The Phantom of the Opera  ――支配人の交代 2――




「はあぁ?」

「ちょ、ちょっとお待ちください」


それを見た二人の反応は一様に似通ったものだった。老人は疲れきった溜息を漏らす。 ふいとついたその溜息は年季が入っているというより道端で行くあてのない男が漏らすそれに 似ており、ヒノエはからかいの言葉を口にすることは叶わなかった。


「本当のことですよ、弁慶殿、ヒノエ殿」

「<怪人>って、そんなものを信じろというのですか?」

「信じるも何も、存在しているのですから」

「てっきり迷信か何かと」


いいえと老人は首を振る。本当のことだと瞳で訴えても彼ら二人はどこか小ばかにした視線を寄越 すばかりでまともに取り合ってないことを肌で感じ取った。

それもそのはずである。オペラ座に身を置いてまだ数時間の二人に今までの怪異や噂――十人十色 ではあるが――を言って聞かせても鼻で笑われても仕方ない。しかし、長年このオペラ座に身を 捧げてきた彼にとってそれはまさしく悪魔からの命令でもあり、到底逆らえるものではなかった。

手元の書類には支配人職務規定が事細かに記載されており、芸術を管理する者としての心構えから 緊急時に対するマニュアル、果ては職務解任の条項まで書かれてあった。

『オペラ座支配人は同劇場の舞台がフランス最高のものにふさわしい壮麗さを備えた舞台にする責 任を負う』という文章から始まる規約は次のような一文で終わる――『この権限は以下の場合に当 てはまったとき剥奪され、その地位から解任される』

これが最後の条文、つまり第八十九条だったが、支配人が持っている書類とヒノエが手にしている 書類は幾分かの違いがあった。


「いいですか、此処です。ここを見て」


老人は鼻眼鏡をかけなおしながら二人に漏れなく見えるように紙切れを大げさに見せる。

節くれて皺だらけの指が指したのは赤いインクで流麗な文字が書かれた一文であった。


『支配人が<オペラ座の怪人>に対する給料月二万フラン――年額にして二十四万フラン――の支 払いを滞らせたとき』


「はっ!怪人は給料をせがむのですか?それも二万フランとは・・・・・・ずいぶんとがめつい <怪人>ですね」


案の定鼻で笑ったヒノエの瞳がきゅうとしまって老人を見る。それを、悲痛とも悲壮とも取れない 表情で老人はまた首を振った。自分の孫だといっても過言ではない年の離れた彼が馬鹿にするのも 分からないでもない。

この自分だって初めは疑ってかかったし、何回か痛い目にあってようやく怪人を<怪人>として 認識したのだ。


「給料をせがむゴーストなんて初めてお聞きいたしました!これがご冗談だとしたらかなりのユー モアですね」

「そうですね・・・・・・僕にも信じられませんよ」


申し訳ありません、と弁慶は付け加えた。元支配人は予期できた反応と自身に言い聞かせ、職務 規定の書かれた書類のページをめくる。お願いだから信じてくれと言いたいが言えない。 そのジレンマが彼の指にアルコールが切れた浮浪者のような震えをもたらし、それがヒノエと弁慶 の嘲りにつながってしまう。

めくったページには同じ筆跡、同じインクでこう書かれてあった。


『全公演を通じて、二階席五番ボックスは<オペラ座の怪人>用に常に空けておくこと』


その条項はどのボックスが何曜日は芸術大臣、どこぞの伯爵、警視総監――政子のパトロンでもあ る男――などなど、政府の要人が使用するかという規定と並べて書かれていた。


「五番ボックス?あの席を常に空けておけと言うのですか?」


さすがに弁慶は眉をひそめて聞き返した。残念ながら、という老人の呟きは白々しいヒノエの嘲笑 の前に力をなくし、じっと押し黙るほかなかった。

一方、二人といえばこの見た目はしっかりしてかくしゃくとした老人の振る舞いにどう解釈する か頭の半分で考えていた。そうして、聡いヒノエが導き出した結論は、これは前任者から後任の自 分たちに向けた悪戯だろうということだった。

観客席として一級の席である五番ボックスを空けろという一節はかなり経済的に質が悪いユーモア だが、そうと考えねば落ち着きが悪い。


「また、ずいぶんな要求ですねぇ」

「えぇ・・・・・・常にあの席を確保しておくのは至難の業でした」


しおらしい口調に変わったヒノエをどう捕らえたか、幾分か明るい表情になった老人は苦労を話 してはばからなかった。老人の話は得てして長いものである。辟易してきた顔を隠しきれなくなっ たころ、丁度タイミングよくドアをノックする音が話を遮った。


「誰かね?」

「支配人どの、お呼びになりまして?」

「ああ、君か、入りなさい」


ドアの向こうで女の声がし、老人は確かな足取りでドアを開いた。

扉が開いた先にいたのは、真っ黒なドレスを身にまとった女だった。勝気な双眸が印象的で、カ ラスの濡れ羽髪とはこういう髪のことを言うのだと思わず納得してしまう、見事な黒髪の女である。 高く結った髪は腰先まで届き、左耳の下に差した百合の花と肌の色だけが白かった。赤い唇は紅 を刷いた様子はなく、美人だが得体の知れなさは容易に近付き難い。


「丁度良かった。紹介しよう、こちらが新しい支配人の二人だ」

「初めまして」


色気もなにもない、乾燥しきった挨拶を二人に投げかけ、それに応えてヒノエと弁慶は彼女の手の 甲にキスを落とす。髪の色と同じ、黒い瞳が笑っている。


「貴方は、もしかして・・・・・・<黒鳥>を演じた・・・・・・?」

「嫌ですわ、武蔵坊様、昔話は女に禁物でしてよ」

「お気づきとは御目が高いですな、弁慶殿。確かに彼女は<黒鳥>を演じたことがありますよ」

「ええ、兄に連れられてこの劇場に来たときに拝見いたしました・・・・・・驚いたな、引退され たものと」


弁慶がそれ以上言い募ろうとするのを黒いドレスの女はやんわりと受け流し、自分に関する話題を 終わらせた。呼びつけられた理由を目顔で元支配人に聞き、対する老人は咳払いをして再び赤い インクを指差した。その小さな仕草だけで女はあぁと納得し、ついで流れるような仕草で弁慶と ヒノエを捕らえた。


「<怪人>についての説明を?」

「おや、貴方まで怪人をご存知とは」


片眉をひょいと器用に上げてヒノエが茶々を入れる。苦笑した弁慶は窘めの言葉を発しようとし て口を開くも――


「<怪人>を五番ボックスに案内するのは妾の役目ですので」


という一言の前に失敗に終わった。

振り返って見れば、女は変わらず笑っている。ゆっくりと老人が隣で頷いた。新しい支配人たち 二人は異邦人を見るような目つきで凝視してしまう。四つの瞳の中に狂気の色はない。それが返っ て不気味でもあったが、やはりこれはオペラ座ぐるみでの悪戯だろうと思い直す。

パリ・コミューンの混乱が落ち着きをみせ、ありとあらゆる分野の芸術を凝縮したこの劇場――館 内の装飾に施された細かな彫刻、絵画としても通じる書き割り、神話を模ったブロンズ像――では どんなことが起きても不思議ではない。

ただし、それをユーモアと人のなせる業とあらかじめ知って笑いの種にする分には。

今、弁慶とヒノエの目の前にいる男と女は<怪人>を実際に存在するものとして受け止めている。 対する二人はそうでない。これが、決定的な壁となり理解不能の原因でもあった。


「信じられないのも分かりますわ、新しい支配人様方?」


哀れむような視線を二人はずっと忘れられなかった。




その夜、観客の大喝采を受けた一人の歌手がいた。望美である。

彼女が歌った<ジュリエット>は劇場中の総ての人間の脳髄を蕩かすほど甘美で切なく、女性はも とより男性まで涙を惜しまずに流した。これを天使の歌声と称するならば今まで耳にしていた歌声 がおしなべて俗に落ちる。

清廉な彼女が歌う愛の一節は誰しもが一度は経験した恋の苦しさや甘さを感情豊かに、そして誇ら しく歌い上げ、優美な仕草で一礼をして舞台から去っても拍手は鳴り止まなかった。まさしく劇場 が一体となって新たなプリマドンナの誕生を歓迎した瞬間でもあった。

一際強く手を打ち、ブラヴォーの声を張り上げていたのは平重衡だった。

銀色の髪を丁寧にセットしたことも忘れて優しい視線を役者が去った舞台に投げかける。藤色の髪、 ライトにも負けない新緑の瞳、華奢で伸びやかな手足。あれは、夏のセピア色の思い出に登場する 可愛らしい少女に間違いがないと確信していた。


「重衡殿!?」


共にガラ・コンサートを見に来ていた経正の驚きの声が上がる。彼の弟である敦盛の横を軽やかに すり抜け、階段も駆け下りるというよりは背中に羽が生えて飛んでいるかのように足が急いでいる。 高鳴る鼓動はいったい何がもたらしているのだろう。そんなことを考える間もなくごった返すバレ リーナ合同控え室の前を通りすぎ、成功をどす黒く妬む政子の楽屋の前を颯爽と走り抜けて望美の 楽屋へとたどり着く。

背中を追う経正は一体いつからこんなにこの舞台裏に詳しくなったのだろうと首を捻る。何度か誘 ってものらりくらりとかわして一人馬車で帰路に着いていたはずだ。


「望美・・・・・・さん?」


そんな経正の思惑を全く知らない重衡は望美に人目会いたいという男の波を掻き分けてドアを叩く。 あぁ、あの少女は自分を覚えているだろうか。夏の日差しの中、海に落ちたスカーフを取りに行っ た自分のことを。彼女の父親が語る物語を肩を並べてじっと聞き入り、空想の世界で遊んだ日々は 、彼の中でかけがえの無い珠玉の思い出となって今もこの胸の中にある。

ノックをしても一向に返事はない。よほど此処で自分の名を名乗ってしまおうかとも思った。けれ ど、再び手をかざしたとき、薄く扉が開いた。


「あ・・・・・・」


後で振り返るに、あのとき彼女ははっきりと自分のことを認識し、記憶の中から『平重衡』という 存在を引き出していたはずだとわかる。けれど、望美が取った行動は重衡が待ち望んだものとは全 く真逆であった。

薄暗闇が見せた彼女の頬はそれとわかるくらいに青ざめ、大きな瞳に涙を浮かべてきゅっと形のい い唇を引き結び、たった一言、重衡に向けて拒絶の言葉を口にした。

閉ざされたドアをもう一度叩く気力は一気に吹き飛び、ようやく追いついた経正が彼の肩に手を置 くまで、重衡はただ立ち尽くすだけだった。











やっと前振りが終わった・・・・・・orz
主役が一言もしゃべってなくてすいません