The Phantom of the Opera  ――ヒキガエル 2――




きらびやかで贅沢な政子の楽屋からもバレリーナの合同控え室からも離れたところに望美の楽屋が ある。質素というわけでもないが余計な装飾は一切省かれ、音を吸収する物体が少ない分、声がよ く反響した。

藤色の髪を衣装に合わせて結い上げ、舞台上でもよく映える新緑の瞳が幾分か不安に揺れている。 胸元に忍ばせた古びたペンダントは彼女にやや不釣合いな大きさだったが、望美の一番の宝物でも 会った。

ヴァイオリニストだった父の遺品である。

望美はイギリスで生まれた。母親との記憶は少ないが、それでも音楽家の父と声楽を志していた母 との生活は満ち足りていた。母親が死んでから、父は望美を右手にヴァイオリンを左手に抱えて放 浪するようになった。


「・・・・・・」


方々で祭りがあれば飛んでいって乞われるままに曲を弾き、演奏代の代わりに一晩の宿を借りる。 ミサがあれば父親はあったこともない人のために泣きながらレクイエムを奏でたし、結婚式とあれ ばまるで自分が式を挙げているかのような笑顔で賛美歌を演奏する。

そうして夜になって借りた小屋や部屋で父は毎晩昔話や行ったこともない国の神話を聞かせてくれ た。


「<音楽の天使>・・・・・・」


父が語る話の中でも、望美はとりわけ<音楽の天使>にまつわる話が好きだった。完全に父親の創 作だとわかっていたけれど、優しく時には拗ねたり泣きじゃくる<音楽の天使>に思いを馳せなが ら眠りに落ちるとき、本当に幸せだった。

父親は臨終の際にこう言った。


『私が天国へ上ったら、必ずお前の元に<音楽の天使>を送るからね』


父親はフランスで息を引き取り、望美は天涯孤独の身となったが、父親の演奏が彼女を救う。父親 のミサに参列したとある夫人が以前彼の演奏を聞き、そしてその娘が残されたと聞いてオペラ座を 紹介してくれたのだ。望美が十二歳のときだった。

それ以来、寄宿生としてこのパリに起居の空間を得て音楽漬けの日々が今でも続いている。


「どうして来てくれないの・・・・・・怒ってるから?」


祈るようにペンダントを両手で包み込む。もうすぐ朔が迎えに来てくれるだろう。けれど、それま でにもう一度<音楽の天使>の声を聞きたかった。今朝まであんなに熱心にレッスンを付けてくれ たのに。

元はといえば<音楽の天使>が嫉妬深いことを失念していた自分が悪いのだけれども―― 今の望美に必要なのは景気付けのラムでもリキュールでも、誰の励ましでもなく、たった一言だっ た。

そう、<音楽の天使>のあの低くゆっくりとしたテンポで話すあの声で「大丈夫だ」といってくれ ればそれだけでいい。


「もう、来てくれないの・・・・・・?」


鼻の奥がぎゅっと締まって途端に口内一杯にすっぱい感覚が広がる。けれど、望美は懸命に涙をこ らえた。ここで泣いてしまってはせっかくの舞台化粧が落ちてしまう。今朝のレッスンで、ガラ・ コンサートのときに再会した重衡の話をしたのがいけなかった。

<音楽の天使>は黙り込んでしまい、呼びかけても一向に返事はおろか、レッスンのときに感じる 気配も何も無くなってしまっていた。それはまるで身包み剥がされてスラムに放り出されるような 恐怖で、自分の体から音楽の部分だけがすっかり抜け落ちてしまったような喪失感。天使がいなく なってしまった空間からどうやって自分の寄宿に戻ったか覚えてすらいない。


「もう誰の話もしないから・・・・・・お願い、出てきて・・・・・・」


ペンダントが手のひらに食い込む。こんな痛みは<音楽の天使>を失ってしまったかもしれないこ とに比べればとてもちっぽけな痛みだ。


――そんなに握っては・・・・・・お前の手が傷つく

「・・・・・・っ!」


若い女の楽屋にしては殺風景な部屋に低い声が響く。じっと椅子に座っていた望美は跳ね上がるよ うにして周囲を見渡すが、特にこれといった変化は無い。ただ、レッスンで感じるあの気配があっ た。


――何をそんなに驚いている?

「もう、もう来てくれないのかと・・・・・・!行ってしまったのかと!」

――お前が音楽を追い求める限り、いつもそばにいると言ったはずだが・・・・・・?


紛れもない<音楽の天使>の声に望美はうろうろと部屋中を歩き回って声を張り上げる。傍から見 れば気が触れてしまったようにも見えるが、永遠とも思える時間を過ごした彼女は歓喜で頬をバラ 色に染めていた。絶望のふちから希望の光を見た人間がそうなるように、望美はうろうろと動き回 る脚を止めない。


「でも今朝はあたしを置いて行ってしまったじゃないの」

――お前の・・・・・・音楽に対する姿勢に疑問を感じたから、な

「どういうこと?」

――芸術を極めたいと願うのならば、あらゆるものを切り捨てる覚悟が必要、だが・・・・・・お 前はどうかな

「覚悟を決めなければ貴方はまた行ってしまう?あたしの前に現れてはくれない?」


声はどこからとも無く響いて、部屋中に満ちていく。骨の髄まで染み入るそれは、望美を支配する 声。


――お前に必要なのは・・・・・・音楽だけ、だ。そしてその音楽を与えられるのは

「貴方だけよ、わかってるわ」


望美は天界から垂らされた細い糸にすがる思いで言葉を必死に紡ぐ。


「誓うわ。音楽以外求めない。貴方の導くままにあたしは歩いていく」


その誓いを口にしても<音楽の天使>から反応は返ってこなかった。不安に揺れていた瞳からつい に透明な雫が落ちて衣装に染みを作る。あぁ、やはり気まぐれに昔の友人の話などするのではなか った。ただ、自分のことを知ってほしい、昔の友人に会えたことがどれだけ嬉しかったか知って欲 しい、それだけだったのに。


――・・・・・・<ファウスト>のマルガレーテは歌える、だろう・・・・・?

「え、ええ。歌えるわ」

――では今一度チャンスをやろう・・・・・今夜の舞台で歌え

「でも、それは」

――政子は今夜の舞台に立てない、さ


はっきりと顔を見たわけでもないのに、声が笑ったのが分かった。言葉の真意を確かめる前に声は 行ってしまう。ただ、今朝のように唐突に消えてしまった印象ではなく、望美の返答に十分に満足 して行ったということが分かった。声はいつも何の前触れもなく現れ、そして行ってしまうとぱち んと目の前で猫騙しを喰らったような錯覚に囚われる。

声と会話をしている間、自分の周りを流れるあらゆるものの速さが緩むのが分かる。だから、朔が 楽屋に来てくれたとき、望美は夢を見ているような顔をしていてとても不思議がられた。


「望美?珍しいわね、貴方がそんなに緊張するだなんて」

「これでもいつも緊張してますよ、朔。さぁ、行きましょ」

「あら、それは知らなかったわ。三歩目のステップをトチらないでくれるとありがたいわね」


二人は肩を並べて舞台へと進んでゆく。<音楽の天使>が望美のために用意した舞台へ。










やっとのんがしゃべった……
長かったよぉ