熱病 11





一回九十分の授業を四回受けるともうそれだけで一日の大半が潰れてしまう。さらにそこにバイト が加われば、時間は通り過ぎてしまってやろうと思っていたことの半分もこなせないのだ。なんや かんやと細々したことに追われ、重要なことほど後回しになってゆく。時間を有効に使えていない 自分が悪いのかと、望美は一人首をひねった。

その日は特に冷え込んだ日で、まだ冬に対してさしたる心構えも準備もできていない人たちを容赦 なく襲った。バイト先の喫茶店で、ぬくぬくとした温度の中、窓の向こうでぴゅうぴゅう吹いてい る木枯らしは音だけでも十分に寒そうである。

十一月も終わりに近付いていく中、並木の木々はようよう葉っぱを落とし、紅葉を楽しむ間もなく 冬が背中に迫っていた。


「いらっしゃいませ・・・・・・あっ」
「久しぶりだな、望美」
「九郎さん!」


からんと可愛らしいドアベルが鳴って、その後に姿を見せたのは柿色頭の九郎だった。さらっと羽 織ったアーミージャケットにマフラーを適当に巻き、相変わらずの笑顔である。ここしばらく顔を 合わせていなかったが、元気そうである。

迷いのない足取りでカウンターを陣取り、ホットコーヒーを注文された。すっかり顔なじみのマス ターはにこやかに一つ笑って、サイフォンをセットする。

こぽこぽ、こぽ。黒と茶色がうまい具合に交じり合って透明感のある液体が出来ていくとともに香 ばしい香りが店内に広がってゆく。もともと、店の中はコーヒーの香りで満たされているのだが、 薄まったそれに慣れている望美には気にならない。


「いやに寒いな、今日は。手がかじかんでかなわん」
「手袋しないんですか?」
「急に気温が下がったんだ、用意してない。だから、ここであったまってから帰ろうかと思ってな」


通りかかったらお前が見えたからよったんだ、と九郎は何気なく続けた。

そうですか、と望美は静かに頷いて、出来上がったコーヒーを差し出した。砂糖なしのミルク入り で飲むのが彼の常である。音量を抑えた有線の、ヴォーカルなしだがクラッシックでない曲がゆっ たりと流れている。視線の高さは違えど、二人は相変わらず空っ風の吹く外の景色を眺めていた。 道行く人は皆、一様に背中を丸めて歩いている。

大体、こんな日は体中の筋肉が否応なしに緊張して、いつもよりずっと疲れを感じるものだ。夜の 、日が暮れてぐっと気温が下がった道を歩くことを想像して、望美ははぁと溜息をついてしまった 。


「疲れているのか?」
「今日は授業内テストがあったんですよ」


しかも抜き打ちで、と、ぺろりと舌を出して笑う望美に、九郎はやはり晴れ晴れとした笑顔でねぎ らいをくれる。彼は、今年の春に就職が決まり後は順調に単位をもらうだけという身分である。


「早めに休めば疲れも取れるさ。弁慶のほうが心配だがな」
「・・・・・・?どうしてですか?」
「あいつは不養生が服着て歩いてるような男だ。季節の変わり目は大抵熱を出す」


昔と変わっていないという九郎の一言から、話は二人の幼いころに飛んだ。いわく、九郎は剣道に 通い近所のいわゆるガキ大将だったらしい。そして、弁慶はといえば、子供の遊びの中で距離をと ってついてくるくせに、知恵は働くのでそれなりに一目置かれる存在だったという。


「俺は喧嘩早かったが、あいつはそうじゃなかったなぁ」
「そうなんですか?」
「まぁ、弁慶を怒らせるほど怖いものはなかったし、みんな手出しはしなかったんだが――一度だ け、温厚なヤツが一気にキレた時があったな」


ふうんと望美は相槌を打った。それに、意味深長な笑みを――九郎にしては珍しい表情だ――を浮 かべてコーヒーを飲み干す。そして覚えていないかと訊ねてくるのだ。聞かれた望美にしてみれば 、何を言い出すのかといいたいところである。


「覚えてないのも無理ないな。なんせ、俺が小学生のときだから」
「・・・・・・何のことですか?」
「一度、俺に会ってるはずなんだが・・・・・・望美を泣かせたんだ。弁慶の拳骨食らったのはあ のときが初めてだった」
「泣かせた?九郎さんが?」


そもそも、ここいら一帯は望美が引っ越してきて初めて足を踏み入れたはずの土地である。九郎に 会ったということは、幼い頃、ここに来たことがあるということだ。しかし、まるっきり覚えてい ない。九郎に泣かされたことはおろか、来た記憶すらない。だが、よく考えてみればここに来るこ と自体は不自然ではないのだ。望美の、実の父親が住んでいたところなのだから。

しかし、今目の前で帰り支度をしている男は言うのだ。自分を泣かせたとき、彼は烈火のごとく怒 り、そして滅多に手を上げる子供ではなかったのに拳固をくれたのだと。


「あれは・・・・・・俺が九歳くらいのときだな。弁慶の家に遊びに来ていたお前の人形をふざけ 半分で隠して、そして壊して泣かせた。壊れた人形を前にして泣きじゃくるお前といるところを弁 慶に見つかったんだ」
「・・・・・・もしかして、その人形って、髪が長くてフリフリのお洋服着てたやつですか」
「ああ。それだそれ。で、弁慶は何も言わずにゴツっとこう、俺の頭をだな」


人形のことはよく覚えている。クリスマスの朝、起きたら枕元にあったもので喜び一杯で「さんた さんがきたの」と両親に飛びついた覚えがある。壊れてしまったことも覚えていて、それはあのや んちゃで仕方のなかった将臣が壊したのだろうとすっかり思い込んでいたのだった。


「壊したの、九郎さんだったんですか!」
「悪かった」
「将臣くんだと思ってました・・・・・・」
「あのあと、ついでに二発目も食らってな、しばらく口も利いてくれなかった」


壊した真犯人を――といってもとうに昔の話だし、時効なのだが、望美は両目をまん丸に開けて見 た。彼は今更の謝罪を口にしている。弁慶との思い出は、いつも鎌倉に来てくれて、望美の親を前 に上品にしている場面しかないと思っていた。年を追うごとに連れて、本当にこの人と血が繋がっ ているのかと疑惑と羨望の眼差しでしか見てこなかった。

彼は、それほどまでに「血のつながりがあるがともに育ってはいない兄」だったのだ。


「すっかり話し込んでしまって悪かったな。じゃあ、くれぐれも弁慶には体に気をつけろと言って おいてくれ」
「・・・・・・また来てくださいね」
「あぁ、今度、人形のお詫びになにかおごってやる」
「楽しみにしてますよ」


しかし九郎の危惧は的中するのだった。長い間、幼馴染として過ごしてきた望美と将臣が言葉なく して互いの状況を知るように、九郎と弁慶もその例外ではない。





望美が家に着いたのは、夜の深まりが始まる頃合であった。予想していた通り、気温は一気に下が って頬を風が撫でてゆくたび肌が切れてしまうのではないかと思うくらいだ。寒さに張り詰められ た空気は乾燥しきっていて、ぽっかりと浮かんだ月が一層冴え冴えとして見えた。

月の周りにある星々は月光の強さに負けてしまい、白い穴が夜空に開けられたようである。光は、 雲を介して滲むこともなく、殊更真っ直ぐに降りてきていた。あの、白い穴の向こうに別の世界が 広がっているだろうか、それともあそこから夜の闇が流れ込んできているのだろうか。


「・・・・・・あれ」


曲がり角を通りすぎて、一番最初に眼に入る我が家の明かりがついていた。弁慶のほうが先に帰っ てきて、しかもまだ一階にいるだなんてことは珍しい。彼は、いつもならばすぐに自分の部屋に引 き上げてしまうのだ。そして、後から帰ってきた望美を迎え入れるように、部屋に入ろうとすると ころに声をかけてくれる。

住人が在宅しているのに泥棒は来ないですよと若干楽観的な意見を言う弁慶だけあって、当然なが ら玄関の鍵は開いていた。軽い手ごたえを感じつつ、家の中に入ると、やはり外から見たとおり居 間の電気がついているのだ。


「ただい・・・・・・弁慶さん?」


玄関を入ってすぐの引き戸を開けると居間である。そこから、顔覗かせた望美は思わず名を呼んだ。 こちらを背にして置いてあるL字型のソファに、ぐったりと体重を預けた弁慶が見えたのだ。その 顔色は、遠目から見ても悪い。望美から声をかけて無反応ということは滅多にないのだが、今の彼 は呼吸をするのが精一杯といった風だ。

近寄ってみればよくわかるもので、顔は青ざめているくせに頬だけは赤い。しかめたくなくても体 中を駆け巡る不快感に眉を寄せ、腹の底が押されるような吐き気にぐうと唸る。望美は、外気で冷 やされた手を、ほとんど無意識に額に当てた。


「・・・・・・うわ」


夕方、バイト先に顔を出してくれた九郎の言葉は正しく、弁慶はようやっと帰ってきた様子だった 。スーツを脱ぐ余力はなかったのか、背広にシワができるのもお構いなしにもたれかかり、辛うじ てネクタイを解いただけである。唐突に訪れた冷覚に、うっすらと琥珀の瞳が開かれる。


「・・・・・・」


開かれたその双眸を覗き込めば、潤みがかっていて淵が赤くなっている。熱に浮かされた人間の目 だ。琥珀は水面下に放り込まれたようにたゆたいの向こうにあって、対する新緑がじいと見つめて いる。何かを言いたげに開かれた唇は、果たして何も発せず、体温をそのまま現したような吐息を 漏らしただけだった。

一体いつからこんな体調不良を抱えていたというのだろう。急に発熱するほど彼は子供ではないし 、突発性だったとしてもこれはひどすぎる。何日も前から予兆はあったはずで、それでも彼は器用 に隠していたのだ。


――なんで、言ってくれないの


見破れなかったことがとても口惜しい。やっと判ったかと思えば弁慶はこの有様である。もっと前 から注意していたのなら防げたはずだ。

慌しい日常の中で、何か一つ、大切なものを見落としてやいないか。


「弁慶さん・・・・・・?薬は飲みましたか?病院は?」
「・・・・・・れ、て」
「何?何ですか?よく聞き取れない」


コートを脱ぎながら質問していた望美には、弁慶の言葉が聞き取れなかった。藤色の髪を一房耳に かけてから、いまだ冷たい手を彼の額に当てなおす。はたと気がつけば、この空間そのものも暖か くなかった。ともすれば吐息が白くなる気温である。ここは室内だというのに。

暖房をつける余力もなかったのかと再び臍をかんだとき、額に当てた自分の手を、驚くほど熱くて じっとりと汗ばんだ手が掴み取った。


「――っ!」
「触らないで・・・・・・離れて」
「弁慶さ・・・・・・ん?」
「・・・・・・近寄るな」


何を言われたのか、一瞬受け止め切れなかった。弁慶ははっきりと拒絶を示しているのに、望美は 動けないでいる。ぎりぎりと力を増してくる彼の手にも逆らえず、驚きに目を大きく開いたまま固 まるよりなかった。


「ダメです。ちゃんとお薬飲んで、寝ましょう。あったかくして、もし動けないなら毛布を持って きますから」
「君はわかってない・・・・・・」


囚われた右手は痛みを主に訴えるのに、潤んだ琥珀は強い意思を示しているのに、望美は負けじと 言い返す。こんな状態の人間を放って捨てておけと言うほうが無茶な注文でもある。大丈夫、とで も言いたげに緩んだ新緑の瞳を認めると、弁慶は一層つらい顔を見せる。

弁慶は、己の不快感から来るゆがみではなく、もっと奥底に潜む苦痛から顔をゆがめた。

その顔が。


「・・・・・・」
「――弁慶、さん?」


彼の本当の表情だ。

潜む激情を、断崖絶壁に立つことさながらぎりぎりのところで隠し通している。きりと張り詰めた 絹布の向こうにあって誰にも触らせない。見せない。ただ一度たりともだ。しかし、人は彼のその 一面がちらちら垣間見えるたびに混沌を覗き込まずにはいられない心持になり、好奇心に駆られた幼児 が危険と知って近付くように、一人歩きして触れようとしてしまう――手ひどい火傷を負うことも 判っていながら。


「離れろと言った・・・・・・の、に」


君がいけないんだと耳朶に吹き込まれた熱さに驚く間もなく、ぐいと引き寄せられて一分の隙間も 埋め尽くすほどの力で腕の中に閉じ込められる。あばらが軋みをあげて通常ではない体温を肌に感 じ、そして薄い茶色が目の前にあって、ようやく望美は弁慶の言葉の意味を知った。


「・・・・・・離れてください・・・・・・」


腕に力をこめて弁慶は言う。香水と煙草の香りが混じったにおいが鼻腔から脳髄に突き刺さる。掠 れていながらも柔らかさは寸分も損なうことなく、白い項に顔を埋めて存在を確かめるように言う。


「離れて・・・・・・」


どうしてこの人は離れろと言うのだろう。

逃げることも叶わぬほど、捉えているのは彼自身だというのに。


――これでは、離れることも出来やしない


白い穴から流れ込むのは昏い底なしの闇。











「熱に浮かされて理性を失う」は王道ですよ、ね!
変態・PCオタク・病弱の三拍子をそろえた弁慶がここにいます(さいてい