The Phantom of the Opera  ――音楽の天使 2 ――




望美からたった一言、その場に他の男どももいたはずなのに、自分にだけ向けて拒絶の言葉を投げ かけられた重衡は三回瞬きをしてから呆然と閉じられたドアを見つめた。成長した望美は想像もつ かないほど美しい女性へと変身しており、それでいて清廉で純真さを保っていた。

なのに。


「あなただれ」


とは。

いい貴族の男が振られた現場に居合わせた人々は好奇の視線を不躾に重衡に集中させたが、彼は今 、そんなことを気にする余裕すらなかった。やがて追いついた経正に肩を叩かれ、来た道をおぼつ かない足取りで戻ることとなったのだ。その道中、ひたすら何かしただろうかと考えたが、最後に 会った日から五年以上経っていては答えなぞ思いつくわけも無く、釈然としないままだった。

前を行く経正が心配そうに時々こちらを振り返るので、なんでもないと言う様に笑ってみせる。


「・・・・・・あれは」

「ボックス案内人ですね。話してるのは・・・・・・まさか<ペルシャ人>では」

「ペルシャ人?」


オペラ座のエントランスでようやく顔を上げた重衡は、この劇場に来るたび洗練された所作で六番 ボックスへと案内してくれる黒いドレスの女を見つけた。開演前と同じ、髪を高く結い上げた格好 で、なにやら背の高い男と話している。その姿が、いつもの<案内人>という壁をほんの少しだけ 切り崩して、ただの引退したバレリーナの顔で話しているようで、目に付いた。

鸚鵡返しに訊ねてくる重衡に、経正は柔らかな笑顔で答えてやる。


「私も詳しくは知らないのですが・・・・・・このオペラ座に居ついている東方の男だそうで。得 体が知れないので誰も素性を問わないのだそうですよ」


経正の説明を聞きながら、重衡はそうとは分からないように二人を観察していた。人より頭一つ分 は背が高い――重衡とて平均以上の身長なのだが――男で、オリエントブルーの瞳と髪をしている 。精悍な顔つきは幾度も戦場を潜り抜けてきたようで、このパリではあまり見かけない類の空気を 身にまとっている。きっちりと燕尾服を着ている人並みの中で、ぞんざいにスーツを着崩す彼は目 立つ存在なのに、誰も目を向けていない。


「と、いう話を一体どのバレリーナから聞いたのですか、経正殿?」

「え、や、重衡殿!」


経正をからかうだけの気力が戻った重衡は自ら敦盛の待つ馬車へと足を向けた。きっと、望美はこ れまで経験したこともないような舞台で自我を失っているのだろう。だからあんな振る舞いをした のだ。そう言い聞かせることで、もしや他の誰かがあの楽屋にいたのでは、という暗い想像――半 分は当たっているのだが彼は知らない――から目を背けた。

人知れず漏れた溜息はパリの夜に溶けていく。




ガラ・コンサートの夜から、重衡は自分でも理由が分からないまま、舞台が跳ね上がるとすぐに望 美の楽屋へと脚を向けた。その様子は傍らの経正や敦盛の目に一途に想う男の姿として映ったが、 問い質すたびに


「昔話をしたいのですよ。彼女の父を私はよく知っているので」


と判を押したような返答しか返ってこなかった。

舞台裏に行っては意気消沈して帰ってくる重衡に、ついに二人はかける言葉をなくした。あの日以 来、特に目立つ役についていない望美になぜそこまで執着するのか、言い換えれば、幼い日の思い 出を共有しているだけの女と話をしたいだけで、どうしてこうも通い続けられるのか、年若い敦盛 にはさっぱり分からなかった。

優しい兄に一度そっくりそのまま疑問をぶつけてみたら、お前もいつか分かるよと笑われてしまっ た。

そんな風にして重衡の日々は本のページをめくるように過ぎていく。時を重ねるにつれてオペラ座 へ向かう足どりが重たくなるが、それでも止められなかった。楽屋のドアを叩いても返答はなし。 手紙を書いても梨の飛礫なのに、ステージに上がる彼女を見るだけで胸が苦しくとも切なくとも甘 くともなるのだから始末が悪い。

さらに悪いことに、舞台の上から自分と目が合うたびに不自然なくらい視線を反らす望美に気付い ていた。それまで生き生きと演じていたのに、視線が交わった瞬間、望美は影に引っ込んでしまう。 まるで何かを恐れているように。それが余計に、重衡に望美の中に確実に自分との記憶があること を裏付けてもいたのだが。

人がそれに落ちる瞬間と言うのは絶対に自覚できない。ただ、知らない間に深いところまで落下し 、見渡せばその人しか目にはいらない。そうして、ああ、これがあれかと分かったときにはもう手 遅れなのだ。それを悟る瞬間にも二種類あって、幸せなものとそうでないものがある。重衡の場合 、胸をかきむしって心臓を抉り出すほど苦しかった――それほどまでに彼女に堕ちていたという証 でもある。

ある日の舞台が終わった後、一人で観劇に来ていた彼はいつものごとく望美の楽屋へと脚を向けた 。一ヶ月前は知りもしなかった舞台裏も、もはや勝手知ったる何とやら、颯爽と歩いてたったひと つのドアを目指す。

そして聞いてしまった。

あの<声>を。


――お前は誰のために歌っているんだ?


重衡はドアノブに伸ばした手を引っ込める。


「貴方のためよ。どうして信じてくれないの・・・・・・!」


望美の悲痛な声が聞こえる。重衡は足音を殺して扉に一歩近付いた。はやる心臓の音が耳元で聞こ える。苦しくなってシャツの上から喉を押さえたけれど、何の役にも立たない。

<声>はさらに厳しい口調で続ける。


――今夜は疲れたろう・・・・・・?

「声も魂も捧げているのに!」


声も魂も。あぁ、望美は今、自分以外の誰に心を捧げているのか。認めたくない。認めても認めな い。重衡の頭は意味のない問答を繰り返し、ドアを蹴破りたい衝動だけを辛うじて飲み込んだ。


――お前はとても・・・・・・そう、美しい、な

「信じてくれる?」

――あぁ


それきり、中から会話は聞こえなくなった。

皮肉にも、沈黙が重衡の頭の潤滑油となり今度は自問自答が始まる。なぜ、なぜこんなに動揺して いるのか。ただ、昔話がしたいと思っていただけではないのか。そう、経正や敦盛に言っていたよ うに。一目会いたいという願いは、元気な姿をこの目で見て、旅行のついでにかつての避暑地に立 ち寄るから、そのときに世話になった人との会話の接ぎ穂にと思っていたのではなかったのか。

あぁ、なぜ?

廊下の向こうから誰かの足音が聞こえる。しなやかな動作で物陰に隠れると、ボックス案内人が先 日見かけた<ペルシャ人>らしき男と話しながらこちらにやってきた。


「地下への道は妾も知りませんわ」

「だけど絶対にあるはずだ!」

「将臣殿・・・・・・どうしてそうあの人を追うの?彼は何もしていない」

「あぁ、してないさ、今は、な!アンタだって分かるだろう・・・・・・?あの怪物を野放しにい ておくことの恐ろしさが!」


<ペルシャ人>は将臣というらしかったが、今の重衡にとってはどうでもいいことだった。ただ、 楽屋の中で望美に誓いを立てさせる男をこの目で見てみたい――見たとき、何をするか自分でも分 からないけれど――ということだけが頭の中を支配していた。


「アンタ、アンタだってもう、このオペラ座で死人が出るのは嫌だろう?」

「妾はね、次に死人が出たらここを去ると決めておりますの」


勝気な双眸がきらりと光った。対する<ペルシャ人>はゆっくりと溜息をつく。


「<怪人>も恐ろしいが、アンタも十分に恐ろしいな」

「さぁ・・・・・・それはどうかしらね」


二人は重衡に気付くことなく行ってしまった。あとには再び沈黙が降り、重衡にゆっくりと立ち直 るだけの時間を与えてくれる。じっと息を潜めてその場にいたが、望美の楽屋から出てきたのは毛 皮のコートの身を包んだ彼女だけだった。少し青ざめた横顔を見て、思わず抱きしめたくなってし まう。磁器のような額に口付けて、どうしたのと優しく包んで癒してやりたい。それでも重衡は動 かない。


「・・・・・・どうして誰も出てこないんだ?」


閉ざされた楽屋からは望美以外の人間が出てくることは無く、舞台が終わった興奮が波のように引 いていく裏方で、重衡は素朴な疑問を口にした。

しかし、謎が謎を呼ぶ中、彼は一つの答えにたどり着いていた。

平重衡は、生まれて初めて、初恋の人にもう一度恋をしているのだということに。










遅ればせながら将臣(=ペルシャ人)登場
経正・敦盛兄弟が意外にも頑張ってくれました