The Phantom of the Opera  ――仮面舞踏会 1 ――




この三ヶ月の間、<怪人>はなりを潜めたままでオペラ座は平和そのものだった。一度新しいプリ マドンナをさらわれるという、痛い目に遭った支配人二人は顔では「当然だ」という表情を崩しは しなかったものの、内心ではほうっと深い溜息をいくつも吐きたい気分だったのだ。

もちろん、例の二万フランを寄越せという<怪人>からの手紙は月に一回、キチンと厳重に戸締り をしたはずの支配人室に手紙が滑り込んでいたり、いつぞやは弁慶の背広の内ポケットに入ってい たりしたことがあった。二人が理不尽な要求に応じるはずもなく、綺麗に無視していたとしてもや はり心の中ではこれからもっと何かあるのではないかと常に気を配るのも忘れてはいない。

要は怯えていたのだ。

姿も影も見たことのない<怪人>に。

そんな二人をよそに、重衡の心はこの三ヶ月間、今までに無いくらい穏やかで同時に浮き足立って いた。

というのも、これまでずっと頑なに拒否を続けていた望美が少しずつではあるが、自分に接近して くれるようになったからである。<怪人>が彼女を問答無用で地下に閉じ込めていた三日間を聞き 出すことは叶わなかったが、もはや望美自身がそばに居てくれることは何物にも替えがたいほど至 福だ。不思議なことに、五番ボックス案内人の言葉通り、「望美に傷一つつけずに返」ってきた。 重衡はなぜそれが分かったかなどと訊ねる心持にはならず、ただ、彼女との時間を有効に濃密に過 ごすことだけを頭に置いていた。


「もうすぐ、オペラ座で<マスカレード>があるんです」

「<マスカレード>?」

「新年のお祝いパーティみたいなもので・・・・・・<仮面舞踏会>のことです」

「あぁ、噂には聞いていましたが。望美さんは出席するのですか?」


オペラ座の中庭、中央にミロのヴィーナスをかたどった像がある噴水の傍らで二人はひっそりと話 をしていた。舞台に上がっていないときの望美は藤色の髪を真っ直ぐに背中へと流し、煩くならな いように簡単にカチューシャで纏めただけの、本当にそこいらを歩いていそうな街娘とさして変わ らないいでたちである。それでも、真珠が昼の柔らかな日差しを受けて清廉と輝くような美しさは どこを探しても彼女しかもち得ないものだろう。


「舞台に立っていなくても、出席するようにと支配人さまに言われてしまいました」


新緑の瞳を少し照れくさそうに細めながら肩にかけたストールを直す。たったそれだけの仕草に、 重衡はこれ以上無いくらい甘くとろけるような視線を向けた。どんな些細なことでも見逃したくは 無いのだ。もうこの愛しい人に災いが降りかからないように己が盾となっても構わない。悪魔との 契約でお前の命を差し出せといわれたら、迷うことなく実行できる自信がある。


「エスコート役はもう決まっていますか?」

「え・・・・・・」

「よろしければ、私にその役をくださいませんか?」

「しげ、ひらさん、それは」


いつもオペラ座に現れるときの、かっちりと着込んだ燕尾服姿ではなく、ボウタイのついたシャツ とクリーム色の背広姿というラフな――それでも彼の見目のよさは寸分たりとも劣ってはいないの だが――いでたちの重衡はためらうことなく望美の細い手を取る。明らかに自分のものとは違うそ れはマシュマロのような感触で手触りがいい。今手に撮っている左手、この細くてちょっと力を入 れたら折れてしまいそうな薬指に銀色の指輪をはめる日はいつか来るのだろうか。


「私では嫌ですか?不満?」

「そんなことはないけれど・・・・・・」


ここのところ舞台を控えている望美は右手でやんわりと重衡の手を離した。曖昧な笑顔は二人で話 していると少なからず目にするもので、それを見るたび確実に縮まった距離が一気に開くように思 えてしまう。そうして、重衡はあどけない望美の瞳の奥にあの男の存在を知るのだ。あの男――< 怪人>の。

望美が帰ってくるまでの三日間、心配で心配と言うには生ぬるく気が触れるのではないかというく らい辺りを探し回った。いくら五番ボックスの案内人に詰め寄ってもすいとかわされはぐらかされ 、それがまた油に火を注ぐ。これでは埒が明かないと何とか捕まえた<ペルシャ人>に地下への道 を教えてくれ、なんでもすると言えば


「ロープにぶら下がる覚悟が出来てからその言葉を言え」


と一蹴された。後から考えれば彼は彼なりに道を探っていたのだろうが、その時の重衡にとっては 拒絶以外の何物でもなく、絶望でも悲観でもなくどうすることも出来ない自分を呪うより他なかっ た。あんな苦しくてつらい時間はもう二度と経験したくは無い。ぐるぐると同じところを巡ってい るような三日間はカタツムリが次の葉に移動するより遅く感じられたが、明けない夜は無い。望美 は無事に、五体満足傷一つなくこうして再び自分の前に現れた。


「でも重衡さん、<マスカレード>は貴方のような身分の方がいらっしゃるところでは・・・・・ ・」

「そんなことを言うのですか?貴方と二人、貴方のお父さんの話を聞くのに藁の上で寝そべってい たのに?」

「そんなこともありましたね」


父親の話をするとき、望美の笑顔は重衡の知る幼いころに戻った。ふんわりと笑んで、白い花が一 気にほころぶような笑顔は、常に彼の心を捉えて離さない。美人ならいくらでもいるのに、なぜ望 美だけがこんなにも自分の心を揺さぶってかき乱すのかとても不思議だ。これが惚れた弱みならば、 甘んじて受け入れてもいいと思ってしまうから始末に終えない。


「望美さん、仮面舞踏会なのでしょう?決して誰にも分からないように参りますから」

「・・・・・・約束、ですよ」

「ええ」

「誰にも、貴方が重衡さんであるということを悟られないようにしてください。でないと・・・・ ・・」


冬の澄んだ空気の中で太陽が雲に隠れた。明るかった中庭に一段くらい影が忍び寄り、約束すると いった重衡の目に、望美の右手に光る金色の指輪が留まった。

彼女は地上に戻ってからそれを一瞬でも外していない。





望美との逢瀬はいつもオペラ座のどこかであった。

ヴィーナスの鎮座する中庭、アポロンが竪琴を奏でる屋上、これからの未来を夢見る<子ネズミ> が厳しい稽古をするその壁一枚隔てた空間。一枚の絵画としても成り立つ書き割り置き場を二人で 歩いて回ったこともあるし、劇中に登場する動物を管理する厩舎に入って餌を与えることもあった 。オペラ座のどこもかしこも、芸術の中心地にふさわしく見事なものであったし普段入ることの出 来ない裏方は重衡にとっていい刺激にもなった。

だが、どんなに外に誘っても望美は首を縦に振らず、困った風に曖昧に笑顔を浮かべるだけだった 。どうしてと聞けば、どうしてもと返ってきて、なぜと聞けば言えないと返すばかり。業を煮やし て無理やり外に連れ出したい衝動を何度抑えたかもう分からない。それまではつらつと自分と向か いっていた彼女が、不意に視線を何処へとさまよわせては不安に瞳を揺らすのを幾度見ただろうか 。

今この瞬間、望美が笑顔を向けるのは間違いなく自分なのに、肝心の心が半分何かに囚われている ことを自覚するたび、重衡は空白の三日間が頭を過ぎった。


「どうか、もう聞かないで」


この一言は重衡の口を閉ざすに十分すぎる威力があるのだ。細い手でその芙蓉の顔を覆ってしまえ ばなおさらのことだ。きっぱりと明確な拒絶は彼から聞きだす気力を奪い、そして<怪人>の聞い たことも無い高笑いを耳に再現させる。一体、望美と<怪人>の間で何があったのかといらぬ想像 ――大抵は悪い方向に転がってゆく――を止める手段は、望美と会うことだけだった。

そうして会っていればいやおうなしに分かってしまう。望美も、幼い頃を知る人物以上に想ってく れていることが。骨の柔らかかった時期しか知らない彼女は今の重衡との差に戸惑いを感じ、現在 の彼自身を見ようとしてくれている。だからこそ、それを分かっているから彼の心はふり幅が大き くなってしまう。

<怪人>とのことは一切聞かない、この身一つだけを見ていて欲しい。

<怪人>と何があったのだ、言えないようなことか、それとも二人でからかって遊んでいるのか。

人に恋をすれば知らなくていい感情まで味わってしまう。心を手に入れたと思ってもそれは一時の 幸せな勘違いに過ぎず、結局自分のものにはならない。心も体も、突き詰つめればその所有者である 人物のものだ。誰かを完全に支配しようとするとき、相手に対する感情が逆に邪魔になり不完全に 終わる。何とも思っていない時ほど他人を手に入れやすいというのは、まさしく馬鹿げたパラドッ クスである。


「・・・・・・」


無言でオペラ座の前に止まった馬車から重衡は降り立った。

平素でも滅多に身に着けない白のローブを身に纏い、左手には同じく真っ白な仮面を手にしている 。これを顔につけて頭からローブを被ってしまえば、まるで子供が頭に思い描くようなゴーストが 歩いているように見えるだろう。オペラ座でも一等客である彼は姿形で容易に正体がばれてしまう 。だから、あえて全身を覆い隠して誰にも分からないような格好で参上したのだ――望美の願いど おり。

エスコート役を承諾してくれた彼女から昨日になって手紙が来たのだ。それも、キチンしたと国家 体制の一つである郵便という手段を使わず、あて先だけを書いた手紙を道端に落とし、それを通行 人の誰かが届けてくれる日をずっと待っていたに違いない。あちこち足の踏み跡が残り、泥水に滲 んでしまったインクは確かに望美の筆跡であった。

手紙の日付は一週間前。最後に望美とあった日でもあった。善良な通行人がいなければ今でもこの 手紙は道端で踏み続けられる運命にあっただろうと思えばいかにも幸運な話であるが、内容は色気 のいの字もなければ恋文と言うにはあまりに殺伐としていた。

曰く、<マスカレード>の当日は決して誰にも悟られないようにして欲しい。そして舞台の六番ボ ックスで落ち合いたい、それまでは会場で自分を見つけても絶対に話しかけてくれるなというもの だった。

変装している彼女を会場で見つけられるかと一瞬思いもしたが、すぐに望美ならばどんな格好でも 群集から瞬き一回の間に見つけられると思い直した。そして、なぜこんなに冷たいことを言うのか と。エスコートを約束したのではないか。不可解といえば不可解、不可思議にも程があると苦笑し ながらも重衡は結局手紙どおりにした。

きっと、これを破ってしまえば望美は二度と自分に近付いてはくれないだろう。そんな脅迫にも似 た恐ろしさは重衡を従わせる。

エントランスに入る直前、例の五番ボックスの案内人がいつもと変わらぬ黒いドレスで来客を迎え ているのが見えた。重衡は黙ったまま仮面をつけローブを頭から被る。

世にも奇妙な<仮面舞踏会>のはじまりである。












お重の衣装が奇天烈
どうもすいません……!(土下座)