The Phantom of the Opera  ――仮面の下 2 ――




それから望美が姿を見せたのは三日後のことであった。彼女に話を聞きだそうとしても一向に要領 を得ず――というよりも頑なに口を閉ざし、誰にどうやって連れ出され、どこでどう過ごしていた かすらも分からず仕舞いだ。一つオウムのように繰り返していたのは「何も無かった」という漠然 としていて抽象的、そして意味の広い言葉であった。

彼女の誘拐騒動が外部に漏れなかったのは不幸中の幸いでもあった。まず、彼女がいなくなったこ とを一番初めに気付いたのは舞台後に約束をしていた重衡で、その重衡が掛け合ったのが支配人で も近くにいた<子ネズミ>でもなく、あの五番ボックスの案内人と<ペルシャ人>の将臣だった。


「居なくなった?」

「ええ、居なくなりました」

「家に帰ったんじゃないのか?」

「寄宿舎のほうには使いを出しましたがそのようなことはない、と」

「望美に何かあったとおっしゃいたいの、重衡子爵?」

「そう考えねば、この状況をどう説明つけたらいいのですか」

「・・・・・・」

「・・・・・・」


青ざめた彼の前に、二人は口を閉ざした。もともとこの二人は一緒にいたわけではなく、泡食って 慌てた重衡が真正面からぶつかったのが将臣で、話を聞いた彼が五番ボックスの案内人に引き合わ せたのだ。彼女は望美の失踪に誰が関係しているのかとうに察しているらしく、細い手を額に当て たままじっと考えこんでいる。一方の<ペルシャ人>はいつものごとくよれよれの燕尾服を着崩し た格好で、何もない部屋の壁に寄りかかっていた。唯一の椅子に座った重衡は気が気ではない。

なぜあの時強引に、肩に担いででも部屋から馬車に連れて行かなかったのか、なぜおかしいと思っ たのにそのままにしてしまったのか、そればかりが頭を駆け巡る。


「地下の湖、か?」


ぽつりと呟いて将臣は案内人の女を見た。視線を受けた女は音もなく首を振る。


「分からない、と妾は申しましたわ、将臣殿」


このオペラ座には地下に巨大な空間がありそこには湖が広がっている。建築当初、地下を流れる地 下水をタンクで吸い上げ、出来た空間であるが、それでも吸い上げ切れなかった水が未だに残って いるのだ。その湖畔に<怪人>の家がある。これは推測でも憶測でもなく、事実であった。将臣が <オペラ座の怪人>を追い続けるうちに掴んだ事実であるが、肝心の地下への道が分からなかった。

オペラ座の地下は万が一に備えての食料備蓄倉、劇に登場する馬や羊の厩舎、書き割りや大掛かり な舞台装置の置き場などに今は使用されているが、パリ・コミューンの真っ只中では死体の置き場 であったといういわくつきの空間でもある。民衆の蜂起から始まった革命は<血の一週間>を経て 第三共和政府の誕生を迎えて混乱は終焉を迎えたが、コミューンに参加した兵士の埋葬は許されな かった。その、行き場をなくした兵の亡骸を置いていた場所が、他でもない、今三人が立っている 下なのだ。

いくらパリに生まれた案内人とて、混乱を直接知っているわけではないのでもちろんその空間への 道は知らない。


「隠し立てしても今は何の利益もねぇぜ」

「隠し立てする必要がございまして?」

「貴方は・・・・・・貴方は一体」

「この女はな、重衡子爵殿、例の<怪人>をかばっているのさ」


なぁ、と将臣は怒りとも憤怒ともつかない、実に苛立った目つきで女を見た。それにつられて重衡 は視線をやるも、女は無表情のままだった。そして、か細く息をついて言った。


「将臣殿、子爵様、妾は誰よりもあの彼のことを存じておりますわ。そのことは否定いたしません ・・・・・・ですが、決して彼の味方ではございませんわ」


ではなんなのだと重衡は問いたいのを必死でこらえた。今、どうにかして詰め寄ったとしても目の 前の女は何も明かさないだろう。口を開かせるのは簡単だとしても、そこから真実を語らせるのは どこの誰が何人集まったとしても不可能だと、そう思わせる空気が漂っていた。沈黙が降り立つ。 暗い部屋にはランプの明かりで全てを照らすのは無理と言うものだ。

とにかくもう一度望美の楽屋を見てみようと、将臣が極めて建設的な意見を言った。




望美の楽屋はがらんとしていて、贈られてきた花やきらびやかな宝石類がどうでもいいようにそこ いらに積み上げてあった。いかに彼女が今の名声と立場に無頓着であり無欲であるかよく分かる楽 屋とも言える。どんなに絶賛されても、最高の評価を得ても彼女は決しておごることなくひたすら 「歌を歌う」と言うことに邁進していたのだ。


「此処で<声>を聞いたというのですね、重衡様?」

「ええ、男の声で・・・・・・望美さんは必死でした」

「やっぱり、<怪人>の仕業か」

「でしょうね、間違いなく」


女はひどく感情を殺して一輪の薔薇をつまみあげ、二人に見せた。青味の強い紅色の薔薇である。 棘も摘まれることなくそこいらの庭から直接むしりとってきたのか、切り口はささくれている。器 用に黒いリボンで一通の手紙がくるりと留めてあるそれを、重衡に手渡した。


「どうぞ、お読みくださいな。<怪人>から貴方様へでしてよ」


重衡は手にした薔薇を初めて花を見る人間の目つきで見つめた後、ぱちんとどこかのスイッチが入 ったように乱暴に手紙の封を解いた。6が三つ並んだ形の蝋は触れるのもいやらしく、不吉な手紙 はやはり流麗な赤いインクで綴られていた。

憎たらしいくらいに綺麗な文字である。一目大きくその双眸を見開いたかと思うと――重衡は誰も 目にしたことがないくらいの激しい怒りでもってその上等な便箋を握りつぶした。あまりの形相に その場の二人は思わず息を飲んだが、将臣は無骨な手で持って手紙を取り上げる。


「・・・・・・なんだと?」


将臣が読んだその文書は極めて単純明快、そして短いものであった。


『重衡子爵殿、歌姫を返して頂こう――三日の後に地上に返す』


「あの人らしいですわね」

「ふざけている場合か、アンタ!」


緊張感もへったくれもない女の言葉に、重衡よりも先に将臣のほうが反応した。おかしなことであ る。手近なところに剣があれば間違いなくにぎっていたであろう。そんな剣幕をもってしても、女 は軽く首を傾げて流している。そして少し哀れむような、それでいて安心しているようなとても複 雑な感情を滲ませた視線を返した。


「ふざけてはおりませんわ、将臣殿。誓ってもよろしくてよ、あの人は望美に傷一つつけずに返し ますわ」

「なぜそんなことが言えるのです!無責任にも程がある!」

「それはね、重衡様。そうね、あの人は宣言しないことはやらない人ですから。この点については 妾よりも将臣殿の方がよくご存知でしょうよ」


ねぇ、と意味の深い言葉を置いて先に出て行った。残された男はもう一方の男を見やり、苦い顔で 黙り込んでいる眉間の皺を認めて――これ以上踏み込むことを止めた。

彼らは一体、<怪人>の何なのだろうか?




望美が目を覚ましたとき、まず目に入ってきたのは天蓋からたらされた見事な黒い紗であった。薄 いくせに完全に向こうが見えるわけでもなく、単に細かな網目で構成されているというだけではな い。恐ろしいほど針を動かした刺繍はぼんやりとした蝋燭の炎に浮かび上がり、一種幻想的でここ はどこだという疑問は頭から抜けてしまうほどだった。


「目を・・・・・・覚ましたか?」

「あ・・・・・・あなたは」


上等なベッドに寝かされていたらしい望美は<声>に反応してようやく上半身を上げた。視線をめ ぐらせれば程なくして紗の向こうに人影を見つける。

誰と問うことすら愚かだ。この声を聞いて分からないはずが無い。

いつだってこの声を追いかけ、この声から学び、この声に導かれてきたのだから。あぁ、寄宿舎に 帰ってからも思っていたこと――実体に触れてみたい、この目で見てみたいという願いがもう叶う 。手を伸ばして薄い布を跳ね上げるだけでいい。空間を隔てる幕を取り払えばいる、そこにいるの だ。

<音楽の天使>が。

この天蓋から糸が垂れている。望美の腕の関節に向かって。天蓋から望美を操る誰かがいる。その 布を跳ね上げろと命令を下す誰かが。自動的なマリオネットのようにゆっくりと腕を伸ばし、まず は指先が滑らかな紗に触れた。

心臓の音が煩い。

しっかりと布の感触を感じて掴み、そして自分の意思ではなく本能が筋肉と骨を動かした。

心臓の音が煩い。

<音楽の天使>をこの目で見させて、と幾夜星に願ったかもうわからない。高鳴る心臓の音は外に 漏れ聞こえやしないだろうか。震える指先はちぎれて落ちてしまわないだろうか。清らかなる天使 を見てこの目は潰れやしないだろうか。

あぁ、何が降りかかってもいい。どうか、彼をこの目で。


「・・・・・・」

「・・・・・・」


紗の向こうの人物は一寸たりとも動いてはいなかった。視界から黒い薄い布が消えてゆく中、まず 目に入ったのは顔の右半分を覆う、煌びやかで悪魔的な仮面だった。その色彩鮮やかな仮面に奪わ れて、言葉が出ない。

望美を見つめるもう一方の左目は透き通った菫色の瞳をしていた。端正な顔立ちであることは分か る。整いすぎていていっそ酷薄なほどだった。薄い唇を緩く笑む形にしてこちらをじっと見ている 。銀色の髪、綺麗に流れる肩のライン。完璧なまでにそろった身体のバランス。

この人が。


「あ・・・・・・」

「手荒な真似をした」


この声が。


「俺が恐ろしいか・・・・・・?」


獰猛な肉食獣を思わせる、緩慢で怠惰それでいて惹きつける色気を辛うじて皮一枚で包み込んで居 るような男だった。取って食われたとてなんら不思議はないだろう。囚われて閉じ込められてもう 一生忘れられない。鮮烈な印象を持って土足で心に入り込んで、それすらも心地よいと思わせてし まうような声。菫色の瞳が笑っている。


「ようこそ、歌姫・・・・・・」


仮面。この仮面を知らない人間はこのオペラ座にはいない。このシルエットを知らない人間はこの オペラ座にはいない。姿を見たのは初めて。声を聞いたのは無数。今、望美の中には矛盾と邂逅そ して疑問で満たされていた。

ゆっくりと彼は身体をかがめて望美に近付いてくる。

水の気配がすぐそこにある。明かりは蝋燭の炎だけだった。カツンと何かが石にぶつかった音がす る。薄暗いのはどうしてだろうか。からくりつきの猿の置物が不気味な仕草で動いていた。

近付けば近付くほど分かってしまう。

残酷なまでに彼は良く似ていた――かの重衡に。

まとう雰囲気を白から紅に変えただけのようなものだ。望美は声が出ない。声が出たとしても助け てと叫べばいいのか会いたかったと呟けばいいのかも分からない。混乱している頭はぼんやりと現 実を遠ざけて、代わりにはっきりと仮面を認識する。自然と手が近付く顔に伸びる。血の通わない 、冷たい仮面に触れて己だけが許された行為としてそれを取り払った。そして見てしまった。

罪の烙印、悪魔の十字架――<怪人>の印。


「逃がしはしない、望美」


静かに高らかに宣言をした彼は、ゆっくりとした仕草そのままに望美の淡く色付いた唇を奪った。

まるで毒のような口付けは、望美にとって永遠と思わせるほど長く、するりと滑り込んできた柔らか な舌でさえも拒むことを許されなかった。

後は翻弄されて食い尽くされるだけ。












登場したかと思いきやこの手の早さ
さすがは中納言様……!ちもの雰囲気を伝えきれない力不足をお許しください