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なんと愚かな

かくも浅ましき

――けだし不条理、この病


熱病 ―発病―


静寂の中に二人の人間がいる。

一人は男で一人は女だ。

二人は向かい合っている。静かに呼吸を繰り返すだけで、動く気配が無ければ口を開く気配も無い 。ただ、瞬きの間すらも惜しいといった風に自分の眼で相手を見つめているだけだった。明かりを 点けていない部屋は暗く、カーテンを通して入り込んでくる街灯の光だけが頼りである。

時折、遠くの方で走るバイクの音が耳に届いた。まるで鳴き声のようなそのエンジン音は二人の間 にある距離を一層際立たせて、もどかしさを募らせる分、相手の持つ熱に触れることを躊躇わせた 。時間を間違えた烏が呑気に鳴いている。夜の深まりを一層知らしめて、あたりに漂う闇の濃度を 更に増してゆく。

琥珀色の男は新緑の瞳から寸分も視線を逸らそうとはしなかった。

そして、未だに信じきれないでいた。なぜ彼女がここにいるのか、どうして真っ直ぐに自分を見つ め返しているのか。狂いきれないでいる己の心のどこか、一番奥底でまだ疑っている。よく出来た 虚像が目の前にいるかのように感じてしまって、触れて実体を確かめればいいと思うのに、出来な いでいる。

触れたら光になって消えてしまうのではないか。

触れた途端、また逃げ出してしまうのではないか。

もう、あの走り去る背中は見たくなかった。もう一度見てしまったらきっと、今度こそ一番の根っ こから崩れてしまうだろう。ぎりぎりで保っていた何もかもが遠くに行ってしまって、夜に啼く烏 のように時間の流れも空間も無きに等しくなってしまうだろう。

早くその体を掌に感じたいと願う反面、不可侵の膜を帯びているような彼女の輪郭に、どうしても 触れることが出来ない。確かの自分の目に映っているのに、彼女は、どことなく現実感が無い。

長く、胸に流した藤色の髪は癖がない。細い首から伸びる頤は華奢で、その近くにある唇は鴇色の まま、時折薄く開いた。じいと瞳を伏せることない大きな双眸は当たり前のように瞬きを繰り返し 、たおやかな雰囲気を醸し出す緩やかな肩は薄く、ぎゅうと握ったら折れてしまいそうだった。

きっとこの人よりも美人を探そうと思えば、外に出て三十分も歩いていれば一人や二人に出くわす 。磁器のような頬を持つ人なら、出歩けばぶつかる。綺麗な人も、可愛い人も、血の繋がってない 人も、この世にはたくさん存在している。あちらとこちらを隔てる透明で脆いガラスの向こうには 、たくさん存在している。

けれども。

ただ純粋に不思議でならなかった。どうしてこの人なのだろうかと、どうして惹かれてしまったの だろうかと愚問にすらならないこの疑問は今になって目の前に来た。

一際強い風が吹いたのか、がたんと窓が騒いだ。植えられている木々の葉がこすれあって不気味な 音を立て、複雑な影がカーテンに写っては揺れている。

男は、一度そのほうに目を向けた。何を見ようというわけではない。ただ、うるさいなと琥珀色の 瞳が言っていて、まるでもう何もどうもするなと言いたげである。すっと目を細めたのは光源を直 接見てしまったからなのか、遠くのほうをよく見ようとしたからなのか。あまり定かではない。

男はそらした瞳をまた彼女に戻した。当然のごとく、女はそこにいた。腕を伸ばせば届いてしまう 。その気になれば吐く息の、儚くもしっとりとした感触が伝わってきそうだった。そしてやはり彼 女がそこにいることに、不思議さと懐疑さがない交ぜになって、じいと見つめ返すしかないのだ。

淡いくせにしっかりとした人だ、と思った。

彼女の持つ、彼女を彩る色合いは淡いくせに意志を宿す大きな瞳だけはしっかりと自分を捕らえて いる。これから何があるのかわかっている瞳だ。わかっていて立ち向かうというよりは受け入れる 、もしくは見極めるといったほうがいいのか。いいやいいや違う。彼女はきっと、純粋に自分を見 ている。ただそれだけのことだ。

不意にガラスの話を思い出した。

水族館の観賞用に使われるガラスだ。真正面から見ると向こうとの距離は全く感じないのに、断片 は一メートル以上もあるのだそうだ。同じガラスを何枚も重ねて接着し、大きな一枚の合板状にな ったものを作る。それを横に繋ぎ合わせて更に接着し、水槽一面が見渡せるようになる。

なぜ接着面が目に映らないのかといえば、接着に使う液体ガラスに同じ屈折率のガラスを使用して いるからだと聞いた。そうしてぶ厚くしておかないと、内部からの水圧に耐えられない。そして、 ガラスが見にくいものでは外部からの鑑賞に堪えられない。

なぜだか、ふとそんなことを思い出したのだ。

彼女と自分の間に、一メートルも距離は無い。だから、こんな感情もとうに見透かされているのだ ろう。透明で頑丈で純度の高いガラスも無い。だから、触れることが出来るように見えても出来ぬ わけも無い。今、この肩にくっついている腕を伸ばして閉じ込めることくらい造作もないのだ。

存在を知らしめても触れることが出来ぬ魚が、悠々と泳いでいる様を見ているのではないのだ。あ ちらに行けぬとわかっていたけれど、いざさあ行けといわれると躊躇してしまうような、そんな子 供のような意地を持っているわけでもない。


――おかしなものだ


ふと浮かんだ考えに苦笑一つ滲ませた男を、女は心底不思議そうに見つめ返した。

諦めにも似た、その笑顔。

弁慶は今、ゆっくりと望美に向かって手を伸ばす。





女は男を見つめている。

一度は逃げ出したはずだった。つかみどころが無く杳として実態の知れぬこの男から。

何重にも厳重な幕を他と自己の間に引いて、彼の一番柔らかい部分を隠していた。それを覗き見た いと思ったのはいつからだっただろう。幼いころ、父の背中越しに視線を投げていた彼は、自分の 予想を遙かに超えた想いを胸中に湛えて今、目の前にいる。長い睫が男の癖に滑らかな頬に落ちて 、それが震えるたびにああここにいるのだと実感が胸を打つ。

不思議と恐怖は無かった。代わりに在って当然だという思いがあって、瞳をそらすことも出来ない。

琥珀色の綺麗な双眸は透けた古代の樹液を思わせて、儚く、一直線に向かってくる光を乱反射させ る。金色に近い髪の、柔らかく癖を持って波打つ前髪とちらと見える額に聡明さが感じられて、や はり血の繋がりがあるとは今になっても思えなかった。細面で、自分の記憶になじみがあるような 男然とした精悍さはないものの、優しげな頬のラインには少年臭さなんて微塵も感じ取れない。薄 い唇の形のよさや、静かに上下を繰り返す喉仏に目をやってみる。

どこからどう観察しても、この人は自分と異なる性を持つ人で、そして半分、血が繋がっているの だ。

けれど、静けさが一呼吸ごとに深まってゆくこの空間では血縁が一番遠いところへ行ってしまって 、最も身近に感じられるものは腹のそこでとぐろを巻く熱いのだか燃えるのだか知れない感情だっ た。身を焦がすというわけではないけれど、侵食されて、風雨に晒された自転車が赤い錆をまとっ て誰からも忘れられるように、世界から忘れられたような気がした。いいや、違う。忘れてほしい のだ。こんな二人のことなんか、忘れ去って置いてけぼりにしてほしい。

耳を澄ますと、彼の呼吸が聞こえる。なんだかもう、それだけでいいような心持になる。凛として いて甘さがそぎ落とされた彼の空気の中にあれば、どんなにみすぼらしい姿でもいいと思ってしま うような。

怖くて逃げ出した、少し前の自分が心底理解できない。投げられた言葉達、見せ付けられた想いに 背を向けて、無常に走り去ったのはこの両足ではないのか。いいや、いいや。違う。少しずつわか っていたくせに目を向けなかったのだ――この両目を、彼自身に向かって。

その言葉を受け取ってしまえば、その想いを受け入れてしまえば、一気に加速してもう止まること も引き返すことも戻ることも出来ずに、ただ墜ち行くだけだということを知っていて、怖くて逃げ た。けれど、やはりダメだった。逃げ切れなかった。違う、自分でここに来た。何が待っているの か誰がいるのか、考えるまでも無かったのに戻ってきた。自分で、選んだのだ。

少しだけ長い瞬きをしてみる。

考えることはもう止めよう。考えるところなんかどこにも無い。自分を止めるはずだった大きな杭 は刺さっていないし、羽交い絞めにされてもどうせここに来たのだ。

瞼を開くと、その人は窓の方向に目を向けていた。そこに一体何が在るのかはわからない。風が外 でひときわ大きく吹いたのがわかった。先ほどから時折夜空に響くバイクのエンジン音はもう聞こ えてこない。カーテンの隙間から入り込んでくる、一直線の、金色の磨りガラスで作ったような三 角形の光が窓の桟から床に向かって出来上がっていた。

その人の横顔はとても静かで、何かを口にしようとはしない。瞳がきゅうと細められて、鼻の一番 高いところが明るくなっている。頬に影のグラデーションがかかっていて、琥珀の髪がふわりとし ていた。

無性に触れたくなってしまう。

けれど、呼吸だけが音となっているこの空間では、腕が自分のものでないように動かない。触れた い。けれど、触れたら、そこから何が起きるのかわからない。どれだけ崩されてしまうのだろう。 もういっそのことずぶずぶに溶かされて跡形もなくなってしまいたい。触れることがこんなに躊躇 うなんて、知らなかった。知り得なかった。


――ああ、やっと


男はゆっくりとこちらを向いて、手を伸ばしてくる。少しずつ彼我の距離の意味が失われてゆく。

なんて美しい人なのだろう、と思いながら望美は弁慶のその手を受け入れた。





軽い、と弁慶は思った。望美の頬にやった手に、彼女自身の手が重ねられる。ことりと頭を自分の 手に預けるとき、指先に髪の流れが伝わってきた。さらと音がしそうな真っ直ぐな藤色の髪が揺れ て小さな頭は無垢な重みを持ってゆっくりと彼女の体温が手の平に伝わる。閉じられてしまった瞼 の向こうには新緑を凝縮して填め込んだ、ガラスのような瞳がある。

愛おしいものを確かめるように、望美の指先が弁慶の手をなぞってゆく。爪の形、指の節くれ、関 節のくぼみ、全部を確かめて覚えこもうとするように冷えた指先がラインを辿ってゆく。女性だけ が持ちえる華奢な作りのそれの動きをじいと見つめている。


――触れてしまった


どうしても触れずにはいられなかった。

望美の頭が動いて柔らかな彼女の唇が自分の手のひらに押し当てられる。それから、閉じた瞳を開 けるのだ。

瞳の奥に、今まで見たことも無いような強烈な光線を宿らせて、真っ直ぐにこちらを見てくる。妖 艶さと純粋さが隣り合わせになって、彼女もどちらに傾いているのかもわからないような、覚悟を 決めた潔い瞳だ。遊女でいて高貴な令嬢であり貞淑でいて淫靡なその目を、弁慶は知っている。毎 日鏡の中にあった両目とそっくりだ。

狂気と正気の狭間でふらふら揺れ動く小船は、感情の波にさらわれて舵が取れぬばかりか、振り子 のような規則性も無く、胸を打つ鼓動だけが確かなものだった。けれど、そんなもの全部飛び越え て愛おしいと、この女が愛おしいと思うことのどこがいけないのだろうか。

全部、飲み込んでしまおう。

これから浴びるであろう非難も、これから訪れるであろう葛藤も。石を投げられても後ろ指さされ ても、彼女がここにいるのならば針でも何でも飲み込んでしまおう。虚も無も、皆も、有も。

弁慶はもう一方の手を望美に伸ばした。両手でゆっくりと瓜実の面を包み込んでみる。しっとりと した感触を受けて、彼女が泣いていることに気がついた。はらはらと零れ落ちるその一粒一粒が、 真珠が絹の上をすべり行くようで、驚いた反面、じいとまた見入ってしまった。


――愛おしいと


口にしたいだけなのに、溢れるのは想いでなく涙なのはどうしてだろうかと望美は思う。言葉にし ても仕切れない、知っている言葉全部を並べてもまだ余るこの気持ちに、どんな名前をつけたらい いのか分からない。

罪だともうわかっているのに、それでも求めてしまうことそれ自体が罪なのだろうか。羽のように 重みが無いくせに、気高く咲き誇る一輪の花のような存在感をもってこの胸にあるこの感情は、背 徳以外のなんでもない。わかっている。けれど、浅ましいとも愚かとも思わない。ただ欲しいと思 う、その純粋な欲求の前に、常識も規範も道徳も形をなさないのだ。

自分の顔を包み込む彼の手は冷たくて、ひんやりとしている。じいと間近に見据えるその双眸は澄 んでいて、瞳の中に映る己の姿が歪んで、そして霞んでしまう。ああどうか、今、濃霧の中にまみ れて誰からも遠く離れてしまいたい。この道を歩む背中を消して、二人だけ。

瞳を閉じても貴方が映るのは、業でしょうか。


「・・・・・・僕は」


その声が震えていたのは悲しみか喜びか。弁慶はゆっくりと口を開いた。望美は瞳を閉じたまま、 その続きをじっと待った。衣擦れの音が鼓膜に届いて、今の静寂が一層際立ちそして肌に迫った。 感じる冷気は凛として磨き上げた鉱石が鳴り響くようである。


「・・・・・・僕は君が――怖い」
「あたしも――貴方が怖い」


近付いてくる彼の体温、彼の熱。この熱の威力を知っている。ゆっくり溶かされて彼我の境目なん か必要なくなるこの熱。

感じる彼女の熱を唇に受けながら、ああもうこの病からは逃げ出せないとわかってしまう。触れた ところから崩れていって、もう理性も何も役に立たない。たちの悪い病にかかってしまったようだ。

絶対も、普遍も、永遠も。信じる気は毛頭ないけれど。

ああ願わくば――この病が永久に続きますように。




*fin*









お気に召しましたらぽちっと、ひとつ










じゃんのあとがきが読みたい人はもちょっとスクロールしてください。



















あとがき
というわけで弁慶×望美で禁断パラレルでした。
えと、途中までじゃん的萌えポイントに話を絞って書いてみたり、なんやかんやしてたら長くなっ たというこの話です。
「禁断ってよくね!?もゆる!」から始まったこの連載ですが、実に時間が掛かりました。(初回 アップが7月)
ほぼ同時期に始めたオペラ座はとっくのとうに完結しているわけで、それよりも遙かに連載回数が 少ないこの話。
途中からすごく気合のいる話になってました。どんどん弁慶が狂ってゆく、というかもう……あれ だ。うん、あれなんです。(は?
ヘタをするとこっちが振り回される話。でした。自分で作ったのにすごく不思議な気分です。
あたしは心情という、目に見えないものを描写するのがとにかく苦手なのですが、果敢に挑戦した 連載でもあります。
ほんの少しだけ成長したかなと思っていただけたら幸いであります。
最後になりましたが、ここまでお読みくださってありがとうございます。そして応援してくれた方 々、この作品を通じて出会えた方々に感謝いたします。
それでは、次回があることを祈って。

4.10.2007  じゃん