The Phantom of the Opera  ――音楽の天使 3 ――




政子の<ヒキガエル>が起きた後、騒動の後始末を引き受けさせられたのは望美だった。

両支配人は迅速な処置を取った。劇場にいる全ての紳士淑女のお客様に非礼を詫び、代役を望美に すると――本人の了解も得ず――高らかに宣言することで事態の収拾を図り、それは見事に成功し た。最高の土曜の夜を過ごそうと思って来場した人々は政子に失望し、その後の新しいプリマドン ナに大いに期待を寄せる。

彼女の準備が整うまでの間、コーラル・ガールによるバレエが間を繋ぐ。その隙に望美は嫌とも応 とも言う間も与えられず楽屋まで連れてこられた。


「マルガレーテは歌えるね?」


此処までついてきたヒノエが言う。あまり話したことのない支配人は苛立ちを隠さずに緋色の前髪 をかきあげ、左手の下から望美を睨み付けた。


「歌えます」

「そう、なら良いんだ。怪人を味方につけるくらいだから歌えるとは思ってたけどね」

「どういう・・・・・・こと、ですか」

「そんな話は後だ。着替えて、準備が出来たら舞台袖へ。始まりは第三幕の頭から。いいね?」


曖昧に頷いた望美を承諾と受け取ったのか、ヒノエは早口でまくし立てると早足で楽屋を後にした 。その華奢ながらも広い背中を見送り、衣装係が勝手に着付けていく間、望美はどうもぼんやりと して全てを見ている。現実感がない。まるで今この瞬間、魂だけ抜け出して高いところから俯瞰し ているようだ。

支配人は、なんと言ったのだろう。どうして強い喉を持っているはずの政子があんな声を出したの だろう。どうして、<音楽の天使>は政子が歌えないことを知っていたのだろう。

ぐるぐる頭を疑問がかけめぐる。


「はい?」


ドアをノックする音ではたと我に返り、目で衣装係りに合図すると彼女はスカートの裾を翻して扉 まで近付く。薄く開いたドアから漏れるようにしてこちらまで流れてくる気配、一流の生まれを持 つものだけが持ち得る雰囲気がこの場を支配する――重衡の姿があった。


「あ・・・・・・」

「私は、これで」


望美が一瞬強張ったのを、衣装係は間違った方向で解釈してしまう。新緑の双眸がじっと視線を向 ける先、淡く開いた唇が何かを問いかけた先、そこに居るのは貴公子の名にふさわしい重衡。入れ 違いに部屋へと足を踏み入れる彼は、もう逃がしはしないと言いたげな瞳で一歩一歩、確実にこち らへやってくる。


「あ、の・・・・・・」


ああ、あんなに有能に歌ってくれる喉が役に立たない。


「え、と・・・・・・」


声帯から脳みそまで全部凍りついて、機能してくれない。

会いたいと願わなかったわけじゃない。ステージでこのシルエットを見るたびに心は容赦なくかき 乱された。憎らしいくらい燕尾服を見事に着こなし、どんな言葉もその完璧なラインを描く肩です いと流してしまう。楽屋を訪ねてくれるたび、どんな思いで追い返してきたのか。

あぁ、もう、逃げ場がない。


「準備中、申し訳ありません」


重衡は落ち着いた声音でそう切り出した。黒い燕尾服の上着に白いシャツ、髪の色に映える薄い紫 のスカーフ。全てが彼を引き立て、同時に彼は引き立て役など必要がない存在でもあった。


「どうしても、会いたかった」

「わ・・・・・・わたし、は」


<音楽の天使>がこの場に来てしまったらどうしよう。この場を見たらきっと、怒ってもう自分の 前には現れてくれない。けれど。


「どうしても、会いたかった。貴方が、私を忘れてしまっていても」

「いいえ!」

重衡の言葉に、望美は強い否定を示してしまった。それが無意識であったことは彼女の身振りから 十分に伝わってくる。はっと己の口を白い手で塞ぎ、ドレッサーの淵に後ろ手に手をつく。

お願い、もうこれ以上、近付かないで。


「忘れてないわ・・・・・・重衡、さん」

「本当に?」

「えぇ、覚えています・・・・・・。夏の海に、風に飛ばされたあたしのスカーフを取ってきてく れた」


その言葉を紡ぐ彼女が何と愛らしかったことか。きらびやかなマルガレーテの衣装の中で埋もれる ように真珠の輝きを持っている。忘れていない。名前を初めて呼んだ。たったこれだけのことで、 今までの仕打ちを忘れてしまえるほど、浮かれそうになる。

けれど、どうして彼女は落ち着きなく楽屋の天井や姿鏡に視線をむけるのだろうか。顔色が悪いの は緊張しているせいだとしても、なにか、そう突然の訪問者――自分ではない――に怯えているみ たいに重衡の目には写った。


「だけど、今、は」

「分かっています・・・・・・舞台が終わった後の、貴方を予約しにきたのです」

「え」

「今夜、舞台が終わったら、私と過ごしてくださいませんか?」


重衡は確実に距離を埋めながら聞いてくる。

しなやかながらもがっしりとした双肩、広い胸板。長くて綺麗な手をこちらに差し伸べて、まるで ダンスでも誘っているようなのに、その紫水晶の瞳は切ない熱を持って自分を見つめている。父と の思い出を共有する少年は、彼であり彼ではない。この差をどう処理したらいいのだろう。この手 をとれたらどんなにいいだろう。


「たとえ貴方に声も魂を捧げる相手がいても構わない・・・・・・一晩だけ」

「・・・・・・なぜ、それ、を」


望美の喉はたどたどしい言葉しか発してくれない。めまいがしそうな混乱に体全部がついていかな い。髪飾りがしゃらりと音を立てて床に落ちた。


「申し訳ありません、先日、このドアの向こうで」

「聞いたの?」


純粋に、気違いの女が我が子の行方を問うような瞳で、純粋に望美は聞き返した。


「聞いたの?あの<声>を?」

「望美さん?」

「聞いたの?」


望美は重衡の動きを一分たりとも逃がさないと、食い入るように見つめてくる。愛しいものを見つ める目ではない。両の目を通して脳内の記憶まで見逃さないという目だ。


「答えて・・・・・・!あの<声>を聞いたのね?」

「ええ、立ち聞きなどしたくはなかったのですが」


重衡は溜息混じりにそう返すしかなかった。紛い無いなりにも己の育ちからしたら立ち聞きなぞ無 作法以外の何物でもないが、望美はそれを責めているわけでもないようだった。むしろ、その答え を聞いてほうっと力を抜き、安堵の表情さえ浮かべていた。


「じゃあ、間違いじゃないのね・・・・・・<音楽の天使>は」

「<音楽の天使>?」


彼女の父親が語る物語の登場人物ではなかったのか。なぜその単語が今この場で出てくるのだろう 。重衡が小さな疑問を口にする前に準備の出来た係りが望美を呼びに来た。望美は強張った顔では いと答えたのをしおに、この話は終わりになってしまい、重衡も楽屋から出て行かねばならなくな る。

だから、今のうちに。

彼女が他の誰かに独占される前に。


「お願いです、望美さん。貴方の一晩、たった一時間だけでいい、私に、くださいませんか」


他の男が当たり前に貴方を独り占めにする時間を。慈悲でいい、情けでいい。何でもいい。


「・・・・・・」


望美は答えない。針のむしろで苛まれる天使の顔をしたまま黙っている。薄く色ついた唇がわな ないて、必死に耐えている。


「そうしたら、私は貴方の前に二度と現れない。もう貴方の舞台も観には来ない。此処にも来ない」


重衡は続ける。望美の心をかきむしる声で続ける。


「貴方の時間を、私にください」


望美は黙ったまま、先にドアへと歩いていった。扉を震える手で開き、廊下へと出る瞬間、消え入 りそうな声でやっと答えた。


「分かりました・・・・・・舞台が、終わったら」










お重様のごり押し。
巻き返し……なりましたかね?(聞くな)