The Phantom of the Opera  ――ヒキガエル 3――




オペラ座にはボックス席がある。

一年中遊んでいても差し支えの無い定期会員たちは決してその席を譲らず、貸したり又貸ししたり も絶対にしなかった。ゆえに、土曜日の夜、<ファウスト>が上演される直前になればどうしたっ て貴族階級のお歴々がボックス席を埋め尽くす――五番ボックスを除いては。

オペラ座のボックス席というのは社交界の名士のみが出入りできるところである。音楽を媒体とし て彼らが交流するサロンの役割を果たしていた。だから、そこに一ヶ月前と同じように平重衡が従 兄弟の経正・敦盛兄弟と共に現れたとてなんら不思議ではない。彼ら三人は雨のように降り注ぐ社 交辞令の前に、完璧な愛想笑いを傘にして上手く切り抜けていた。

何しろ、三人とも系統は異なるが整った顔立ちである。とりわけ、柔らかな輝きを持つ銀色の髪と どんなアメジストも叶わないほど美しい菫色の瞳を持つ重衡の美貌は格別だ。平均よりも高い身長 とバランスの取れた体格、優美で無駄のない所作はどんなところに出たっていつでも女性をひきつ けて止まなかった。

経正と敦盛の二人は傍系に属してしまうが、重衡はその血筋を辿ればかつてのフランスの王につな がるという、社交界でも一握りの存在であった。フランス屈指の由緒ある名門に生まれた彼は海軍 兵士官学校に入り優秀な成績で卒業した後、悠然と世界を旅して周り、最近父親のコネクションが 働いて<ルカン>号の北極遠征隊に入った。出発は半年後。それまで重衡は長い休暇を得ていたの だ。

重衡が席の一番右端、中央に敦盛、その隣に経正が腰を下ろす様子を見ている人物がいた。新米支 配人のふたりである。


「今夜の一番星だね、彼は」

「ヒノエ、紛い無いなりにもお客様ですよ?」

「ほら、見ろよ。公爵夫人が振り返ってるぜ」


弁慶の諫言を綺麗に流してヒノエは今にも口笛を吹きそうな様子で彼らの観察を続ける。そんなこ とをしていれば視線を向けられている方も気付くもので、三人は優雅な仕草で支配人に礼をした。

彼らとは当然のごとく顔見知りであった。特にヒノエと敦盛は幼少期を同じ地方で過ごしたという こともあって今でも交流がある。藤原の家系とて平家と同等の由緒を誇る。名門に生まれたにも関 わらず、年若い叔父と甥がオペラ座支配人の椅子に座ったことは酔狂としか考えられないが、この 劇場の芸術分野に関して果たす役割を考慮すれば不釣合いと言い切ることは出来なかった。

支配人がかの<五番ボックス>にて今夜の舞台を観劇する様は平家の三人のごとく視線を集めてい たけれど、そんなものを気にする二人ではない。


「なぁ<怪人>はいつ来ると思う?」

「さぁ、どうでしょうね。案内人の話だといつも第一幕の途中から見るようですが」

「全く迷惑な話だぜ・・・・・・<怪人>のお陰でこっちは大損だってのに」

「同感ですね。けれど、この席を開け続けることのほうがよほど損害は大きくなってしまいますし 」


さすがに多くの衆目にさらされるとあってヒノエは支配人室で見せるような奔放な仕草や燕尾服を 着崩すことはしていなかったが、動きの端々に年相応な野放図さが見え隠れする。セットが崩れて しまうのもお構いなしに緋色の髪を掻き揚げて溜息をついた。隣で弁慶も似たような表情でボック ス席の中を見回している。

三週間前にこの席をとある子爵に売ったが、その日の公演が終わるや否や払い戻しを迫られた。い わく自分と妻しかいないのに他の誰かの咳払いが聞こえる、笑い声が聞こえた、から始まって、休 憩に席を立って戻ってきたとき座ろうとすると「ここは塞がっている」という声をはっきり聞いた というのだ。こんな不気味な席を売りつけるとは、と激昂する彼を何とか宥め、弁慶は謝罪のしる しとして売値に三割上乗せして払い戻すという措置を取った。

次のこの席の買主も同じような理由で払い戻しを迫り、三人目も払い戻しとなった。ついに二人は 実際に五番ボックスで観劇してみようということになった。<怪人>などいない。<五番ボックス >は呪われた席ではない。それを証明するため、二人は今夜ばかりはこの一等席から劇場を見下ろ していたのだ。

二人がこの席を売却すると言ったときも、今夜五番ボックスで公演を見ると言ったときも、黒いド レスの女は同じ反応を示した。


「お好きになさると好いわ。妾は何があっても知りませんけれども」


と。

誰も知らない所から舞台を見下ろす一つの影に気付かないまま、十六の幕が上がった。

政子の最後の舞台が始まる。




政子の友人たちが席に着き、あたりを見回してみても特にこれといって異変は感じられなかった。 何しろガラ・コンサート以来まともな役にありついていなかった小娘――もちろん望美のことだ― ―が政子を陥れようと恐ろしい陰謀を企んでいるとの手紙を受け取っていたのだ。何があっても助 ける、と約束した彼らはどんなに目を凝らしても戦うべき相手を見つけられなかった。

目に付くのは善良な中産階級の人間と、常連客だけ。有名なバリトン歌手が歌う頃には半分約束を 忘れていたくらい、平和そのものだった。唯一、いつもと異なる点はヒノエ・弁慶の両支配人が例 の<五番ボックス>から観劇していることだったが、それは騒ぎを起こそうとしていることに気付 きすばやく対処するためだろうと、何とも間抜けな解釈をしていた。

一方、二人は政子の友人たちの思惑なぞ知るわけも無く、肘掛にもたれて公演を見ている。一幕の 中間でやや上機嫌に弁慶はヒノエに囁いた。


「さて・・・・・・君には何か聞こえましたか?」

「いいや。でももうちょっと待ってみようぜ。そう急ぐことはないじゃん」

「ふふっ・・・・・・それもそうですね」


何事も無く第一幕は終わった。さしたる騒ぎも起きなかったし、政子の友人たちも何もしなかった。 第一幕で政子が歌う場面は無いからである。だが、五番ボックスの二人は顔を見合わせてにやりと 笑った。その表情はとてもよく似ていたけれど、傍目から自分たちを見たことがない彼らはそのこ とに気付いてはいない。


「<怪人>は遅刻してるみたいだぜ、弁慶」

「やっぱり怪異なんかあるわけないですね」


二人が満足げに頷きあったとき、やや乱暴に、それでも上演中だということに十分気を配ってボッ クスのドアが開いた。青ざめた舞台監督が整わない呼吸のままに二人に何かを告げようとした。


「あ・・・・・・あの!」

「なんでしょうか」


愉快な気分に水を注された不快感を隠しもせずに弁慶が冷ややかに聞き返す。


「望美の友人が政子をひどい目にあわせようとしている、との情報が入りまして・・・・・・」

「望美?望美って、あの望美のことかい?」


突拍子も無い舞台監督の言葉に、目を見開いてヒノエはさらに聞く。


「望美に友人がいたのか?」

「ええ、ほらあそこの・・・・・・・」


舞台監督が視線で示したのは開演前に目で挨拶を交わした重衡の姿があった。じっと舞台に見入っ ている様は不穏な動きをしようと言う気配すら感じられない。それに幼い頃から知っている人物だ けに、そんなことをしでかすとも思えなかった。念のために弁慶が聞き返しても舞台監督はこくこ くと頷くばかりである。


「何かあればすぐに対処しますよ。さ、君は舞台に戻って。監督が裏方から長い時間いなくなるの はあまり感心しませんね」


そういって追い払うのと同時に第二幕が終わった。

休憩時間になり政子の友人たちは定期会員専用口へと急いだ。手紙のとおり、彼らが戦うべき陰謀 を企んでいるやつらが動くならば次の第三幕だからだ。第三幕冒頭に政子がソロで歌う予定の曲が 組まれている。

対するヒノエと弁慶の両支配人はそんなことあるわけがないと思いながらも、一応 形式的に調べてみるかということで五番ボックスから離れた。もちろん、騒ぎを起こそうなどとい う証拠は出なかったけれども。

そして第三幕開演が迫り、二人が席に戻ってきたとき椅子の肘掛にボンボンが置いてあった。


「なんだ、これ」

「さぁ・・・・・・」


手にとっても何の変哲も無い高級ボンボンだ。まさか例の<怪人>がと口に出す前に幕が上がって しまい、壮麗な音楽の前にそれ以上考えることを止めた。

政子の登場に、会場中が割れんばかりの拍手で出迎える。政子はいつもよりも張りがあり艶めいた 声で歌い、喝采を浴びる。今の彼女はまさに怖いものが無かった。席にいる友人を信頼し、自分の 成功を疑わず、己の声に誇りを持ち、跪くファウストに向かって愛を歌う。


  あぁ、なんという静けさ、なんという幸福!

  言いようのない神秘!


ファウストとの二重奏が始まったとき、ヒノエはとある気配に思わず背後を振り返った。だがそこ には見事に磨かれた木製の扉があるだけでなんら変わりはない。気のせいだと言い聞かせて、自分 の肘掛に視線を落としたとき――


「アンタ、悪ふざけが好きだな」


いつの間にやら置かれたオペラグラスを乱暴に弁慶の膝に放りながらいう。


「これは・・・・・・僕じゃな」


不自然に止まった弁慶の言葉を不審に思ってヒノエが彼を見ると、彼もまた先ほど自分がしたよう に背後を振り返っている。どうかしたかと視線で聞くと、弁慶は小さく頭を振って言った。


「いいえ・・・・・・何か聞こえた気がしたのですが」


まさかという思いは歌が盛り上がるのと同じように深くなっていった。自分たち二人以外に誰かが このボックスにいる。姿はないけれど、感じる気配は濃度を増して、本当にもう一人いるかのよう だった。

舞台では政子がマルガレーテを演じ、そして歌っている。再び彼女のソロパートが巡ってきた。


  わたしは耳を澄ます・・・・・・!

  すると聞こえる、わたしの中で歌う声が

  孤独を歌う、澄み切った美しい声が


政子はきっと歌えない。

手紙に確かにそう書いてあった。聡明な二人の頭脳はあんな短い手紙ならば一言一句違えることな く暗記できる。けれど、実際に歌えなくなることなんか誰が予想できたのだろうか。

会場中が全員総立ちとなって凍りついたように、二人は固まった。そして互いにその理由を尋ねる ように顔を見合わせた。

政子は「澄み切った美しい声が」と歌いきった口のまま、瞳に狂気を宿らせて立ち上がった。そし て激しく頭を振り――綺麗に結い上げた髪が乱れるのも気にせず――今の「音」は自分の声じゃな いとでも言うかのように視線を彷徨わせる。

会場はしんと静まったままである。

あまりの出来事に一段下に作られたオーケストラボックスからの曲も止まってしまった。

動揺から立ち直ろうと、政子は懸命に喉を開いて今の一節を再び歌いだす。


  孤独を歌う・・・・・・澄み切った・・・・・・


夢でも幻でも幻聴でもなかった。恐ろしい音、歌手にとって一番忌むべき音、<ヒキガエル>が政 子の喉から発せられるのを、一人残らず聞いてしまった。こんな声で歌いたくない、これは現実じ ゃないと政子は両手を広げて叫び声をあげる。その叫び声ですら<ヒキガエル>が発していた。醜 く、いぼだらけで、ぬるりとした粘膜で汚らしい色の皮膚を覆った<ヒキガエル>は誰も知らない うちに政子の喉に住み着き、彼女の完璧な声帯を我が物としていたのだ。

オペラ座始まっての不祥事とも言えるこの出来事に、さしものヒノエと弁慶は顔の色を失った。力 なく椅子にへたり込み、震えだしそうな手で――政子がどれだけの歌手であったかはよく知ってい るので――額の汗を拭った。さっきから感じる気配が笑った。


「・・・・・・っ!」


すばやく反応した弁慶の耳元で<気配>は囁いた。


――まさかこのオペラ座で<ヒキガエル>を目にするとは、な・・・・・・


今度はヒノエの耳元で<気配>は言う。


――さぁ、希代の歌姫を出すがいい・・・・・・


二人が同時に舞台に視線を戻したとき、政子はついに気を失った。










というわけで政子退場
重衡はまだ一言しかしゃべってない
作中のファウストに関しては原作を参考にしています