熱病  3 




茫洋としたまま大学の入学式が終わってしまった。今日のためにわざわざ拵えたリクルートスーツ も黒いパンプスも義両親が買ってくれたもので、柄も生地もシルエットも全部こだわったはずなの に、こうしてその他大勢といると簡単に埋もれてしまう。隣で将臣が大口を開けてあくびをした。


「将臣くん、寝すぎだよ」
「しょおがねぇだろ、昨日もバイトだったんだからさ」
「バイトねぇ・・・・・・」


どうだか、と望美は茶目っ気たっぷりに言い返した。こうして顔を合わせるのは久しぶりである。 今までなら長い休みに入ると何となくの間隔で顔を合わせていたのに、引っ越してから全く音沙汰 が無かった。今更こまめにメールを交わす中でもないし、第一将臣は望美の事情を一番はっきりと 把握している人物でもある。連絡しないでいたのはきっと、彼なりの気遣いなのだろう。


「これからガイダンスだっけか」
「うん、そうだね。校舎のほうに移動して・・・・・・あぁ、もう広い!迷っちゃうよ」
「方向音痴過ぎ。こっちだろ」


将臣は着慣れないスーツでいかにも窮屈そうに伸びをした。この調子ならガイダンスでも平気で寝 こけるのだろう。望美はそれとわから無いように溜息をついた。そして、迷う、という一言に引き ずり出された春休みのある日の出来事に心臓が乱れるのであった。

あの日。

考え事をしているうちに道に迷い、雨に打たれて帰った日。春先の雨は冷たく、心細さを増すよう に着ている服がどんどん冷たくなっていく。本当は弁慶の携帯に電話をかけようかとも思ったけれ ど、それが出来なかった。何度も何度もカバンの中の電話を探り当てはつるりとしたそれを手に取 ったのだが、教わったばかりの番号を押すことは無かった。

どうして出来なかったのか、未だに自分でも分からない。ただ、電話をかけてなんていえばいいの か分からなかったのは確かだ。「迷ったから迎えに来て欲しい」と簡単に言えばよかったのに。間 違いなく、自分と弁慶は兄弟なのだから。

運よく大通りに出られると、同じように傘を持たずこちらにやってくる青年がいた。どこかで会っ た顔だなと思い、それが誰だったか思い出す前にあちらから声をかけてくれたのだ。


「あれ、ひょっとして弁慶の妹か?」
「あ、どうも、こんにちは・・・・・・」
「傘はどうしたんだ?アイツの家に帰るなら方向は逆だぞ」


そう問うてくる彼とて傘をさしてはおらず、柿色の髪から雫が垂れるというより流れていると言っ たほうがいい有様である。望美は曖昧に笑みを浮かべると、あんなに電話でいえなかった一言がす んなりと出てきた。


「道に迷っちゃって」
「そうか。あぁ、最近あの家に来たんだったな・・・・・・その」


言いよどんだところを見ると、どうやらこの家の事情を知っているらしい。そういえば、父の葬儀 の日彼は弁慶の幼馴染だと紹介された気がする。それにしても名前はなんだったか。あの時は初め て触れる死にただ動揺し、そして知らない人たちの間でどう切り抜ければいいのか頭が一杯だった から、顔ぶれはおろか人の名前を覚える余裕なんて無かった。


「あぁ、俺は九郎と言うんだ。これから帰るから送ってやろうか」
「ありがとうございます。実はこの辺りをぐるぐる回っちゃって」
「この辺はなれないと複雑だからな。とにかく急ごう。このままだと風邪を引く」


ぎゅっと眉を寄せて流れてくる雨水をやり過ごす。先にたって歩いた彼の背中を追ってそうして家 に着いた。道すがら望美は改めて自分の名前を名乗り、九郎は雨が降っている最中にも関わらず「 よろしくな」と晴れやかな笑顔で笑ってくれた。

弁慶の反応は淡白そのものであった。玄関に入りただいまと声をかけたとき、そもそも彼が家にい たことを驚いた望美であったが、何も言えなかったし聞けなかった。もっとも、聞いたところで彼 は答えてくれるという保証もなかったが。


「君はそこで待っていてくださいね」


弁慶はタオルを持ってくるからと言った。言って、こちらをじっと見た。その瞳が。

昼間に確かに見た格好の弁慶。柔らかい物腰で適度な距離をとってくれた弁慶。しかし、あの一瞬 はどの弁慶でもなかった。そこにいたのは――知らない人だったのだ。男である前にただの人間に なっている弁慶に、望美はその日の夜になってもあの瞳の光が忘れられなくて本当に動揺していた。

我が家のように入り込んだ九郎がバスルームから出てくるまでのほんの僅かな時間、初めて彼は自 分を見ていたように思う。

中途半端な兄弟と言う関係は、望美に未だに弁慶の呼び名を教えてはくれない。





「大学の入学式はどうでしたか?」
「人がたくさんいて大変でした」


これから大学へ行くという弁慶に合わせて二人で少し早めの夕飯を取っているときのことだった。

一緒に暮らしてみてわかったのだが、弁慶は大抵のことなら何でもこなしてしまうのにひどく無頓 着でもある。こうして今食べている和食もほとんど彼が作ったものだし、頭だってべらぼうに良 い――大学では法律の研究をしているらしい――のに、すぐにとっ散らかしてしまうのだ。物事を 効率よくこなしていく割には周囲のことに関しては無関心を徹底している。数多の教授が書いた本 をとにかく読んでは自論を確立するという作業を差し引いても、これは少々頂けない。


「あの、あたしバイトを始めようと思うんです」
「バイト?どうして?」
「本当は春休みのうちに始めようと思ってたんですけど、この辺りに慣れるので精一杯でそれどこ ろじゃなかったし」
「それで、もう決めたんですか?」


弁慶は口に運ぶ箸の動きを止めて訊ねた。望美は曖昧に笑って言った。


「はい。将臣君――鎌倉の幼馴染なんですけど、将臣君がバイトしているところの系列店がちょう ど人を探しているらしくて」
「ええと、将臣君・・・・・・ですか、彼はどんなことを?」
「あ、ただの喫茶店です。オーナーは一緒なんですけど、店舗は違います」
「そうですか」


短く相槌を打ったきり、弁慶は食事を再開した。望美は宙ぶらりんのまま放り出された形になって しまう。この会話では単に了承してくれたのか、それとも彼は報告として受け取ったのか分からな い。最近、夜になると毎日のように家を空けてしまうのでようやく話せたというのに。

望美としては単にアルバイトしてみたいという好奇心と、自分のことは自分でという自立心からの 決心――こう言うとなんだか大げさなのだが――だったのだが、弁慶にとっては取るに足らない事 実なのだろうか。

むしろ、存在自体が取るに足らないのだろうか。

こう考えると何ともやりきれない。

それから自分から話題を切り出しにくくなり、望美も黙って食事を終えた。気まずいわけではなか ったが、どうしても口を開きがたい空気が弁慶の肩辺りに漂っていて、あれこれと考えた言葉は全 部ご飯と一緒に喉の奥に落ちていった。怒っているかとも思ったが、怒りの対象がわからないので あってはどうしようもない。


「あ、後片付けはしておくので、大学へ行ってください」


先に食事を終えていた弁慶に向かってそう言うのが精一杯で、望美は巧く笑顔を浮かべられなかっ たのかもしれない。なんだろう、この違和感は。すれ違っていると言い切れない微妙で、繊細な距 離――溝とも言えない、この亀裂。修復するにはどうしたらいいのだろう。薄い壁は確かに向こう 側に弁慶の姿が見えるのに、望美にはとても固く思えた。


「そう、ですか。じゃあ今晩はお言葉に甘えますね」


対して弁慶は綺麗に笑顔を浮かべて言う。

それがまた、他人行儀もいいところだ。見えない壁に、言葉が反射してこちらに返ってきそうで望 美は短くはいと答えておくだけにした。

食器をシンクに運んで水を流す。弁慶は一度二階に上がって支度をしにいく。望美は一人台所に残 ってひたすら流れる水を見つめていた。

どんな言葉や反応を期待していたのだろうか。気をつけろとか、無理するなとか、そんなちょっと でいいから優しい言葉なのか、それともびっくりして欲しかったのだろうか。そう、もっとこちら に興味をもつ反応をして欲しかったのだ。

どうしてこんなに考えてしまうのだろう。春休みが終わってはじめての大学でわけもわからずカリ キュラムを組んだり、構内の配置を覚えたりしなくてはならないのに。


「望美さん、じゃあ僕は出ますね。今日は泊まりになると思うから・・・・・・」
「あ、はい、いってらっ!つぅ!」
「どうしました!?」


振り向いたなりいきなり顔をしかめた望美に、弁慶は持っていたカバンを床に置いて駆け寄った。 押さえている手を男がもつ力強さで引き寄せて自分の顔に近づける。


「切れてますね・・・・・・」
「あ、の。包丁で掠ってしまったみたいで」
「それは済みませんでした。僕が分かりやすいところに置いておかなかったから」
「そんなことはないです」


望美の言葉を聞いているのかいないのか、弁慶はすみません、ともう一度繰り返した。じっと、望 美の新緑の双眸を見つめながら。

望美は顔半分高い位置にある弁慶から視線を離していない。

切れた指先よりも、掴まれた手が痛い。それよりも、体の中心が痛い。

この琥珀は全部を曝け出して見透かして閉じ込める力を持っている、と場面にそぐわず思ってしま った。

視線が、絡まりあったまま弁慶は望美の白い指先を、今は暗い血の色がまるでスポイトで一滴落と したように浮かんでいる指先を――舐めた。鉄の味が、甘く感じる。

望美は驚いて体全部を使って反応したのに、弁慶の唇は右手の中指から離れはしない。薄い唇に淡 く食まれた指先を早く振りほどきたいのに、何かの呪縛にかかったかのように視線が琥珀に囚われ そして動けなくなった。


「・・・・・・っ!」


別の生き物の感触をもつ彼の舌先が触れたとき、望美の心臓は限界を迎えていた。もうこれ以上鼓 動を早めたら内側から飛び出してくるのではないかと言うとき、望美の口から零れたのは単純な、 世間でよく使われている呼称であった。

「おにいちゃん」と。


「・・・・・・バイトは、週二日までにしてください」


低い声で、望美の血液が付着したままの唇で弁慶はそう言うと、あっさりと手を離して家を出て行 った。

残された望美の耳に聞こえるのは、水がシンクを流れる音と心臓の音だった。

あの気配に包まれていたら、自分が自分でなくなる。望美と言う名の個性が揺らいで崩されて、後 に残るのはヒトの雌だけだ。薄ら寒い恐怖に似た感情に何と名前を付けていいものか、望美は全く わからなかった。





研究室の中が暗い。決して蛍光灯が切れているとか、照明を点けていないというわけではない。た だ、ドアがある一面を除いてそれ以外の壁一面に積まれた本と、床を侵食するまでに集められたぶ 厚い本が電気の光を遮って余計な影を作るものだから部屋の印象が暗くなってしまうのだ。

一体、どれだけの時間を費やせばこれだけの本を読みきれるのかと部屋の主に問いたいのだが、い かんせん彼の背中は一切の言葉を受け付けない緊張感を持っている。弁慶の薄い茶色の髪を、開け 放した窓から流れ込んできた風が揺らした。


「・・・・・・」


開かれたノートパソコンはちらついた画面を見せたまま新たな文字が打ち込まれる気配は無い。ぎ しと彼の体重を受け止めた椅子の背もたれが軋み、ようやく彼は一息ついた――というより思考回 路を断ち切ったというべきか。乱暴に髪をかきあげて投げやりな仕草で煙草に火をつけた。

春と冬の間に大きな出来事が相次ぎ、やらねばならないことは溜まる一方だ。この春から一つゼミ を任せられているのでその開講準備もつめなければならない。それでも、集中力は散漫で何一つと して満足のいく出来に仕上がらない。

弁慶は持て余した自分に苛ついていた。

自分の頭だというのにままならない。

考えたいことは山ほどあるのに流れる思考は望みもしないのにある一点に向かってゆく。そう、水 が上から下へ重力に伴って落ちるように、雲が西から東へと地球の自転に沿って流れるように。抗 うことは出来ない。

出来ないとわかっていても、抗いたい。

あれは、ダメだ。


「弁慶、いる?」
「おや、景時、珍しいですね、君がこんな時間にいるだなんて」


ノックもなしにスチール製のドアが開き、顔だけ見せたのは学部も年齢も違う長身の男――梶原景 時だった。二人は学生時代からの友人で、サークルの中でお互いだけが研究職を選んだということ で今でも付き合いがある。首だけ振り返った弁慶に、景時は曖昧な絵笑顔で答えた。


「ちょっとね、開講ガイダンスの準備が終わらなくてさ。で、庭から見たらここ電気ついてたから来て みたってだけ」
「君はいつも新学期前になると同じこと繰り返しますね」
「まぁね。ちょっとコーヒー飲みに行かない?」
「いいですね」


二人連れたってコーヒーの自販機がある喫煙所に行く道中、弁慶は景時にこう聞いた。


「君は妹が一人いますよね」
「うん、九歳下でね。弁慶にも妹がいる・・・・・・んだっけ」
「教えてください、景時。『兄』の顔とはどんなものか」


――彼女の前で、男にならない方法を










今回のポイント「見つめあいながら指舐め」
マニアックですいません。(土下座)