The Phantom of the Opera  ――第四幕休憩――




「カインとアベルの件をお二人はご存知でいらっしゃるかしら」


女はグラスの中の液体をくるくると回しながら言った。伏せた視線の先には揺らめくキャンドルが あり、密閉されていると思う空間にはきちんと空気の流れがあることを、今更ながら九郎は気付い た。隣の泰衡と連れたってこの店に入ってきたときよりも確実に短くなっているものの、だからと いって今が何時なのかさっぱり分からない。

ひょっとしたらとうに夜が明けているかもしれない。

九郎は途方も無い己の想像に苦笑一つして、眉間に皺寄せている泰衡の代わりに答えた。


「弟殺しのカイン、だったか」

「ご名答。神の寵愛が篤かった弟を嫉妬して兄のカインはアベルを殺す。神はカインに弟殺しの印 をつけて放逐する・・・・・・『カインを殺すものは、それが誰であろうと七倍の復讐を受けるで あろう』この一言を付け加えてね」

「・・・・・・確か、カインはエデンの東の果て、ノドで妻を娶って子孫を増やしたんじゃない のか?」

「さすが、パリ市警殿ですわね、泰衡様?博学でいらっしゃること」


揶揄する女の口調にも慣れたとあって、泰衡はふんと軽く鼻を鳴らし、それがどうかしたかと冷た く聞いた。手にしたグラスの中身はなく、己の体温で温まってぬるくなったそれを無意識に弄って いる。女は伏せていた視線をふいに上げ、そして笑った。


「怪人の右半分にはね、十字架がございましたの」

「十字架?」

「一時の血の気に駆られてエバと一線を越えた天使長の印。その天使長の霊的血統を濃く受け継い だカインの印とでも申しましょうかしら」


珍しく女は言葉を遠まわしに選んでいるようだった。何と言えばいいのか自分でも分かっていない 、けれどそれが意味するところは恐ろしいくらいに分かっている。笑んだ女の顔が翳り、血の色を したワインを一気に飲み干した。


「アレが意味するのはたった一つ――悪であること。古い古い悪魔の十字架ですわ」

「・・・・・・なぜ、そんなものを顔に」

「さぁ、それをお話することは出来ませんわ。妾だって知りませんの」


九郎は見たこともない十字架を思い浮かべることが出来なかったし、泰衡はそんなものが実際にあ るかと疑ってかかった。視線に含まれる二人の思惑を知ってか知らずか、彼女は前髪を掻き揚げな がら溜息をついて言う。


「妾も一度しか見たことはございませんが・・・・・・針金で直接刻んだような、6が三つ組み合 わさった十字架でしたわ・・・・・・」

「6が三つ」

「ええ」


こんな風に、と細い指先で綺麗な木目のテーブルにその十字架を描いて見せた。確かに6が三つ組 み合わさったそれは、悪魔を意味するもので十字架――神を意味する最たるもの――を表していた 。コレは、善を示しているのか悪を示すものか判断できない。それでも、悪を以って善を表すとい う辺りに「神への冒涜」が含まれているのであろう。

女はまた笑った。音もなく変化したその表情は、二人の前で見せる初めての苦笑でもあった。軽く 笑っているわけでもなく、まるで昔の話を思い出しては苦悩しそれを笑う。だから苦笑に見えると いう表情だった。泰衡は黙って次の言葉を待っている。


「カインが追放された東の果ては人間の罪悪世界を意味している、と云われますわね。そして、そ こで増えるカインの子孫は文明を築いた、とも。文明の始まりは戦争の始まり。そう血塗られた歴 史の始まりですわ」

「・・・・・・・」

「あの人と初めて会ったときの強烈な印象は今でも忘れられませんわ」

「それは、いつごろのことだ?」

「さぁ、今話すべきはそのことではございませんから。また次の機会に」


女は泰衡の質問を口先一つですいとかわし、次の瞬間には今までどおり、この場の支配者に戻って いた。


「『カインのための復讐が七倍ならば、メクレのための復讐は七十七倍』――さしずめ、<怪人> への復讐は七百七十七倍だったのかしら」

「何が、あったんだ?」


泰衡の質問と同時に奥からマスターが姿を見せた。三人はいったん口をつぐみ、そしてグラスを満 たす中身を注文する。泰衡は決まりきって同じラム、九郎はレモンをたらしたジンに、女はジャス ミンの香りがする酒を頼んだ。一体狭いこの店内にどれだけの酒が眠っているのかと不思議に思う 品揃えである。九郎も泰衡もパリの生まれであるのに、これほどの種類を取り扱う店は初めてだ。


「これからお話するのは<仮面舞踏会>と<アポロンの竪琴>とでも名付けましょうか」


奥へとひっこむマスターの背中を見送りながら、女はいつの間にか口に咥えた煙草に火をつけた。 じっと注目していても煙草を取り出すその瞬間がわからないから二人はいつも驚く。


「あれは望美が地上に戻ってから三ヶ月ほど過ぎた、新年を迎えた辺りでしたわね」


空中に優雅に紫煙を吐き出しながら、女の話が再び始まる。











創世記はよくわかりません
何かミスっててもスルーしてください(土下座)