The Phantom of the Opera  ――音楽の天使 1 ――




ガラ・コンサートでの熱気はそれまでの歴史を覆すほどだった。今夜限りで引退する、年老いた支 配人はただひたすら驚き、居合わせた観客は皆、なぜ有望な歌手を隠していたのかと劇場関係者に 詰め寄る始末である。観客席にいた音楽評論家は望美の歌声を聴き、後日新聞にこのような記事を 投稿した。


『彼女は<ロミオとジュリエット>から数曲歌ったが、まるで舞台にグノー自ら降り立ち彼女に歌 い方を授けているようだった。この楽曲は旧テアトル・スカラ座でカルヴァロ夫人が歌って以来、 彼女の解釈と声に恐れをなしてどんなオペラ歌手も避けて通ったが望美はその遥か上を行く出来だ った。

彼女が夜の女王を歌えば、モーツァルトでさえ天から降りてきて望美の歌声に耳を傾けるだろう。 いや、<魔笛>を歌う魔法の歌手の声は空を突き抜けて天まで届き、他界した偉大な音楽家たちま できっと聞こえるはずである。そんな空想を馳せてしまうほどの舞台だった!

筆者は望美の初舞台を見て将来有望な新人だとは思っていたが、ガラ・コンサートで見せた劇的な 変化は一体何に起因するのか全くもって謎である。

気高く素晴らしい、清楚で華やかな歌声は空から天使が翼を持って降りてきたか、地獄から悪魔が 彼女に囁きかけたかとしか思えない!』


気難しく辛口で知られる音楽評論家が興奮に包まれた記事を読んだ人々は、一度はそう、死ぬ前に 一度でいいから彼に此処まで言わせた望美の歌声を聴きたいと望み、どうしてこんな逸材が政子の 横で小姓役に甘んじていたのかしきりに首を捻った。何しろ彼女は特定の先生についているわけで もなければ、これからずっと独学でやっていくと公言していたからだ。

この舞台を自分の目で見、自分の耳で聞いた幸運な観客は狂ったように喝采を望美に捧げ、沸き起 こるブラヴォーの声に背中を押されるように彼女が舞台袖に引いた時、一番に出迎えてくれたのは 大親友の朔だった。


「望美!」


細くて華奢な腕を精一杯伸ばして望美の体を抱きしめる。


「完璧だったわ・・・・・・私まで泣きそうよ」

「ありがとう、朔。でも泣いちゃダメよ。お化粧が崩れちゃうわ」

「ええ、そうね、そうね。今夜は<怪人>が現れたって聞いたからどうなるかと思ったけど」

「<怪人>が?」


次の場面の衣装を着た朔は、声のトーンを抑えて二級団員の話をそっくりそのまま望美に聞かせた。 舞台から下がったばかりの望美の頬は、ライトの熱と歌い上げた余韻でまだばら色に染まっていた けれど、話を聞いて背筋にうっすらとした寒さを感じた。

音楽の調子が変わり、朔の出番があと少しに迫る。今の暗い、不吉な話なんか嘘だというように朔 は明るく笑って望美を廊下まで送り出した。


「今晩の成功でゆっくり寝られそうも無いけれど・・・・・・一緒に宿舎まで帰りましょ?」

「もちろん!先に楽屋に下がってるから」

「ええ、早く行ったほうがいいわ。もう少ししたら紳士の皆様が殺到しちゃうもの」

「朔ってば」


彼女のからかいに反撃しようとしたのと同時に朔を呼ぶ声がする。じゃあねと手を振って望美は朔 と分かれて楽屋へと向かった。雑然とした裏方は華やかな舞台からは想像もつかないけれど、表が きらびやかな分、裏は人の目に見えずそして混沌としているものである。楽屋までの道のり、照明 や大道具、小道具から感激の言葉をもらったが、それらは全て望美の頭の上を通り過ぎていった。


「見間違いじゃないわ・・・・・・!」


なぜなら、その時望美の脳裏には舞台から見えた六番ボックス――舞台から見て右手二階席のボッ クス――にいた人物が浮かんでいたからである。忘れもしない、あの星の光に染まったような銀色 の髪。遠めで見てもそれと分かる整った顔立ち。

幼い日、一緒に父が語るフェアリーテールに耳を傾けた平重衡だ。

きっと、望美が話しても聞く人は鼻で笑うだろう。フランス屈指の御曹司と身寄りのないオペラ歌 手がそんな思い出を共有しているものかと。日ごろの願望が見せた妄想、そんなことを考えるなら ばスタッカートの練習でもしていろと言うに違いない。けれど、事実なのだ。きっと、自分がオペ ラ座で歌っていなければ再会なんて望める相手ではなかった。心臓がせわしくなく動いているのは きっと、舞台から降りただけのせいではない。

楽屋の扉を開け、舞台衣装のドレスの上から胸を押さえて深呼吸してもまだ収まりそうにない。


――見事な舞台だった・・・・・・な

「あ・・・・・・」


<声>はいつものように唐突に訪れた。壁の姿鏡の向こうから聞こえてくる気がして一度調べてみ たことがあるが、鏡はただの鏡だった。望美は満面の笑顔で応える。


「褒めてくれる?」

――あぁ・・・・・・上出来、だろうな

「本当?」

――嘘は言わん・・・・・・


<声>の声は男性特有の妖しさ――惹きつけて脳みその大事なところを蕩かすような響きを持って いる。雄々しくそれでいて甘美、そして誇りと威厳に満ち、人の心に鮮やかに入り込んで二度と忘 れられない声だ。ある種悪魔的な誘惑をたたえた声が望美の師である。望美がこの<声>に出会っ てからもう三ヶ月がたつが、舞台のあと、こうして評価を受ける時は慣れない緊張が全身を包んだ。

亡き父は本当に自分に<音楽の天使>を遣わしてくれた。そのときは本当に驚き、隣の楽屋で誰か 歌っているのかと思ったが、<音楽の天使>はどうやら自分の楽屋に降り立ったのだと知った。

<音楽の天使>は本当に厳しいマイスターでもある。望美の声帯の欠点を見事に言い当て、さらに は日ごろどんなレッスンを受けていたのか、父親からどのような指導を受けていたのかまで正確に 告げた。そして望美自身でも知らなかった癖や広がらなかった音域まで出せるように的確に指導し てくれた。

望美は<音楽の天使>というマイスターに盲目の子羊のようについていき、今夜の拍手をその身一 杯に浴びて帰ってきた。


「自分でも驚くほど気持ちよかったわ!」

――ああ・・・・・・


<音楽の天使>はそっけなく相槌を打つ。望美はまだうっとりとした表情で舞台をリフレインして いた。


――だが・・・・・・

「なぁに?」


<音楽の天使>はしばし沈黙した後、静かに続ける。望美は無邪気に聞き返す。


――舞台の上で、途中から何を考えていた・・・・・・?

「え・・・・・・?」

――分からないとでも思っているのか?お前は他の事を考えていただろう?

「そんなことは!」


急に冷や水どころか素っ裸で雪の上に放り出されたような寒気が全身を襲う。<音楽の天使>は何 もかもをお見通しだ。舞台の上で幼い日の、ままごとの恋人ごっこをした相手を見つけて浮かれた 気持ちになってしまった望美のことなんか、とっくに知っているのだろう。望美は、上から下へ血 が滑り落ちる音を聞いた気がした。


――嘘はよろしくない、な・・・・・・?

「待って!違うわ!彼は小さい頃」

――なんにせよ、お前は歌っている最中に集中していなかったんだろう?

「違うったら!」


その日の<音楽の天使>はいつも先生が生徒を窘めたり、諌めたりする口調ではなかった。ただこ ちらを嬲って遊んでいるような声に、望美は脚から迫る震えを抑えられない。<天使>なるものが 生身の人間に語りかける内容としてはかなり俗っぽいのだが、そこまで頭を回す余裕なんか無かっ た。


――六番ボックスの、平重衡子爵、か・・・・・・

「・・・・・・っ!」

――そうだろう?

「・・・・・・」


じわりと視界が歪む。新緑の瞳に涙を浮かべて望美は許しを乞いたいのに、言葉が出なかった。観 客を前にして歌を届ける役目に専念していなかったこと、古い友人にあって――昔の気持ちを思い 出して――浮かれてしまったことに対して恥じ入るほうが強く、じっと形のいい唇をかみ締めるだ けだ。<音楽の天使>に対して釈明の余地すらないだろう。彼は、純粋に音楽を追い求める存在な のだから。


「・・・・・・ゆるして・・・・・・」


わななく唇からそう音を零すのがやっとだった。返ってきたのは軽蔑するような短い笑い。ああ、 もうこれできっと<音楽の天使>はあたしを見捨ててしまうと絶望の奈落に一歩踏み出した心持に なる。盲目の子羊が、先導を失えば広い荒野で野垂れ死にするよりほかない。


――お客だ

「え・・・・・・なに、だれ、が」

――ほうら、重衡子爵が来る・・・・・・


揶揄の口調そのままに、<音楽の天使>は望美に絶対的な命令を下した。


――入り口で追い払え・・・・・・出来るだろう?

「でも、でもそんな失礼なこと」

――出来なければ、二度とお前の前には現れない


きっぱりと言い切った冷たい<音楽の天使>に望美は従うことだけが許された行為だった。










お重様がまだしゃべらない
次回から巻き返しをしたい、な・・・・・・(希望)