The Phantom of the Opera  ――ヒキガエル 1――




ここのところ、プリマドンナの調子がよくない。

それは目の上の腫れ物のように就任したばかりの支配人二人を悩ませている出来事であった。喉の 調子がよくないというのなら舞台への出演を控え、自宅に毎日花束でも贈ってご機嫌取りしていれ ばいい。だが、不調の原因は彼女の喉ではなかった。

ここに、<怪人>が絡んでくるのだから二人のフラストレーションは溜まる一方だ。


「なんだってあの老人は!」

「ヒノエ、声が大きいですよ。誰が部屋の外を通るか分からないんですから」


弁慶は叔父にふさわしい口調で甥をたしなめる。手首のカフス・ボタンを磨きながら、机に置かれ た一通の封筒を見やるが、それに触れようとはしない。つい先ほど中身を確認したばかりだ。 そして、その内容がまたヒノエの神経を逆撫ですることとなった。

どこにでも売ってありそうな封筒だったが、封をしてある蝋がこれまた悪趣味極まりなかった。6 を三つ重ねたデザインのそれは悪魔を表しており、『新支配人殿』と書かれた文字は赤いイン クの流麗な文字――いつかこの部屋で前任の支配人が見せた職務規定の書類に書かれてあったもの と同じ。

差出人は<怪人>である。

きちんとしつこいくらいに戸締りを確認したこの部屋に、どうやって手紙を置いたのかは後で元支 配人に聞けばいい。ユーモアにしてはいささか度が過ぎているように思えるが。


「全く、暇を持て余した老人ってのは困ったもんだね」

「まぁ・・・・・・悪戯にしては質が悪すぎますね。僕たちだけならばともかく、あの政子にまで 送りつけるなんて」

「あぁ、俺たちだけなら笑って流せるんだけどな、あの女王様のご機嫌取るコッチの身になって欲 しいね」

「彼女の様子はどうです?」


相変わらずさ、とヒノエは行儀悪く自分の机の上に長い足を放り出す。きっちりと着込んだ弁慶と は対照的に、タイを解いて首にかけたままシャツのボタンを開けて胸元をさらしている様は 、決して芸術を管理するものの格好とは思えない。

だが、彼は生まれた環境が幸いしてか、そこいらの大学教授と何時間でもやりあえる教養の深さを 持つ人間でもあった。


『新支配人殿
 オペラ座には慣れただろうか?
 あなた方の芸術に対する造詣の深さ、聴衆への気遣いはまさに賞賛に値すると言っていい だろう――今は。
 だが、若く才能あるバレリーナやオペラ歌手への処遇は眉をひそめざるを得ない。どういうこと か一度ゆっくり所見をお伺いしたいものだが今は止めておこう。きっと、様々な雑務になれるこ とで精一杯だろうから。
 ところで五番ボックスが最近他の人に貸し出されていることと職務規定にある給料の支払いが 滞っていることをお尋ねしたい。
 前支配人は善良なご老人だった。
 君たちもそうあるようにと願いたいものだが。詳しい話は五番ボックスの案内人に聞くといい。
追伸:
 今晩のマルガレーテは望美にするといい。政子はきっと歌えない
 五番ボックスを必ず空けておくように』


手紙を今一度読み終えたヒノエの体重を椅子が受け止めてぎしりと軋みを上げ、首をのけぞらせて 空を見上げれば快晴。パリは、今日も平和だった。




政子は自室の中をせわしなく行ったり来たりを繰り返している。この気性の激しい女主に下手に 関わってとばっちりを喰らうのはごめんだとも言うように、使用人たちはこぞって音を潜めて屋 敷の中で活動していた。

イライラと爪をかんで眉間に皺を寄せている様はかのマリー・アントワネットが月のお小遣いを減 らされたときのように子供っぽく、同時に危険な香りをはらんでいるものだった。

オペラ座が誇るプリマドンナ。

この称号の前にはどんな人間も膝をつき我先にと白魚の手の甲にキスをしたがる。楽屋に下がれ ば一度会いたいという手紙や贈り物は絶えないし、ソロでアリアを歌い切れば観衆は全員総立ち となってブラヴォーの声を惜しまない。


「・・・・・・っ!」


そう、彼女は今、オペラ界の頂点に君臨しているといっても過言ではなかった。

張りのある高音は安定してブレを知らず、逆に低音は腹部によく響く。政子は歌を歌うという点に おいて完璧な楽器だった。どの音もぴたりと歌いきり、歌詞だって情感をたっぷりこめて観客にお 届けする自信――それも高慢なまでの――がある。


「・・・・・・何なのよ!これはっ!」


その自分に、無礼極まりない手紙が此処のところ毎日届く。

公演のどの場面のどの歌でどう音を外したのか、あの解釈は違う、まるでフライパンをこすってい るような声だ、なんだと指摘しているのか非難しているかさっぱり分からない手紙が毎日届く。そ れも、赤いインクで流麗な文字は毎回同じで、封をしている蝋の形は不吉の一言で十分だ。


『今日の公演は辞退されるがいい。それが貴方のため。
 大丈夫、代役の心配は要らない。望美がきっと貴方以上に<ファウスト>を歌うだろう』


今朝一番の便で届いた手紙に、政子の頭は今にも沸騰しそうなくらい血が上った。


「望美・・・・・・?望美ですって!?あんな小娘にあたくしの代わりが出来るものですか!」


政子は強力なパトロンと実力で役者内部の実権を握っていた。最近、それを遺憾なく発揮して自分 よりの若手の望美を排斥することに成功していたのだ。支配人は自分の言いなりだと勘違いしてい る彼女はかなり陰惨なやり方で望美の台頭を押さえ込んでいる。

まるで追われるものが恐怖に駆られて防波堤を築くような稚拙なやり方ではあったが、プライドが 高い彼女が気付くわけもなく、配役を自由に決めることが出来る今、手紙の警告でさえ嘲り笑って 憚らなかった。

あぁ、確かに政子は完璧な楽器だったけれど、彼女の中に魂はなかった。

ふと思いついたようにウェーブのかかった髪を掻き揚げて使用人を呼びつける。


「オペラ座へ参りますわ・・・・・・仕度を手伝って」


この晩、彼女の名声は地に落ちて塵芥となることも知らず、政子は贅の限りを尽くして己を着飾っ た。

太陽が燃え尽きる前、夕暮れに一段と強い閃光を残してアルプスの向こうに消えるのと同じだ。




政子が舞台に立つというので、新米支配人の二人は内心相当焦った。もちろん、「貴方がステージ に立てば今夜の成功は今から約束されたようなものですよ」「クィーンの歌声が今夜も聴けるなん てとても幸せだね」という顔は崩していない。何しろ、此処のところ彼女が不調を訴えていたお陰 で司法当局からの観覧が激減し、俗に言う『太い客』の一部が遠ざかっていたのだ。

出来ればおべっかでも何でも使って政子に歌ってもらい、以前の調子を取り戻して欲しいというの が実際のところ。ただ気にかかるのはあの<手紙>のこと――政子のところにも届いている――だ が、今夜の舞台を前にしては瑣末な事情と言うものだ。

ヒノエは政子の楽屋で綺麗な愛想笑いを浮かべてコルセットを締める手伝いをしていた。

傍らでは弁慶が小道具である羽つき扇子を入念に点検している振りをしながら言う。


「喉の調子はいかがですか?」

「絶好調よ!聞くまでもありませんわ」


政子の喉には自宅からずっと引きずっている怒りが興奮となって体中を駆け巡り、彼女の喉に今ま で経験したことがないくらいの潤いと滑らかさをもたらしていた。幼い頃、故郷のスペインで歌っ ていたときのようなみずみずしい声が今夜ならば出せると信じて疑わなかった。

ガラ・コンサート以来、まともな役に望美が付いていないことを批判する声があちらこちらで噴出 していることは先刻承知だ。けれど、今夜の舞台でそんな声は一掃してみせる。オペラ座に君臨す る女王は自分だということを知らしめてやる。

政子という楽器に、全く別の魂が降り立った瞬間だった。










政子が予想以上に性悪になってしまった
オペラの楽曲で間違ってたらスイマセン