The Phantom of the Opera  ――第三幕休憩――




ふうと女の唇から吐き出された煙が店内のよどんだ空気にくゆって一体化して溶けていく。その様 子を、九郎は馬鹿みたいに目で追ってグラスの中身を飲み干した。味はしない。ただ、こんなとこ ろで飲むにはひどく上等な酒である気がして、そしてなぜかしっくりと来た。

パリ・コミューンの混乱は直接知らないが、この狭い空間でたくさんの人が肩を寄せ合って災いが 過ぎるのをじっと待った。あの混乱の最中、死体の置き場はあろうことかオペラ座の地下であった のが皮肉と言えば皮肉か。混乱が落ち着き、亡骸が全て運び出された巨大な空間に、<怪人>は住 み着いてしまったのだから。


「これが<音楽の天使>のお話ですわ」


話し終えた女のグラスはとうに空いていて、ぶどう酒のオリが底のほうに溜まっている。ご納得い ただけまして、と無機質に女は二人に尋ねる。大きな溜息が二人の答えだ。泰衡はしかめた顔をま すます深くしている。彼にかかってしまえばどんな上等な酒も旨いのか不味いのか分からなくなる。


「たいして面白くもございませんでしょう・・・・・・二人は、イギリス時代の幼馴染ですわ」

「その、<音楽の天使>と言うのは、つまり」

「あぁ、九郎様、皆ままでおっしゃらないよう」


女はからかいの口調のまま九郎の言葉を遮った。見れば、愉しそうに目を細め、赤い唇を弧の形に 変えている。この女はどんな生き方をしてきたのだろうかとふと思った。そこいらで見かけるよう な美人の類であるのに、常人の空気をまとってはいない。こんな調子で社交界の要人をボックス席 へと案内していたのだろうか。

オペラ座でバレリーナをしていたということ以外、素性が知れない女だ。


「さて・・・・・・お二人は<オペラ座の怪人>についてどれくらいご存知ですの?」


唐突に女は尋ねてきた。泰衡は一息にグラスの中身を飲んでから答えた。


「髑髏だろう」


泰衡は簡潔すぎる答えを言って女に笑われる。


「鼻がなく、目はくぼみ、死肉をまとっている?骨ばった手でありとあらゆる鍵を開け、死臭を撒 き散らすという話ですかしら?」

「あぁ、そう聞いたが」

「九郎様も同じ意見でして?」

「そうだな、神出鬼没でとても醜い外見をしていると。そして仮面を常に身に着けているのだと」

「まぁ・・・・・・そうですわね、外に漏れる時は何事も歪曲されて伝わるものですものね」


女は全てを知る目でやはり笑った。黒い髪がさらりと揺れる。全員のグラスが空いたので、またマ スターが奥から出てきた。今度は何にするかと抑揚のない声で聞く。それに、泰衡は同じラムを、 九郎はりんごのリキュールをロックで頼んだ。女は気安い様子で初老のマスターに注文をつける。


「そうね、スペインのワインはありまして、マスター?ええ、血のように赤いワインがいいわ・・ ・・・・色を見せて頂戴。あぁ、これがいいわ。これをくださる?少し多めに」


テイスティング用に出されたグラスをランプの炎にかざして満足げに言う。赤い液体が透明な影を 女の顔に落とし、揺らめきに不規則な表情を見せる。コルクの匂いを優雅な仕草で確認すると、細 い指でマスターに返した。

マスターは背中にねじがあるのではないかと疑うような動きでそれぞれのオーダーを差し出してい く。三人の前のグラスをそれぞれ満たすと、もう此処には用がないと言わんばかりに再び奥へと消 える。

女はいつの間にか指に挟んだ煙草に、これまたいつの間にか火をつけて煙を吐き出した。煙の中に 記憶が見えるのか、じいと視線で追って口を開いた。


「では話の続きでもいたしましょうか・・・・・・」

「ああ」

「さしずめこれは・・・・・・あぁ、<仮面の下>とでも申しておきますわね」


当然のごとく、女は煙を吐き出して話を始めた。










ワインの銘柄は不明
やっと登場します、あの彼が……(遅いYO!)