はこの時間帯に出勤することは少ない。だが、一年生の望美は一限目の 授業が多いらしく――大抵、一年次の必修科目は一限目に組まれているものだから――大方の朝は 弁慶よりも先に家を出た。そして望美が床に就く頃、ようやく彼が家に帰ってくるという日々を送 っているものだから、二人の会話の量はおろか顔を合わせる機会が減るのも道理といえる。

むしろ弁慶としては自らそう仕向けていたのだが。


「僕のことは気にしなくていいですから、帰り道はどうか気をつけてくださいね。この辺りは住宅 街ですが、夜は人通りが少ないですから」
「あ、はい。あの・・・・・・もし、何かあったら電話しても構いませんか?」
「ええ、遠慮しないでどうぞ?」


望美は一緒に暮らし始めて2ヶ月もたつというのに過剰なくらい気を使った。気を使わせているの か、それともそれが彼女の生来持つ性なのか、弁慶にはいまだ判断しきれなかった。その距離を一 気に埋めてしまいたくなる反面、もっと自分から離れてくれればいいと願ってしまうのだからもう どうしようもない。呆れるのにもいい加減疲れた。


「じゃあ、行ってきますね」
「はい、いってらっしゃい」


そうして彼女を送り出した後、弁慶はようやっと一息つく。かなり濃い目に入れた珈琲を一口飲ん で眉をしかめ、そして新聞をざっと斜め読みする。いつもの日常である。この家を出て一人で暮ら していたときもこうして朝を過ごしていたはずだ。はずなのに。

あまり覚えていないのだ。

まるで一人で暮らしていたときの記憶はくだらない映画を見たあとのように曖昧模糊としていて、 鮮烈な藤色に塗り替えられてもう思い出せない。誰に縛られること無く、自分ひとり食わせていれ ばよかったあの時間は一体なんだったのだろうか。大人になるにつれて、社会と巧く関わりあう方 法を自分なりに見つけ出し実践する。それだけしていればどこの誰からも文句は言われなかった。 それでも、きっとどこかで欲していたのだ。渇望していたといってもいいかもしれない。

何もかもを投げ打って、欲しいと思えるたった一人を。

それが血の半分繋がった妹とは、何たる皮肉なことか。





「で、お前兄貴とは巧くやってんの?」


と、将臣が学食でやおら切り出した。安さだけで選んだカレーを口に入れようとしていた望美は唐 突な質問にスプーンの先をがちりと歯にぶつけてしまう。


「・・・・・・ったぁ!何よ突然!」
「巧くやってんのかなぁ〜って思ったから聞いただけだろ。お前こそ何焦ってんだよ」
「あ、焦ってなんか」

望美は視線をカレーに落としたままぐるぐるとかき混ぜ始めた。かき混ぜながら、弁慶さんはすご く気を使ってくれるし、あたしだってもう子供じゃないんだしなどと意味不明な言葉が口から次々 と出てくる。大学生活は大変だけれど、高校生のときと比べ物にならないくらい、一気に世界が広 がった。中学から高校に上がったときとは間違う新鮮な感触があり、同時に馴染むことが難しい。

右を見ても左を見ても知らない人で溢れているし、サークル勧誘をかわすだけでもかなりの労力を 要した。

何か足りないなと思いつつも日々はものすごい勢いで目の前を過ぎてゆくし、それを追いかけるこ とが今の自分にとって精一杯だった。窮した望美を察したのか、将臣は鼻から一つ息を抜くと不自 然でないくらいの仕草で話題を変えてくれる。


「バイトはどうだ?望美のことだから皿の一枚はもう割ったか?」
「割ってませんー。マスターがすっごいいい人でね、賄いがおいしいの!」
「あそこは女に甘いからな・・・・・って、お前も女だったか」
「ちょ、何それ!」


きいと視線を上げて見れば幼馴染が屈託の無い顔で笑っている。つられるように望美も笑顔になる 。こんな風に過ごしていると、一時でも鎌倉に戻ったような気になるから不思議だ。そう、毎日学 校に通って友達といろいろなことをおしゃべりしながら一日を終え、育ての両親がいる家に帰って いたのに。それが、たった数ヶ月前に自分を取り巻く環境が激変した。

あまりの変わりように、今までのことが遠い向こうにあるように思ってしまうのはきっと気のせい だろう。例えば、友達とどんな話をしていたかとか毎日何を考えて過ごしていたかとか、もう思い 出せないのは自分が今の環境に慣れつつあることの証拠――うっすら寂しい気もするけれど――だ と、そう思っていれば何の問題も無い。きっと人はこうして長い人生を歩んでいくのだから。今ま での記憶の中に、何か物足りなさを感じること、何がもの足りないのか考えること、そこに思考を 回してはいけない。

なぜいけないのかも考えてはならない。

今日のバイトは俺もそっちの店だぜと将臣がいい、それなら安心だと返したら呆れられた。昼休み も終わりに近付き、二人は急いで目の前の食べ物を胃にしまいこんだ。





弁慶に今日は帰りが遅くなるといっておいたのは正解だった。初めてバイト先でクローズ作業を習 ったのだ。雇い主であるマスターは望美がこの辺りに不慣れであること、バイト経験がはじめてで あることなどを考慮して閉店前には彼女を家に帰していたのだが、そろそろ慣れたと見てクローズ まで残すことにしたのだった。

お店の中のテーブル全てを拭き上げ、床の清掃、レジ周りは自分よりも歴が長い人がやるので、望 美は全体の掃除に終始した。こんなことをやっていたのかとバイト先の先輩に言うと笑われてしま った。慣れればもっと効率よく出来るはずなのだが、いかんせん生来の不器用さが先にたって巧く いかない。四苦八苦している望美を、案の定厨房から将臣がにやにやして見ていた。

夜の十時を半分くらい回った帰り道、一人暮らしの将臣はどうせ通過駅だからといって望美を家ま で送ってくれた。なんだかんだと望美の世話を焼いてしまうのは幼い頃から妹のように扱ってきた 、もう条件反射のようなもので、望美としてはいい加減子供扱いされたくないが将臣のそばは居心 地がよいので、形式的に断ったが結局夜道をこうして肩を並べて歩くこととなった。

弁慶と住む家の周りは住宅街の真っ只中で、夜も深まろうというこの時間帯、正直言って将臣がい てくれることは心強い。ぽつんぽつんと行き道を照らし出す街灯の明かりや周りの家々の電気光が 漏れているとはいえ、暗闇には変わりない。一度怖い目に遭ったことがある望美には、時たますれ 違う人姿に過敏に反応してしまうのも無理からぬ話だ。

言葉少なに二人はてくてくと歩いている。いつの間にこんなに視線の高さが違ったのだろうかと気 付くのはなんでもない、ふとした瞬間で、望美はちらと横目で将臣の肩の高さと自分の肩の高さの 違いを見た。小さいころ、彼の弟の譲とよくかけっこや鬼ごっこをして遊んでいた。今日は「お父 さん」が来る日だからと彼らと遊べないのがとても不満で、代わりに会う「お父さん」に対して不 機嫌な態度を取っては「お母さんとお父さん」から叱咤された覚えがある。

今となってはなんと残酷な仕打ちをしたのだろうかと後悔の念が胸を過ぎるが、それ以上に苦痛― ―当時の自分としては――だったのは一緒に来る「お兄ちゃん」のことだった。何を話せばいいの か、自分よりもうんと年上に見えていた彼には自分がどんな風に映っているのか気が気でなくて、 大抵「お父さん」の背中の影に隠れてきちんと接してこなかったように思う。一緒に食事をしても 何か買い物に行っても、いつも「お父さん」を間に挟まないと意思の疎通を図ることが出来なかっ た。

辺りを駆け回ってはきゃあきゃあと歓声を上げていた望美はどこにも居らず、じっと、新緑の瞳を 琥珀色をした人に向かって警戒とも見極めともつかない視線を送っていた。そのくせ、彼が話しか けたり目が合ったりすれば小動物が物影に隠れるより早く逃げる。構って欲しいくせに構ってと素 直に言えない、それこそ子供っぽさが前面に見て取れる行為だったけれど、あの時はあれが精一杯 だったのだ。

二人の緩衝材となってくれていた「お父さん」は先だって彼岸へ逝ってしまった。


「・・・・・ぞみ、のぞみ」
「・・・・・・」
「おい、望美!聞いてんのか!?」
「あ、将臣く、ごめん、何?」


足を止めて見上げれば、将臣が半分呆れたような顔でこちらを見ている。十字路の真ん中、疲れた かと口にしながら辺りを見回しているところを見ると、どうやらここから先の道は彼でも見当がつ かないらしい。もっとも、望美が引っ越してから一度たりとて彼が家に来たことないのだから当然 のことである。


「ったく、歩きながら寝てるんじゃねぇよ」
「寝てないよ。ちょっと考え事してただけじゃない」
「まぁ今日は初めてクローズ作業までしたからな。で、ここからどっちだ?」
「もうここでいいよ。この曲がり角からすぐなの。ありがとうね、送ってくれて」
「でも、お前この間誰かに追いかけられたって言ってたじゃねぇか。大丈夫か?」
「平気だよ。ホント、ここからすぐなの」


そうか、と言いながらも望美を心配そうに見るのは将臣の癖で、彼女がこうやって曖昧に笑うとき ほど何かを隠しているのだと知っているからである。けれど望美は決して将臣には言えない。

弁慶と二人になるあの家に帰りたくないのだなどとは。

息詰まるとも、緊張するとも分からないあの二人きりの空間。特に一限が無い日でも決まって早く に家を出るのは彼が決してその時間帯には出勤しないと知っているから。早くに帰って早めに部屋 に引き上げるのは、彼がこんな時間に帰ってくるとはありえないと分かっているから。自己防衛の 本能が彼女を突き動かして、なぜそんなことをするのか考える暇も無いくらいに体が勝手に動く。 話すときには自分でもおかしいくらいに気を使って、見えない緩衝材を間に噛ませないと――侵食 され尽してしまう予感が始終頭の隅にあった。

うつむいて、大丈夫とたった一言呟くと、そうかと将臣はいつものように呟き返して頭をくしゃり と一撫でした。そのまま、大きな手を大雑把にわしゃわしゃと動かして、せっかく整っていた藤色 の髪を乱してしまう。


「わっ・・・・・・!ちょ、何!」
「じゃあな、また明日!」


望美の文句がさらに重なる前に、将臣はさっそうと引き返していった。近所迷惑になるので大きな 声なんて出せるわけも無く、仕方なく手ぐしで乱暴に髪を直し、さてと歩き出そうとした時にこち らに向かって歩いてくる人影が目に入った。

琥珀色の人、弁慶その人だった。


「あ・・・・・・」
「今、帰りですか?」


街灯に半分照らし出された顔は笑っている。整っている顔を綺麗に笑顔に変えている様は穏やかそ のものであったが、望美にはなぜか背筋を伝うような恐怖感があった。いつもと変わらない彼なの に、纏う空気の気配と温度が一転して冷気を帯び、柔らかな声音の裏に隠されたものを嫌でも悟っ てしまう。きちんと返事が出来ない望美に、弁慶は笑顔を崩さぬまま近寄ってきた。


「たまには、一緒に帰りましょうか?こうして帰りが一緒になることも珍しいですし・・・・・・」


厭とも応とも取れない曖昧な頷きを見せた望美の細い腕。女性が持つ特有の柔らかさに華奢なその 腕を、弁慶は男性らしく骨ばった手で掴むと――早足で歩き出した。肩の向こうから痛いという声 が聞こえてきてもお構いなしにその足を進める。

何が自分をこうさせているのか分からない。ただ胸の内を駆け巡るのは焼け付くような嫉妬の情と 狂いそうなくらいの支配欲。誰にも触らせない、誰にも見せない。あぁ、これからどうするつもり なのだろう。カーテンが風に煽られて舞い上がるように弁慶の脳裏には感情が押し寄せて、ふわり と元の位置に戻るように冷静になるじぶんが居る。

止せ、離してやれと囁くもう一人の自分が。


「べ・・・・・・弁慶さ、いた・・・・・・痛いですっ!」
「彼が、『将臣くん』ですか?」


家の扉を開けて、明かりもつけず振り返りもしないまま、弁慶は固い声で望美の訴えを綺麗に無視 して訊ねる。背中からの沈黙が肯定を表していて、真っ暗なはずの玄関の光景が赤く塗りつぶされ る。


「随分と・・・・・・」


止せともう一人の自分が囁く。このまま壊してしまえとまた一人の自分が囁く。

あぁ。

煩い。


「仲の良いことで・・・・・・」


次の瞬間、望美を襲ったのは生まれて初めての感触で、それは想像していたよりもずっと熱いもの だと知った。

このまま、唇を合わせたところから溶けていって、骨の髄から最後まで食べられてしまうのではな いかと思うような弁慶の口付けに、どこか打ち震えていることを自覚した。


――こうなることを望んでいた、ずっと。


それはこれから先の背徳を予感させるものだった。










今回のポイント「嫉妬に駆られた濃厚なちゅー」
これからどうするんだろ、自分……(えっ