The Phantom of the Opera ――仮面の下 1 ――
マルガレーテ、とは<ファウスト>の中でファウストが恋をした若い娘の役である。結婚前の身で
ありながらファウストと結ばれ、子をもうける。だが、当時のドイツではキリスト教の教え「快楽
による姦淫は罪悪である」に基づき、婚前交渉はもってのほか、発覚すれば母親は問答無用で子供
もろとも絞首刑に処せられた。もちろん、世間からの風当たりは強いどころか命の灯を消してしま
っても許されるほどの差別をされる。
マルガレーテも例外ではなく殺されてしまう役で、物語の最後になって天使として再び登場した。
この清楚で可憐、そして儚い役は望美のために描かれた役といっても過言ではなかった。マルガレ
ーテとしては少々肉感がにじみ出て、高音域になると傲慢さが見え隠れする政子よりもずっと的確
にマルガレーテの心情を表現する望美は、当然のように大喝采を受けた。受けたのだが、その顔に
笑顔は無く固い表情のままであった。
「<音楽の天使>!いるんでしょう!?」
ちっとも笑顔を零さない彼女に向けられる不審の視線を振り切って楽屋に駆け込んだ直後、望美は
四方の壁にせわしなく目をやりながら声を張り上げた。
「<音楽の天使>!いるなら出てきて!」
衣装ドレスをぎゅっと掴んだ手が小刻みに震え、何かに対抗しようとする瞳はまるで、大型の猛禽
類に立ち向かう小動物を思わせた。髪飾りを乱暴に取り払い、着替えを手伝おうとしてやってきた
小間使い――通称<子ネズミ>――を大丈夫だからとの一言で下がらせた後、望美は姿鏡の前に立
った。
乱れた髪が頬にかかっている。
「いるくせに・・・・・・!出てきてよ!」
――何を怒っている?
やっぱり、と言った瞳がきらと鏡を捕らえる。鏡の向こうから声がしているのは間違いでも勘違い
でもない。望美は大きく息を吸い込んで訊ねた。
「政子に、何をしたの?」
――なぜ、そんなことを聞く・・・・・・
「貴方は今夜、政子は歌えないと言った。なぜそれを知っているの?彼女の喉はとても強いの。あ
んな声が出るはずがないの」
――熟しすぎた果実は、地面に落下して潰れるだけ、だ・・・・・・
「・・・・・何をしたの。ねぇ、<音楽の天使>、お願いよ姿を見せて。もしも貴方がやっていな
いというならば、姿を見せてこの目を見て『何もしていない』と言って!」
それは舞台へ行く廊下で噴出した疑問だった。なぜなぜと繰り返しているうちに舞台は第三幕の頭
の楽を奏で、根っからの歌手の望美は一時的に演技と歌に集中した。そして幕が下りてしまうと頭
の中はそのことで再び一杯になり、こうして<音楽の天使>に向かい合っているのである。皮肉に
も立ち聞きをしていた重衡の言葉が、彼の実在を裏付けている。
今まで、実体を持つ存在だと疑わなかったわけではない。が、彼が一度歌いだしてしまうとそんな
疑念は実に俗っぽく思え、俗っぽいと思うことですら放棄してしまった。歌をねだり授けられる教
えを吸収することが世界の全てとなってしまい、恍惚とした時間は曖昧な記憶しか残らない。しか
し<音楽の天使>とこの楽屋で過ごした時間が確かだと信じられるのは頭ではなくこの喉が彼を覚
えているからであった。
彼はまさしく<音楽の天使>にふさわしい歌声の持ち主であるのだ。
「お願いよ・・・・・・」
一度湧いた疑いは枯れること無い泉の源流となり流れを作った。流れが川を作り海と言う終着点を
向かって溢れるように、望美の口からは願いが溢れ出た。姿を見せて欲しい、と。
<音楽の天使>は黙っている。
沈黙が重たく肩にのしかかる。
どちらが先に口を開くか、根競べの様相を呈したが、それを破ったのは間抜けなノックの音だった
。全身でびくりと反応した望美は、追い返したはずの<子ネズミ>が戻ってきたのかと思って無防
備にドアを開けてしまった。
少なくとも彼女は、今このときだけはドアを開けるべきではなかったのに。
「望美さん!」
「しげひ・・・・・・!」
驚きのあまりきちんと名前を呼べなかった。舞台に上がる前、準備中に見た姿と全く同じ格好の彼
を馬鹿みたいに見つめた後、血がさぁと引いていって氷水の中に放り出された錯覚を覚えた。<音
楽の天使>の前で彼を追い払うことはもう、出来ない。出来ないのに追い払わなければならない。
まるで借金取りに追われて金策に走る哀れな老婆のようだ。
「まだ着替えてなかったのですね。貴方と今夜過ごせると思ったら気が急いてしまって・・・・・
・申し訳ありません」
重衡は上品に白い頬を染めながら言った。貴方をこの目で見られてとても嬉しい。瞳は言葉以上に
彼の気持ちを物語っている。望美も本来ならば私もよという視線を投げかけるべき場面であったの
に、ただ青ざめて恐怖とも悲しみともつかない目で彼を見つめるだけであった。
「・・・・・・望美さん?やはり気乗りしませんか?」
「・・・・・・」
そんなことはないと本当は言いたい。けれど、背後に控えた気配の大きさが望美の口を塞いでいた
。
「申し訳ありません」
そんな望美の沈黙をどう受け取ったのか、重衡は上等な仕草で一礼し謝罪の言葉を述べる。申し訳
ないともう一度繰り返し、目の前の愛して止まない女の細い手を取りながらいう。
「貴方が気乗りしなくとも、心のそこで私を嫌悪していようと・・・・・・今夜ばかりはさらって
でも私と共に過ごしていただこうと思っているのです」
浅ましい私をお許しくださいと彼は言った。望美はふるふると首を横に振り、無理やりに笑顔を浮
かべようとして失敗してしまった。だから、有能な喉を使って精一杯返す。
「いいえ・・・・・・すぐに着替えますから、もう少し待っていてくださいね」
声は微塵も震えてはおらず、奇妙な表情をした顔から重衡の注意を逸らすことは出来たようだ。彼
はほっとした笑みを軽く浮かべて、待つ間に馬車を用意すると言い置いて行ってしまった。ドアを
閉じれば、今まで感じたことが無いほどの濃密な気配が自分を待っている。あぁ、本能に任せるま
まこの場から逃げ出せたらどんなに幸せだろうかと望美は思う。<音楽の天使>との約束は破られ
た――重衡の瞳と想いに負けてしまった己が破ったのだ。
見捨てられてもいいと覚悟を決めることが出来ないほど、望美は<音楽の天使>の声に魅了され浸
食されている。それは歌手として、歌を歌うものとして惹かれるのは当然であり、あの声を失った
ら今すぐにセーヌ川に身を投じてもなんら不思議なことではなかったのだ。
――ただの御曹司ではなかった・・・・・・か
「彼は、今夜一緒にいればもう来ないと誓ったわ。今夜だけは許して・・・・・・」
揶揄という単語に音をつけたらきっとこんな風に聞こえるのだろう。<音楽の天使>はそんな口調
で言い、そして笑った。嬉しくて笑うときの笑いではなく、愚かな女を嘲るときの笑い方だった。
そう、ちょうどマルガレーテを周囲の者が皆で笑って石を投げるときの、見下して軽蔑して差別を
楽しんでいるときの昏い笑い方だった。
――姿を見せろと言ったその口で、他の男に会うのを許せと言うのか・・・・・・欲深い女
だ、な
「そうじゃない!」
――何が違うのだ?
「違う・・・・・・!」
<音楽の天使>はいつか見せた冷酷で望美を追い詰めて嬲って愉しんでいる口調を見せていた。玩
ばれている望美は狂ったように頭を振って否定するしかない。一体何を否定しているのかも分から
ずに。
――いいだろう・・・・・・
初め、どちらに対しての「いいだろう」なのか分からなかった。唐突に降ってきた許可に望美は虚
を突かれた顔のまま固まり、次の瞬間には耳に流れ込んできて脳髄をかき回すような歌声に我を忘
れた。
<音楽の天使>が歌っているのはチェコスロバキアの作曲家スメタナの<売られた花嫁>からの一
曲だった。決してお目出度い題名の歌ではないのに望美は、あぁ、一瞬の夜明けを見た旅人のよう
に全身の力を失ってしまうのだ。
抗えない。
いつしかその歌声が肉体を持って自分の真後ろで奏でられていることも気付かず、常にそうである
ように恍惚と瞳を輝かせる望美はひたすらに声を追った。
「・・・・・・お前は俺のもの、だ」
<音楽の天使>は己の子羊に触れて連れ去った。
その端正な顔の右半分を覆う、色鮮やかで妖しい仮面を望美は見ていない。
やっと登場しました・・・・・・!
登場したのにセリフ一個で終わったっていう・・・・・orz