熱病 12





十一月の終わりから街は急に華やぎを増し、それが十二月に入ると本格的になった。どこか浮つい た大通りを歩くのは嫌いではない。望美は、目にも賑やかなイルミネーションを見るともなしに一 人ふらふらと歩いていた。手首につけた腕時計に視線を落とせば夜の八時を回っている。


「わ・・・・・・こんな時間」


先月の終わりにやってきた給料日、自分でも思ってないくらいの金額が入っていたので一人で買い 物に出てきたのだ。誰にだって、一人でふらふら買い物をしたくなるときというのはやってくるも ので、今日の望美がそれだった。しかし、目に留まったセーターとツイードのスカートを買って、 お茶をして、それだけしかしていないはずなのに、とっくにこんな時間になっている。


――メール、しなくちゃ・・・・・・


望美がバイトのない日は夕飯を作ることになっていた。それを承知している弁慶は大抵外では食べ てこない。だが、今から家に帰って作っても遅くなるだけだし、正直、人並みにもまれて気力も消 耗していた。

道の端のほうによって、可愛らしいデザインの紙袋を地面に置くと携帯電話を取り出す。ぱくんと 開けてメール画面を呼び出すのはいたって簡単な操作だが、指が、なぜか躊躇って――止まって― ―しまう。ちゃらんと外気に冷やされたストラップが甲に触れた。

弁慶の手ひどい風邪は三日ほど休養し一週間くらい仕事の量を抑えたらあっけなく治った。病院に 連れて行ってくれた九郎が――彼一人に任せるとうやむやにされてしまう可能性があったので―― 言うには


「栄養とって休めば風邪なんか簡単に治るものだ」


らしいが、弁慶はあの風邪を機にどことなく変わってしまったように思う。

なんと言ったらいいか、表現する言葉を持たない自分が歯がゆいのだが、あえて言うのならば「素 っ気無い」と言う単語を持ってくる。別に、あからさまに避けられているわけではない。言葉を交 わさないわけではない。だが、何か一つ抜け落ちているものがある。それだけはわかった。

そして、今の望美にはその何かがないことが恐ろしいのだ。

いや、恐ろしいというのは少し大げさかも知れない。しかし、距離を置かれていると感じている以 上、望美からも気軽に近寄れないのだ。

弁慶にはもともとテリトリーがある。人と自分との間に絶対律があるのだ。彼が自分のテリトリー に誰かを入れる場合、その律にしたがって入っていく。そこには例外もルール違反もない。打ち立 てた壁の向こうに入ることは容易ではなく、代わりに、一度入った者にはある程度のところまで彼 自身を見せてくれる。

しかし、それもある程度、で留まってしまう。

望美は、今、弁慶のテリトリーからはじき出されているようなものだ。


「・・・・・・何かしたかなぁ・・・・・・」


あの時、離れろと苦しさに顔をゆがめ、熱に琥珀を滲ませて彼は言った。あばらが折れるほどの力 で捉えながら離れてくれと懇願した。弁慶の両腕は逃げる隙も力も奪ってしまったくせに、その主 は逃げろという。

ひどい矛盾で、理不尽で、わがままで、それでも望美は抵抗するということを行為として実現させ なかった。それが何を意味するのかも知らず、無自覚のまま意識下でただ離れてはならないと思っ たからそうしただけだ。

きっと、あの時本当に彼を突き放していたのなら――二度と、弁慶とは会えないと思ったのだ。


――きょうだい、なのに?


時間切れとなり携帯の画面はバックライトが消え真っ黒に塗りつぶされている。鏡の役割を果たす その画面に、望美の顔が映りこんだ。背後の見事なイルミネーションをぽっかり切り取ったように 自分がいる。

周囲の雑音は一瞬消える。道行く人々は少々早歩きで楽しそうに笑っていたりおしゃべりしていた りする。マフラーを巻いて手袋をして、そうして笑って歩いている。重たそうなカバンを提げたサ ラリーマン風の男性も家路を急いでいる。立ち止まっている人は待ち合わせだろうか。どこのスピ ーカーから聞こえてくるかもわからないクリスマスソングは浮かれる足に羽をつけて、みんな、冬 で一番のイベントに向けてわくわくしている。


――何を


立ち止まって携帯電話を片手に突っ立っている望美は、呆然とした。世界はとても広いのに、目を 向ければいつだって受け入れてくれるのに、ほんの僅かな間だけ、そう、瞬き一回の間、彼女は― ―全てから切り離された感覚を知ったのだった。


――何を、思ったの、今


彼女はそろそろ、その答えを知らねばならない。





家の玄関をくぐる直前、郵便受けに一度目を通す。ダイレクトメールやなんのためかわからない大 学からの手紙や、その他もろもろは地球に優しくない量で毎日届いた。望美は、その日も例に漏れ ずきちんと手紙の束を手にし、玄関の鍵を開けた。

迷いながらも結局送ったメールの返事はそっけないもので、簡単すぎるくらい簡単であった。


――遅くなるので夕飯は気にしなくていいですよ


帰り道には気をつけろだとか、疲れてないかだとか、そんなことは一切なかった。そうして、一切 ないとわかったそのとき、望美はそういう言葉を少なからず求めているのだと気付かされた。しか し、その憤懣を――憤懣とも言い切れない、本当に些細な不満――発散させる先も持たなければ、 術も知らない。本当に、一体、どうしてしまったというのだろうか。

無言ほど質の悪いものはないのである。

何かに怒っているならなじるなり怒鳴るなりしてくれればいい。そしたら原因がわかる。何かに悲 しんでいるのならば、泣くなり嘆くなりしてくれればいい。喜んでいるのでも、楽しいのでも同じ だ。無言は、自己から他者を一気に、それも恐ろしいほど完璧に排除してしまう。

嘆くほどのことでないならいい。涙を流すほどのこと、そう、怒りに声を荒げるくらいならいいの だ。怖いのは、ただ「お前なんかに話してわかるものか」と見切りをつけて拒絶されてしまうこと だ。言葉をもって意思疎通を図る以上、相手の存在を黙殺してしまっては、そこから何も発生しな いし進展も望めない。

そして、望美はその小さな変化に気付かないほどお気楽ではなかった。

居間に入ってソファにすわり、コートも脱がなければマフラーも取らない格好のまま望美は手紙を 仕分け始める。自分宛のものと、弁慶宛のものと。それから、思い出したように亡くなった父親宛 にも届く。機械的に発送されているからか、差出人が死亡の事実に気付くまで手紙は来るのだろう 。


「・・・・・・」


さっさと引き上げるに限る。居間を出て、階段を上がって、自分の部屋にはいって今日買ってきた 服の値札を取る。そしてお風呂を沸かせて一風呂浴びたらとっとと寝る。明日のマクロ経済は休講 になったはずだから、いつもより少しはのんびりしていられるはずだ。


「――・・・・・・っ」


新しいスカートをはいて、去年かってもらったブーツを履いて、時間があったら少し髪を巻いてみ よう。将臣にメールして貸していたノートを返してもらわなくてはいけないし、サークルの支部長 に冬合宿の出欠も告げなくてはならない。

思い浮かぶことはたくさんあるのに。


「――っ!」


どうして涙が出るのだろう。

何も言ってくれないあの人が、恋しくてたまらない。





その夜、弁慶が帰ってきたことを確かめてから彼の部屋のドアをノックしたのは、ほんの出来心だ と言ってよかった。確かに仕分けした手紙の中に、弁慶宛のものが一通混じっており、それを明日 渡してもよかったのだが、望美はなぜか今夜中に渡すことにした。

部屋を出てから自分に躊躇う隙を与えることなく、望美は弁慶の部屋の、彼が今確実にいる空間へ と続くドアを叩いた。叩いてしまってから、ちょっとした後悔が小波のように脳裏にさざめいたけ れど、ノブがゆっくり回るのを見たとき、もう引き返すことは出来なかった。


「・・・・・・あ」
「どうしたんですか、こんな遅くに」


薄く開いたドアの向こうで、その人はワイシャツのままにこと微笑んだ。暗い廊下に立っているせ いだろうか。弁慶の部屋から漏れる明かりに琥珀の髪が透け、金色に近くなっている。まるで金色 の輪に縁取られたように見える彼は、その実、簡単に口を開かせてくれはしなかった。


「あの・・・・・・」


望美は弁慶を見られなかった。ほとんど反射的に俯いてしまってから顔を上げるタイミングを逃し 、手に持った手紙を差し出すのが精一杯で、言葉も出ない。暗い廊下で俯いた望美の顔は真っ黒に 塗りつぶされて、弁慶は何も読み取れなかった。しかし、今はそれが救いとえば救いでもある―― 泣き腫らした目を見られなくてすむ。

つ、と差し出されたのはなんでもない、セレクトショップのダイレクトメールで、宛名に目を落と して弁慶はああと小さく言った。


「わざわざ、これを渡しにきてくれたんですね。どうもありがとう――」


明日でもよかったのにと続け、弁慶は無情にもあっさりと自分の世界のほうに戻ろうとする。


「弁慶さん――」


閉じかけたドアノブを、ありったけの勇気で掴んだ。軽い抵抗を感じて、弁慶は再び望美に向き合 った。


「あたし、何かしましたか?」
「どういう意味かな。君は何もしていないけれど・・・・・・」


その一言からしてもうよそよそしい。望美は伏せた顔のまま、唇をかみ締めた。この人の壁と溝は 真っ向からぶつかって越えるしか頭になかった。


「嘘です。弁慶さん、避けているでしょう――?」
「避けてなんか」
「嘘です。何かおかしいと思っていたんです。それが何って聞かれたら困るんですけど、とにかく 、弁慶さん」


避けてる、と望美は真っ直ぐに弁慶の瞳を見つめた。あれほど泣いて、瞼がはれぼったくなってい るのに、望美の双眸には新たな涙が薄い膜を形成し始めていた。それを、弁慶は瞠目に見開いたま ましばし固まった。


「何かに怒ってるなら言ってください。あたしが悪かったんでしょう、きっと。でも、言わないの はひどいです。何かしちゃったのかなってずっと悩んでて、だって、きょ」
「――望美さん」
「きょうだい、なのに・・・・・・!」


大きな雫二つ三つ流れていった瞬間、弁慶は悲痛に瞼を閉じた。責めさいなまれて、もう何も見た くないといった面持ちで。


――ああ


目の前で、望美が泣いている。泣いているのに、その涙を止めてやりたいと思うのに、どうしたら いいのかわからない。それよりも、泣き濡れた瞳の美しさだとか、涙が跡を作る頬の滑らかさだと か、赤くなった瞳の縁だとか、そんなところばかりに目が行く。行って、抱きしめたくなってしま う。


「どうして欲しいか、ちゃんと言ってください・・・・・・!」
「君は、君はやはりわかっていない」


腹の底から幽鬼が声を絞り出すように、弁慶は言った。ドアノブを握り締める力がいつしか強くな り、ぶるぶると腕が震えている。ドアに額を預けて、懇願するように続けた。


「望美さんは何もしていません」
「え・・・・・・」
「ただ、ただ僕が」


頼むから動いてくれるなと思ったその瞬間だった。望美は純真さをそのまま現したような光を両目 にたたえて――弁慶の顔を覗き込んだ。

何の意図もない動作だったのだろう。きっと弁慶が何を言ったのか聞き取れなかっただけかもしれ ない。けれど、張り詰めた絹糸の上を歩く弁慶にとっては十分すぎた。何もかもが起爆剤となりえ たし、周囲全てのものが契機になった。


「・・・・・・っ!」
「べ、べんけいさ・・・・・・」
「ただ僕が、一方的に君をこうしたいと、思っているだけのことです・・・・・・」


本能に支配された両腕はもはや弁慶の命令は聞かなかった。ずっと抑えていた欲求、ずっと希って いた熱を求めて、それはそれは急激に望美の身体を捕らえ物理的に封じてしまった。そうなったら もう、歯止めなんかききやしない。


「君をこうして抱きしめたいと、この――唇を」
「べ・・・・・・」
「奪って自分のものにしたいと」
「やっ・・・・・・いや!」
「そう、思っているだけですよ」


藤色の髪が舞った。暗闇の中で望美は一匹の逃げ惑う小動物に成り下がり、弁慶から離れて縋るよ うに見ても、変わらなかった。どこからくるのかわからない震えに視界は小刻みに動いて、しかし その中央にいる人物は、もはや容赦なく己の恋慕を哀しそうに告白していた。


「気持ち、悪いでしょう?」
「・・・・・・・」
「さぁ、逃げてください。でないと、本当に捕まえますよ?」


夜の帳は冬の空から幕を下ろすように世界を包み込んで、走り去る望美の背中をいち早く消してく れた。

弁慶は目を閉じる。


――だから離れろと言ったじゃないか












えーと……えーと……
何もいえないくらい弁慶が狂っちゃいました☆(えへ