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熱病 13





布団に入って携帯を床に放り出したのと同時に部屋のドアが騒いだ。将臣は思わず上半身を起こし 、何も考えないまま玄関の鍵を開けた。ドアの向こうからは、ひっきりなしに聞きなれた声が自分 の名を呼んでいて、スチールのドアを叩く音はやむ気配がない。


「・・・・・・っ!望美!」
「まさおみくん・・・・・・」


走ってきたのか、それとも外の風が強いのだろうか。真夜中にこんな風に突然訪れてくるのは稀有 なことで、それよりも、望美の戸惑うような救いを求めるような瞳の前に、どうしたんだの一言は 喉の奥に落ちてしまった。ドアを開けた手を動かすことも出来ず、ただ、呆然と目の前の女を見つ めた。

望美は今までに見たことも無いような顔をして、暗闇の中に立っている。コートを引っ掛けただけ の格好じゃあ寒かろう。頬も鼻の先も真っ赤に染め上げて乱れた藤色の髪を直そうともせず、震え たまま、震えた唇を薄く開いてううと唸った。


「とりあえず入れよ。風邪を引く」


ひときわ強い風が吹き込んできて、裸足に冷たく感じた。ぐいと腕を引っ張ってみれば、その冷た さに再び視線を望美に戻した。人が、ここまで冷え込んで生きていられるのかと思わず疑ってしま うほどの冷たさだった。

望美はひどく苦心して靴を脱ぎ――ただのスニーカーだったのに、手がかじかんで使えないのと関 節が強張っていたからだ――節々に病気を持つ老婆のようにのろのろと部屋の中央まで歩いてきた。

そこで、天井から吊るされた糸がぷつりと切れてしまった様に座り込んでしまった。

瞳の中には何も映っていない。

操り手をなくしてしまったマリオネットのようにただぺたんと座り、改めて暖房をいれた将臣があ ったかいコーヒーを出しても何の反応もしなかった。一体、自分のよく知る少女がこうなってしま う何があったというのだろうか。


「・・・・・・」
「・・・・・・」


今まで、鎌倉にいたころ、こんな風に望美が将臣のところに駆け込んでくるなんていくらでもあっ た。親とケンカしただとか、怖いテレビを一人で見たあとだとか。けれど、いつも必ずどうしたと 聞けばちゃんと答えが返ってきた。将臣は答えを聞くだけ聞いて、望美がすっきりするまで聞いて 、そうして気が済んだら送り出していた。

だが、今は。

過去のどの場面を探っても見つからない。どうしたと声に出すことさえ憚れ、何があったと聞くこ とすら愚かしい。音も聞かなければ光も見ないその少女に、ただ黙って隣にいることだけしかでき なかった。こくりとつばを嚥下した、細い首が波を打つ。

望美の世界には今、何が残っているのだろう。





それからどのくらいの時間が過ぎたのだか知れない。部屋に唯一あるデジタルの時計は秒針の刻む 音をなくして、目をやらなければ時間の経過がわからなかった。


「――なにを」
「ん?」
「なにを見てきたのかなぁ、あの人の」


出されたコーヒーはとうに冷え切って、ぽつんと発した望美の言葉は、エアコンの室外機の音にす ら負けてしまいそうなくらい頼りなかった。蛍光灯はちらちら瞬いて望美の伏せた、長い睫が頬に 落とす影を時折不鮮明にさせる。白い頬だった。磁器のような滑らかさをもって喉元へと続き、そ の先には細い鎖骨が見え隠れしていた。

何を見ていたのだろう、彼の何を見てきたのだろう。

彼は、その皮膚一枚下で狂気のような、とても純粋な感情を隠して、隠し通して、そして混沌の渦 の中に一人いた。

決して褒められた感情じゃない。後ろ指刺されてしかりのものだ。それを、百も承知でだからこそ 自分を遠ざけた。安全な場所へと。きっと、これから絶対不可侵の壁を築き上げて、誰にも触らせ ないように誰にも見せないようにしてゆくつもりだったに違いない――当の望美にさえ。

琥珀色の人。透明な金色とこげ茶の交じり合った、マーブルの柔らかい雰囲気を纏う人。とても綺 麗な人だ。視線が合えばふと穏やかに微笑んで、骨の張った男性特有の手を顎の辺りに持っていく。


――あぁ


愚かさに涙も出てこない。どうして、あの視線の中で平気でいられたのだろう。

あの人はいつも、胸を貫く白刃の痛覚の最中にいたというのに。


「望美?」
「まさおみくん・・・・・・」


ついと視界に入ってきたオリエンタルブルーに引き戻される。彼の瞳はこちらの中身を窺うように じいと動きを定めて、望美は彼の名を呼んだきり、また何もいえなくなってしまった。いつの間に か少年らしい丸さが抜けた手を肩の辺りに置かれて、服の生地を通して、その体温がじんわりと染 み渡ってきた。


――あつくない・・・・・・


人によって熱が異なるのだと、そのときの望美は全く場違いなことを思っていた。自分の体にくっ ついていたら明らかに不釣合いなその大きな手の持つ熱のなんと味気ないことか。いいや、将臣が いけないというわけではない。なじみのある体温は、馴染みすぎてそして優しすぎた。

あの人の熱はもっと、布に一滴たらされたら一気に広がっていくような、そんな熱さを持っている。


――どうして


どうしてこうも比べてしまうのだろう。逃げてきたはずなのに。あの人の琥珀の瞳は透明で、何か 、見てはいけないものまで透かしてしまって、だから逃げてきたはずなのに。

だって、怖かったんだもの。

甘やかな恐怖に囚われて、ともすれば滑り落ちてしまっても良しとしてしまうような、そんな恐怖 が一瞬のうちに背筋を急降下して、考える間もなく距離をとった。彼の言葉を受けとることもせず 、ただ放り出して逃げたのに。走って走って、自分の知ってる世界に逃げたのに。逃げてきたのに 、追いかけてくるの?

違う、求めるの?


――何を?


「まさおみくん・・・・・・」


あの人は今、散らばった言葉達を前にしてどうしているのだろう。

砕け散った言葉の破片がどこかに刺さっている。刺さっていないなら、この痛みは一体どこから来 るの。


「・・・・・・兄貴と、何かあったのか」
「・・・・・・」


将臣はようやっとその言葉を口にした。

なんとありふれた単語で、ありふれた状況推察だろうか。その肝心な「何か」があってはならない ことだと将臣は知らない。そして、すぐ隣にいる幼馴染が、一気に放たれた奔流に巻き込まれかけ ているとも知らない。

止めて欲しいのだろうか。救って欲しいのだろうか。それとも、羽交い絞めにして一つのところへ 向かっていく思考を阻んで、そうして日常に留まるよう、釘をさして欲しいのだろうか。両足に大 きな杭が刺さっていればいい。それならどこにも行かない、行けない。


「何かあったんだな」


今度は疑問ではなく断定だった。誰が見ても何かあったとわかるような様子をしているのだから当 然である。望美の守る沈黙は確実に否定の意味を成しておらず、かといってその内容まで言えるほ ど――言ってしまえたらどんなにか楽だろう。言ってしまいたい。

あの人が、自分が、どんな想いを抱いて生きているかを。


――自分が?


一滴垂らされたら。

一気に広がる。

その答えは簡単に世界に染み渡っていって、いともたやすく全てを塗り替えていった。すぐ目の前 にあるものが一瞬で色褪せて遠くのほうに行ってしまう。不鮮明だったものが急激に像を結び、頑 なだったものが解けていって、望美は息を呑んだ。

混乱は落ち着きを見せ、秩序を取り戻す。あるべきものがあるべきところに収まり、全ては当たり 前の形を持って、当たり前のように広がっていった。

本当に、今まで一体何を見てきたのだろうか。

ああ、例え大きな杭が両足に刺さっていても、全部引きちぎってそこに行ってしまいたい。どんな にいけないことでもどんなに大きな罪でも、深い業の中でも、あの人と一緒に堕ちるなら、それも いい――こう思ってしまうことがわかっていたからこそ、怖かった。あの人の向ける想いが恐ろし いのでない。本当に怖いのは、堕ちることを望む自分だ。

望美は瞳を閉じる。視界にあった将臣の存在は消えて、代わりに、喉を塞ぐほどの大きな存在が欲 しくなる。あの人の熱、形、音。全てが、こんなにも愛おしくて狂おしいほど恋しくてならない。

一度知ってしまったなら、知らないころにはもう戻れない。


「――何も」
「お前」
「何もないよ、将臣君」


答えは簡単なところにある。わからないと思っている問題でも、一つ戻れば案外簡単に答えは見つ かる。ただ、導かれたその答えに自信を持てないとき、その答えが正しいとわかっていても、正し くないと思いたいとき、蓋をしてしまう。半ば強引に。半ば意識的に。

きゅっと唇の端を引き結んだ望美に、将臣はそれ以上の言葉を投げるのを止めた。微笑むようでい て泣くのをこらえているような、諦めたようでいて何かを覚悟したような、その表情はとても、と ても、綺麗で、新緑の瞳に浮かんだものがあまりに強くて、将臣は初めて望美を受け止め切れなか った。

望美は将臣を見つめる。将臣は望美を見つめる。

二人は向き合ったまま静かに呼吸を繰り返して、時折窓を叩く寒風の音が部屋に響いた。薄い壁と 天井は上の住人の生活音をそのまま反響してきて、はたから見れば、二人はケンカしたカップルが 気まずさに口を噤んでしまったようだ。


「だったら、何で」
「何でだろうね・・・・・・何でかなぁ」


将臣の問いかけに、どこか一つ噛み合ってない答えを返す。

将臣はこの夜中の唐突な侵入者に対してなす術がなく、望美から見えないところでひときしり困惑 していた。助けてくれと言いたげに入ってきて、招き入れてみれば何も話さず、時間が経てば今度 は顔つきが変わってしまう。めまぐるしくも変化する幼馴染が不鮮明になっていく傍ら、はた迷惑 とは思い切れないのが将臣の将臣たるゆえんかも知れない。


「話してみろよ、聞いてやるから」
「ううん、いいの」
「望美、お前、何か変だぜ。こんな夜中に来たと思ったら」
「・・・・・・変、かな?」


望美はぼんやりと将臣を見ていた。ここが鎌倉でないというだけで、彼の実家でないというだけで 、こんな場面はいくらでもあった。あったはずだ。

ありきたりな、普通の世界。

彼とは兄弟さながらで育ってきて、有川の両親からも育てられたと言っても過言でないのに、本当 に血が繋がっているのではと思うほどの濃密さで育ってきたのに、彼とそうなることなんて想像す ら出来ない。だが、あの人とは。


「そうだね、変かもしれないね」
「おい、訳わかんねぇって」
「――変でも、何でもいいの」
「望美!」


将臣はついに声を荒げる。しかし、そのあとに続けようとした言葉は、望美のぞっとするような笑 顔の前に霧散してしまった。ここに来て、大して中身のある会話をしたわけではないのに、彼女の 中の何が変わったというのだろう。どこかへ行ってしまうという感覚を舐めながら、もう何も出来 ないのだと肌でわかった。

何でもいいの、と望美は繰り返す。ふと笑って、寂しそうでいてもう戻るつもりのない人が浮かべ る笑顔を浮かべる。

あの人とは、離れて育って、悲しい出来事をきっかけに一緒に住むようになって、兄弟らしいこと を数えるほどしかしていなかったから、今までの溝を埋めるように努力をしたけれど。その溝は全 く別の形で予想だにしていなかった感情を伴って埋まるのだろう。埋まったそのあとはきっと、兄 弟とは違う形になるに違いない。

いいや、それは少し違う。もっと前から、ずっと前から勘付いていたくせに。


「将臣君、ありがとうね」
「望美?」


勘付いていて、見ないようにしていたくせに。

望美は藤色の直毛を手ぐしですばやく直し、コートを着てさっさと立ち上がった。


「あたし、行くね」
「おい、もうこんな時間だぜ。電車ね」
「いくね」


将臣は望美の行動に中腰を浮かせて、ただ、出て行く背中を引き止めることも出来なかった。行く という彼女が一体どこに行くかも見当がつかず、どうやって行くかもわからないまま。

望美は将臣に背を向ける。体の真ん中に落ちてきた想いにどうすることも出来なく、引き止める言 葉に耳も貸さず。

今はただ、本能がなぞらえた欲に支配されるがまま行きたいだけだった。


「じゃあね、将臣君」


玄関を出るときの望美は全くの別人だった。

望美は扉を開いて外に出る。












こうして望美も変態の仲間入り
おめでとうございます(めでたくない