熱病  2 




高校の春休みを利用して望美は生前の父親と弁慶が住んでいた家に引っ越した。幼馴染の将臣と譲 と離れてしまうのはとても淋しかったけれど、なんだかそんなことを口に出すのはためらわれ、ひ たすらに要らないものを処分した。

兄の弁慶は先にひとり暮らししていたマンションを引き払い、家に戻っているという。荷物を運び 込んだとき、「少ないね」と短く言われただけで、それからはもうダンボールを片付けることに専 念した。大体、彼を何て呼べばいいのかすら分からない。お互いがお互いを兄弟として認めていな いのに「お兄ちゃん」と気軽に呼べるほど、望美は子供でなかった。


「ひと段落つきましたか?」
「あ・・・・・・はい」
「じゃあ、下で少し休みましょうか。後でこの辺りを散策してもいいかもしれませんね」


望美にあてがわれた部屋に、首だけ覗かせて弁慶は笑った。唯一救いともいえるのが、彼の距離の とり方だった。くっつくでなく突き放すでなく、これから「同居人」としてやっていくのに最適な 距離を保ってくれている。おかしなことに、それが少し淋しく感じるのはやはり血が織り成す感情 なのだろうか。

下の居間に降りると弁慶が花の香りをつけた紅茶を出してくれた。ヨレたシャツとジーンズと言う 、限りなくラフな格好の彼は流れるような動作で望美にカップを差し出す。対して望美も濃い目の ジーンズにキャミソールの上にカーディガンを羽織っただけと言うラフな格好ではあったが。


「大学はここから近いんでしたっけね」
「三駅先で、この家からだと・・・・・・最寄り駅は」
「歩いて十五分くらいですよ。あぁ、散策ついでに駅までの道を覚えておいた方がいいですね」


決して、自分が案内するからとは弁慶は言わない。行くのも覚えるのも自力でやれ、と言外に含ま せている。望美は、ようやく白い頬を笑いの形に変えた。


「お夕飯、どうしましょうか」
「そうですね・・・・・・冷蔵庫の中はあまり期待できませんから、ついでに何か買ってきてもら えますか?」
「はい、えっと、あの、何か嫌いなものってありますか?」
「僕は特にありませんから、どうぞ望美さんの好きなもので大丈夫ですよ」


彼は望美を「望美さん」と呼んだ。一番無難で一番当たり障りの無い呼び方である。兄弟としては なかなかに余所余所しい呼び方ではあるが、弁慶の醸す雰囲気としてはなんだかしっくりときた。 また同時に彼は余計なことは一切言わなかった。下手に気を使ってくれるよりもずっと、望美にと っては気が楽でもある。どこで何の仕事をしているのかとか、どういう風に育ったかなどあえて言 うつもりは無いらしい。

あくまで二人は、同居人、であった。





「じゃあ、あの、あたしちょっとこの辺りを回ってきますね」
「はい、気をつけて・・・・・・あ、僕の携帯の番号、知っていますか?」
「そういえば、知りませんね。じゃああたしのも教えます」
「ええ、何かあったらかけてくださいね」


玄関先でのやり取りである。午後一時を半分回った頃合に、望美は一度周りを歩いてみることにし たのだった。

鎌倉と少し雰囲気の似たこの町は、文字通り似て非なるものであり、長年慣れ親しんだ町並みとは 色彩からして全く違った。目下覚えるべきは駅までの道のりとスーパーの位置である。出来ればち ょっと一息つける喫茶店を見つけられれば上々か。幾分か埃にまみれてしまった上着を着替えて、 望美は町へと出て行った。

春らしく霞む曇天の下、望美は適当に歩いていた。頭の中を過ぎるのはこれからのこと、これまで のことばかりだ。弁慶とはなんとかやっていけそうである。でかいわがままを言わなければきっと 一緒に暮らしていても――もともと彼は大学に詰めているらしいので滅多に生活時間帯が合わない のだそうだ――息苦しいということは無いだろう。大学だって将臣と同じで学部まで一緒だ。

思ったよりも悲観的状況ではないかも知れない。

頭をそう切り替えることはとても大切だ。


「あ、れ。ここって」


ぐるぐる回ってるつもりでも、考え事をしながら知らない町を歩けば道に迷うというものである。 駅に無事にたどり着いたものの、スーパーの看板を目印に移動していたのではなかったか。入る道 を一本間違えたかなと引き返してみても、そこには知らない家が立ち並ぶ住宅街。霞んでいたはず の曇天だって重たく見えてきた。

右か左か、その角を曲がるか真っ直ぐ行くか。ああ、どれが選択として正しいのだろう。家にたど り着くのは、一体どの道だろうか。


――家って・・・・・・


これから「家」として暮らしていくのはまだたった数時間しかいない空間である。それでも家と認 識している自分がおかしい。父――育ての父親から初めに話を切り出されたとき、この人たちは何 て薄情なのだろうかと唇をかみ締める思いだったが、彼の目に浮かぶ涙を見たとき、そんな考えは 一気に吹き飛んだ。赤ん坊の、それも生まれたての自分を引き取ってくれた人たちは精一杯の力で 望美を送り出してくれた。それでも、望美自身はあの、弁慶とこれから暮らしていく住居を家と認 識しているのだ。

人は忘却するから強い。


「まぁいいか」


散策ついでである。弁慶も今日は出かけると言っていたではないか。ちょっとくらい外出の時間が 遅くなっても何も言うまい。そう考えた望美はとりあえず真っ直ぐ行くことにした。





弁慶は一人落ち着き無く居間の中を行ったりきたりしている。本来ならば大学の研究室へ出かけて いる時間ではあった。夕飯までには戻るから、と望美には言っていたがその望美が五時を回っても 帰ってこない。一応、事情を話してある教授には連絡を入れてあるが、それでもどうしたらいいの か分からない。

そう、例えば、これが幼い兄弟だったら探しに行くとか、共に育った兄なら気軽に携帯に連絡を入 れるなり出来るのだろうが、なぜかそれがためらわれた。手に握った携帯電話はただの精密機械に 成り下がり、弁慶の両足はうろうろと居間を往復するだけの器官になっていた。


「・・・・・・っ!」


全くもって自分の思考回路も不可解である。相手は三歳児ではないのだ。さっさと出かけて溜まっ た仕事を少しでも片付けて、そうして夕飯くらいに戻ってくればいい。帰ってくるころには彼女も ひょいと戻っていて、あの笑顔で「迷いました、やっぱりこの辺は複雑ですね」とか何とか言うは ずだ。だけど、心配は先月まで降っていた雪のようにどんどん積もっていく。

ようやく、目を見て話せるまでになったのに。


「・・・・・・」


望美という存在は自分の中でひどく中途半端な女だった。最後に見たのは少年と少女の区別がつい ていないくらいのとき。頬に幼さを残しつつも、しっかりと女性へと変わっていく彼女に、自分は どんな顔をしたらいいのかさっぱり見当がついていなかった。だから、自分が最適と感じる距離を とりつつも相手の出方を窺っている状態だったのだ。今のところ、大きなヘマはしていないようだ。


「降ってきましたか」


ぽつんぽつんと窓ガラスに水滴がついていく。春雨と言うには雨脚が急激でそして強い。そういえ ば、望美は傘を持って出かけただろうか、いやそうじゃないとか思いながら、結局弁慶は何も行動 を起こさなかった。

それからどれくらいかの時間が経っただろうか。玄関のインターフォンが間抜けに居間に響いては たと顔を上げればうす暗闇である。鍵が開く音がして、なぜか二人分の気配がしている。おかしい なと思って居間から廊下へ出たときに、望美の声で「ただいま」と聞こえてきた。


「お帰りなさ・・・・・・九郎!?」
「あぁ、弁慶。望美が道で迷っててな、俺がちょうど通りかかったんでここまで連れてきたんだ」


邪魔するぞ、と濡れた服のまま九郎は勝手知ったる家に上がりこんでいく。短い説明で状況は分か ったが、濡れた大きな足跡がいくつもついていくのはさすがに眉をひそめたいところだ。


「君は、少しそこで待っていてくださいね。今、タオルを持ってきますから」


呆れた溜息をつきながら、望美を眺めた。濡れぼそって束になった髪から雫が垂れている。頬に張 り付いた一房からこぼれた雫がぽたりと首筋に沿って流れ、僅かに覗いた鎖骨を越えて服の中に消 えていく。ぴたりと張り付いた長袖のニットが彼女の体のラインを浮き立たせ、寒さで淡く色つい た頬は白桃の色合いにそっくりであった。前髪からつぶらな大きな瞳がじっとこちらを見つめてい る。何かを言いたげに緩く開いた唇は、どのくらいの柔らかさなのだろう。


――あぁ、これは・・・・・・


自然と手が彼女のほうへと伸びていく。そのとき。


「弁慶!タオル借りるぞ!」


バスルームからの元気のいい九郎の声にびくりと遮られた。止まっていた時間が急激にもとの速さ を取り戻して、弁慶はいつもの笑顔を顔に貼り付けた。


「どうぞ?全く九郎は自分の家にいるみたいですね」
「ははっ、俺の家より詳しいからな」


九郎は柿色の頭を白いタオルで大いに拭きながら出てきた。まっすぐな眉の下には強い意志を宿し た双眸。整った顔立ちではあるが、弁慶とは全く系統がことなり、なんだか「サムライ」然として いる。


「タオル、持ってきます」


弁慶は冷たい玄関先に望美を残してバスルームに消えた。

あの時、過ぎった欲情に僅かながらも動揺しながら。










あぁ、欲情ってなんていい響きなの……!(変態)
九郎は出会ってすぐののんを呼び捨てにしていそうです。