日々雑記口伝




壱:箱根於出逢事

半年ほど前の事になりますかなぁ、春日のご令嬢望美様が密かに箱根に行かれたときのことでござ います。表向きはまぁ湯治なんですがね、実際は自分に仕えるものどもを労う意味をこめて行かれ たのだとか。もちろんご身分を隠してでございます。

このお姫様、日傘さされて蝶よ花よと育ったっちゃあ育ったんですがね、お姫様らしくするのがと んと苦手な方のようで。ナントカ物語だのホニャララ説話集なんて読んでもさっぱり判らんといっ た風の方でした。いやいや、おつむが弱いって意味ではございません。それらを読み込んで、解し て、何に役立つのか判らんと思っていた節がありますな。ただ、武家の女児はこうあるべき、とい う先入観みたいなものを一切お持ちでなかった。将来はかの尼将軍もかくや、といったような―― 女傑の卵でしたな。

奥に入ったらどれだけ苦労するのだろうかと、御母堂は心配しておりました。

ええ、簡単に姫の単独行動を許すわけもございませんでしょう?裏があったんです。箱根に行って いる間にご両親は奥に上げることを決めていらしたんですよ。ひどい話だと思われますかな、旦那。 けれど、男児のいない春日には致し方ない決断でしたよ。

今のお上は齢四十を越えていらっしゃいますでしょう。二三年もしたら大奥総取締とやらに話をつ けて下がらせるおつもりでございました。まぁあわよくば、という皮算用まで申し上げるなら―― お腹様になってしまえば将軍争いの土俵に上がれますからね。それを狙っていなかったというなら 嘘になりましょう。こう申してしまうとご両親がひどいお人だと思われるかもしれませんな。しか しね旦那、大きな決断だったと思いますよ?お手つきとなったら決して出られませんからね。そう なると春日は養子を迎えるしかない。

お武家でもなんでも、血ってモンを大事にするでしょう。いえ、手前なんぞにしてみりゃ皆おんな じじゃねぇかと考えちまうんですが。まぁ、そんな事情があったと思ってくださいな。





雨の日のことでした。けぶるような雨が降っておりましてね、一見弱い雨なんだが結構濡れるよう なものでね、気温も低かったのもあいまって――お山の中なんですからなおさらですな――こりゃ あ厄介だわと思っておりました。

夕刻をちょいと過ぎました頃、湯治で逗留していた宿屋に一人のお侍が訪ねてまいりました。お侍 、というよりは・・・・・・なんでしょうね、武士と申し上げたほうがよろしいか。

徳川の時代になりましてからずうっと戦がございませんでしょう。いくら帯刀が許されている、武 芸は勤めと申しましても、近頃は勤めから「嗜み」に変わってしまった嫌いがございます。刀で人 斬ればそりゃ怪我もするし下手打てば死にますよ。けれど、そんなこともわからない輩が多い。だ って戦がないんですもの。いや、平和は良いことです。ですが、平和に胡坐かいて緩んでいるんで すな。手前の祖父の代なんかだとまだ居ったらしいのですが・・・・・・彼の方は武士でしたなぁ 。人を斬ったことがあるない、と云うより、武士が何であるかを知っておられる方でした。

その男は戸口に立ちましてね、宿屋の主を呼んで手のひらを見せました。


「こっからちょい先に行った道で拾ったんだが・・・・・・ひょっとしてここに泊まってる客のモ ンじゃねぇか?」


男が持っていたのは綺麗な簪でね、ま、長屋の娘さんからしてみりゃ嫁入りに使えるってくらいの モンです。いくら身分を隠しての湯治ってもね、宿屋の位が下がるわけでもなし。大店のお嬢がっ てことにしてたんだからそれなりです。拾ったものがものですから男のほうもピンと来たんでしょ う。懐に落とすなんて考えも持たずに返しにいらっしゃった。

宿主は確かめてくると言って、男を近くの部屋に通した。お侍ってのはわかりますからね、ぞんざ いな扱いはしかねたんでしょう。しばらくすると、そこに一人の女が現れた。女と申しましても―― 女性と少女の間を行ったり来たりしているような、まだあどけない女です。髪を勝山髷に結い上げ まして、淡い桜色の着物は白い肌によくお似合いでした。季節の色合いですな、若草色の帯を締め 、萌黄の帯止めは品良く彼の人を見せておりましてね。にこと微笑むとそりゃあ可愛らしい方でし た。


「拾ってくださった方がここにいらっしゃると聞いたのですが・・・・・・」
「簪か?」
「はい。あいにくと主は臥せっておりまして、代わりにお礼を申し上げに参りました」
「ははっ、そんなに堅苦しくなんなくていいぜ?拾っただけだしな」


こんな言葉を交わしました。

男は髪を雑に結い、着崩した格好をしておりましたものの、所作の端々によい躾が見受けられまし た。すうと通った鼻筋から男らしさが伺えましてな、眉の下に並んでいる目の形も良かった。背筋 を伸ばして座る様は、程よく鍛えられた体躯を際立たせるものでした。つまり町を歩けば何人も振 り返るような美丈夫でございます。

もうお分かりですな、旦那。男に会ったのは望美様でいらっしゃいます。なに、美丈夫と聞いて息 弾ませてきたんじゃあございません。単に悪戯心が働いただけでございます。先ほど、女傑の卵と 申しましたが計算高いという意味合いじゃあございやせん。こう・・・・・・危機迫る状況でも諦 めない方なんですな。で、このときもただ、主に仕えている振りをしただけなんですよ。ええ、望 美様はこういうお方です。


「主は後日お礼を申したいとの仰せでございます。お名前をお聞かせいただけますか?」
「いや・・・・・・別にいいぜ、礼なんて。臥せってんならなおさらだ。余計なこと考える前に体 治せって伝えておいてくれ」
「もったいないお言葉を・・・・・・ありがとうございます」
「そんな大げさにしなくても構わないんだがな・・・・・・さて」


お侍のほうは名前も名乗らず、出された茶を一息に飲み干すともう出て行く気配を見せました。さ っぱりした気性の方なんでしょうなぁ、深々と頭を下げられるのもどっかこそばゆく感じているよ うでした。苦笑いってか、照れ隠しにも見えましたねぇ。お侍は立ち上がると脇に置いておきまし た大業物の刀を手に取り、外へ行こうとするんですな。

それを黙ってみているだけの望美様じゃあございませんでした。ではせめてお見送りをと申したわ けなんですな。そして、宿から数歩ほどご一緒に歩かれた。お侍は簡単に箱根のものかと聞いた。 ま、他意はなかったんでしょうね、単純に話しかけただけです。望美様はいいえとお答えになった 。江戸から来たものだと。主が気分を変えたいと言ってここまで湯治に来たのですよと続けますと ね、お侍は軽く笑いました。


「――なら、またどこかで会うことがあるかもしんねぇな」
「では、江戸の方ですか?」
「まぁ、な。っても、俺もお前の主と一緒で連れの気分転換に来てるだけだ」
「左様でございますか・・・・・・」


望美様は立ち止まり、ここでと申しました。またお会いするかもしれませんねと口にしながら、笑 顔を見せると、お侍のほうはそうだなと返しまして。江戸って言っても広いわけじゃあございませ ん。ですが、住んでいる人間は多いわけでしょう。旅先で一瞬あっただけの人間同士、気軽にこん なことを口走るのは珍しくもなんともありませんぜ。

薄い膜が揺らめいているような雨はまだ降っておりました。夕日の燃えるような茜色はぶ厚い雲に 遮られて、あたりは不思議な色合いが広がり、しっとりと濡れた草木の影には夜が見え隠れしてま してね。数歩先に行ってから振り返ったお侍の顔は、翳りでぼんやりしてしまうような、暗さが迫 っていたのです。


「見送り、ありがとな。お前の主によろしく」
「ええ。どうか道中お気をつけくださいませ」


そんな暗さの中でも、望美様にはお侍の見せたからりとした笑顔がはっきりと見えました。

関係のない話ですがね、箱根と江戸を繋ぐ道で夜盗がでたばかりの頃でした。お侍の耳にも入って いるのか、帰りは重々気をつけろと言い置いて立ち去ったのでございます。





改めて申し上げることではないと存じますがね、旦那。このときのお侍ってぇのが――将臣殿でし た。あとで判ったことですが、このときのお連れ様は件の平家、現当主の息子に当たる方だったら しいですな。え?誰か?・・・・・・さぁ、ちと失念してしまいましてね。なにせあの御家はなん だかんだで似た名前でしょう。あつもりだったかとももりだったか。ま、普段から良くつるんでい るお方だったのは確かでやんす。

ええ、これがお二人の初見でございます。このとき、互いに名乗っていればよかったのかもしれま せんねぇ。でもね、そんなことをいうのは詮の無いことなんですよ。だって、だったらはじめから 春日が箱根行きを許さなければ良かった、ってな具合になるでしょう?

縁と申しますのはこういうものなのかもしれませんねぇ。春日の家から出なければ良かった、この 時期に行かなければ良かった。将臣殿にしたって、連れの気分転換なんか思いつかなければ良かっ た、簪なんか道端に落ちてるんだからそのままにしときゃいいってモンです。

けれど――それら全部を飛び越えてお二人は出会ったのです。古臭いし胡散臭い言葉しか思いつき ませんが、コレが運命ってやつかと手前は思ってしまうのですよ、旦那。

こうやって口に出してみますとなんとも安っぽいもんですな、運命なんて言葉は。けれど、手前に はこれ以外に思いつかないモンで。ぜんたい、運命なんてものが何かわかっちゃいないんですから なおさらですよ。運命ってヤツは一体ナンなんですかねぇ。人の一生を支配してるらしいですが、 手前は触ったことも見たこともございません。ですんで到底説明は出来ませんね。だけどね旦那、 ちょいと愚痴を許してくださるんなら言わせてくだせぇ。

このお二人が、こんな形で会わなければ良かったと、僅かながらでも思うのですよ。もっと言いま すとね、有川と春日でなければよかった。だってそうでございましょ?そうしたらあんな顛末にも ならなかったんですから。その運命とやらを決めているのが神でも仏でもかまやしません。どっち でもいいんです。ただ――いえ、止めましょう。これ以上は。口に出したら終わりの気がいたしま すんで。

そんな変な顔しないでくださいまし、旦那のお顔が台無しですよ。・・・・・・こんな半端モンに 言われて嬉しい台詞じゃあないですな。懐に突っ込んだ手を出してくださいよ。どうせ御代を探っ ているんでしょう。

ここまでお話したんです。終いまで話しますよ、手前は。












この文体で続けることにしたわけです。
しかし台詞少ないな。申し訳ないです。
ちょんまげ結った知盛を想像したら笑えました。つぼ