熱病 14





永遠に続くとは思ってなかった。

永遠なんてものは所詮、まやかしで幻想で、当てにならないことこの上ない。形あるものはいつし か滅びるとはいえ、形のないものだって終わりは来るのだ。その事実を否定したいのならばそれな りの反証を持って来いと言ってみせる。永遠に続いたものはあるのか。あった例があるのか。

目の前に突きつけて、これがお前の出来なかったことだと言いえるのか。

いずれこういう日が来るだろうとは思っていた。いいや、願っていたのかも知れない。ただ、こん な終わり方をしたかったわけじゃない。自分の立場をわきまえて、そして、傍にいようと――あく までも、彼女の兄として――決めたはずだった。

あの何気なく見かけてしまった、彼女の世界。あれを奪い取ってしまいたくなる反面、そうするこ とがとても恐ろしかった。そんなことを考える自分自身に心底嫌気がさしたし、嫌悪を抱くのにも 関わらず、思考を止められないのだから余計に始末が悪かった。そして、そんな自分に更なる嫌悪 が重なって、日々積もりに積もって、根雪がその季節を支配するがごとく、埋まるように喘いでい たのかもしれない。

一度足をとられたら沈むしか選択肢のない沼の中は、どんな光も音も届かぬほど暗く冷たく、助け を求めようと手を伸ばすことも叶わなかった。

堕ちるなら一人でと。

沈むなら気付かせることなくと。

そう思ったのは遠い昔のことではなかったはずだ。

幾度も、幾度も幾度も、引きずり込んでやろうと罠を仕掛けて逃げ込むように仕向けていたのに、 彼女は全てに対して純粋で清廉に答えてきた。戸惑いの光を双眸に浮かべながらもこちらを見てく る瞳の中に、その感情がないことくらいとうにわかりきっていた。一度汚したらどうなるのだろう と、好奇心で侵害できるほど無慈悲になれるわけでなく、かといって諦めるほど心は単純に出来て いなかった。

そうして、こうなってしまって、やっと己の無力さと情けなさが眼前に広がる。

最初は、最初はただ厄介な存在だとしか思っていなかった。半分しか血が繋がっておらず、付き合 いも親戚か下手をしたらそれ以下という彼女は、自分にとってひどく中途半端で持て余す存在だっ たはずだ。死んだ父親は写真を見るたびに彼女に残る妻の面影を追い、あれこれと昔話や今度会っ たときの話をする。

その話を聞くことすら煩わしく、母を捨てた父が、嬉々として別の女に産ませた子供を思うことが 汚らわしく、どうしようもなかったから家を出た。大学進学はきっかけに過ぎず、ああこれから何 にも邪魔されることなく生きていけると思った。顔を合わせる必要があるときだけ我慢すればよか った。

父親が死んでしまって、その遺言がものを言った。死んだ人間の意志を無下にも出来ず、マンショ ンを引き払ってこの家に戻ってきたとき、一人暮らしの気楽さに慣れ切っていたから、自分以外の 存在がいることの窮屈さも感じた。折り合いをつけて、互いの境界線をはっきりさせていれば安全 だった。事実、そうしていた。


――それが、どうだ


この、背徳か冒涜か。

いいや全ての罪業を背中に背負って、それでもいいとすら思ってしまうのはなぜだ。

黙っていればよかったのだ。目をそらしていればよかったのだ。触れなければ良かったのだ。知ら なければ良かったのだ。

己がしでかしたことの大きさがわからぬほどの子供だったならいい。逃げる背中を無心で追ってい けるほどの覚悟があったならいい。そのどちらも出来ないから、自分こそが中途半端なのだ。引き 返す道を閉ざしたのもこの手で、求めるものを逃がしたのもこの手だ。

一体どうしてと理由を問うても答えはなく、なぜだと考えても一向に埒が明かない。いつから、な んという問いかけは愚問にもならぬ。わかるのは狂気にも似て気違いな感情だけで、あとは何も残 っていない。暴れる激情を抑える術を持たず、ただ、ひたすら蓋をして、外に決して漏れぬようき つく戒めて、守ってきたのだ――この、なんでもない日常を。彼女がいて、呼吸をして、動いて、 笑っている日常を。

古代に戻れたならいい。あの時代は、異母婚が公然と認められていた。時代がたった十世紀ちょっ と違うだけでこの想いが罪と言うならば、その時間だって越えてみせる。彼女が、笑顔を浮かべて 日の下を歩けるようになるのならば、そのくらいしてみせる。

だが、出来ないのだ。


――もう一生、手に入らない


だって壊してしまった。






電気をつけていないリビングのソファに座って煙草に火をつけると、ジッポの炎が届く部分だけぽ うと明るくなった。薄いレースカーテンを通して入り込んでくる街灯の明かりだけが光源となって 、空間は青白い暗闇となっている。指に挟んだ煙草の先端は、彼が喫む時だけ光を強くし、手を動 かせば、さながら橙の蛍が宙を舞っているように見える。


――なにもない・・・・・・


暖房特有の、生ぬるくて毛布の表面を丸めたような感触の空気は漂っていない。凛と張り詰めた冷 気の中で、弁慶は徐々に冷えていくとわかっていながらも、煙草を吸うこと以外、何もしようとし なかった。

動くことが出来なかった。

あっという間に消え去ってしまった背中を追うことも出来なければ、真夜中に出て行った彼女の行 き先を探ることもしていない。ただ、帰ってきたときのことを――帰って来て欲しいのか欲しくな いのか、もうわからないのだが――考えて、こうして玄関に一番近いリビングにいた。

あの時、もしもあの薄い背中をとっ捕まえていたらどうなっていただろう。抱きしめるほどによく わかる、華奢な腰を無理やり押さえ込んでいたなら、どうなっていただろう。

しかめ面を作って、前髪をくしゃと掻き揚げる。

欲しくて、欲しくて、欲しくて欲しくて欲しくて、もう頭が変になりそうだった。いいや、実際は もう変になっているのだろう。恋と言うには優しすぎる感情に苛まれて、コントロールがききやし なかった。一度知ってしまった甘美な全ては、くっきりと焼きついて離れるどころか鮮やかになっ ていって、まるで、一生残る火傷を記憶に直接つけられたようなものだ。

おかしいと人は言うのだろう。その感情はいけないものだと。封をして外に眼を向けろとも言うの かも知れない。それとも、汚らわしいと白い目で見て後ろ指をさして影といわず表といわず、罵る のだろうか。

なんでもいい。何でもすればいい。

ただ、そんなものは些細なものとして受け止められる。流してしまうことだって出来る。外の世界 なんてものはとうにどうでもいいものだし、他の女に欲情もしやしない。

様々な感情は心の中を渦巻いて、恐ろしいほどの流れを作って自分を巻き込んでゆくけれど、それ すらも心地よいと思ってしまうのだから末期だ。彼女が、自分から失われてしまうこと、それがな ければいいのだ。失わないためならなんだってする。


――そう想うのに


彼女は行ってしまった。

当然だろう。わかりきっていたことじゃないか。何を、今更。

弁慶は煙草の火をもみ消す。ゆっくり吸っている場合じゃないとどこかでわかっているのか、一本 丸々吸われた気配はない。目の前の灰皿は時間を追うごとに山が出来ていって、ちょっと動かせば 崩れてしまいそうになる。そのくせ、何かを咥えていないとイラついてしまうから、新たな一本を 取り出すのだ。

中毒もいいところだと自分を笑ってみるも、止めるものは誰もいない。

そう、誰もいないのだ。この家は、義母が死に、父が死に、そしてその娘は己を避けて出て行った 。きっともう戻ってこないだろう。戻ってこないほうがいい。自分のためにも彼女のためにも。じ っとしていても、冷気の中にいてもこの身を焦がして焼き尽くすような感情は、きっと彼女をまと もにしておくことを許しはしない。確信に近い予想だ。

けれど。


――魂が


魂が、魂から彼女を求めてやまないのだ。同じ血が流れているあの体を。どうして彼女でなければ ならないのだろう。世界は広がっていて、一歩踏み出して視線を上げればそこにあるのに。雑踏の 中で一人立ち尽くして目を閉じるとき、浮かぶのはあの藤色の鮮やかで眩い姿なのだろう。なのに 、あの人以外はほしくないのだ。

怒る顔、泣く顔、笑う顔。嬉しそうに頬を緩めて、藤色の髪を耳にかけるとき、たおやかで白い一 輪の花がほころぶように空気は一瞬にして柔らかなものになる。その中の、なんと居心地の良いこ とか。このまま呼吸が止まってしまってもいいと思った。緩やかに流れてゆく、彼女との時間は珠 玉と讃えることも出来るし、またその反面、くすぶる炎がじんわりと紙を燃やし尽くして行くかの ように、確実に終わりへと向かっていた。誰かが、その火を揉み消せば、あとは汚らしい灰が残る だけ。

ボックスの蓋を開けて指に馴染んだ太さをさぐっても見つからない。ようやく視線を落として中身 を見ると空っぽであった。琥珀の瞳をついと動かして、灰皿を見ると納得できる数が吸われていた 。買い置きを取りに部屋に行こうかどうしようか迷った末に立ち上がると、異質な音が聞こえた。

はっと琥珀の双眸が見開かれる。馬鹿みたいに、阿呆のように立ち尽くした彼は、手にしたジッポ を足元に落とした。急にワイシャツの胸元から冷気が入り込んできて、背中に寒気を感じた。胃の 辺りがきゅうと引き締まって、開いた空間に泣きたくなるような光がしみこんできた。世界は一瞬 、白い闇に包まれて、無音が広がり触覚は失われる。

喉の奥にメンソールが残っているのがわかった。

別に体温を下げるわけではないのに、冷たく感じるメンソール。煙草の味を少しだけ和らげる分、 喫んでいるという実感をもたらしてくれる。煙たさを感じる空気の中、泳ぐようにしてその方角へ と向かっていった。

激する感情は瞬きの間に静謐となり、鏡面が振動でたまゆらののちさざめき立つように、一刹那ざ わめいた木の葉の音が、次の瞬刻に静寂を取り戻すように。

望月が笑う。琥珀が沈む。

朗月が落下する。樹脂の化石は融解する。


――まさか


扉が開かれる音は、こんなに神聖で心を掴んで握りつぶす威力を持っていたのだろうか。いいや、 聴きなれたこの音がこんな風に聞こえるのは、やはり期待しているからか。

わからない。

渇望と願望と、嘱望と。絶望に彩られて希望は輝きを増し、弾む心臓の音はただ煩く、強張った四 肢は言うことを聞かぬ。ああ、このまま手を伸ばして何を掴むのだろう。その扉を開いたら何があ るのだろう。

わからない。

激しく沸き起こる情はいともたやすく思考を絡めとって、あらゆるものをあらゆる意味で引きちぎ って、そうすることの、それを開くことの意味も何もなかった。ただ一つ、唯一つだ。それでなか ったなら、もう発狂してしまっても構わない。

揺り動く振り子が波に揉まれて規則を失ってしまうように、いっそのこと白痴になってしまいたい。

なんと愚かな。斯くも浅ましきや。

哀れなる孤児は、この世に一人しかおらぬ半身を求める。

ただ、望む人がそこに来たのかと、帰ってきたのかと思えば足も逸り、心は急いて体を動かした。


――あの人を僕にください


そのためなら何でもします。











ノー会話文
いろいろやりすぎた感があります。あの、ドン引きしないでくださ……