The Phantom of the Opera  ――支配人の交代 1――




その日は前任の支配人二人が引退するというので、オペラ座では特別公演が行われていた。 招待客は各界を彩る要人ばかりで、観客席の大半はきらびやかなドレスとオートクチュールの 燕尾服で埋められた。

幕はあと少しで上がるというころあい、バレエの群舞を務める一人が合同控え室で最終チェックを 行っているときだった。公演前の彼女たちは日々の出来事やこの間の舞台から見えた貴公子の噂話 に花を咲かせ、ラムを少しだけ飲んだりチュチュの糸くずを取ったりして出番を待つ。

その日も特別ガラ・コンサートだとはいえ彼女たちのそんな日常は変わるものではなく、控え室は やかましい声と化粧品の匂いで充満していた。舞台に立つときはいつだって緊張する。緊張がもた らす高揚感は普段よりも口数を増やし顔色まで紅潮させる。

あのときの貴方ってば、今日はどんなお客様がと口々に言うさまはさながら小鳥がぴぃぴぃと 鳴き合っているようでもあった。


「か、怪人よ!」


そう飛び込んできたのは二階級団員の一人だった。その悲痛な一言――叫び声にも似た――は部屋 中余すことなく冷や水を浴びせたかのようにバレリーナ達を静まらせ、一様にすくみあがらせた。


「待って、ねぇ、貴方、怪人ですって?」

「ええ、怪人が出たのよ!」


すばやく立ち上がり、今までとは百八十度異なるざわめきを立てようとした女達をその一歩手前で 抑えたのは朔だった。

彼女はまるで今まさに舞台上でソロを踊ろうとするときのように背筋を伸ばして立ちあがり、 衣装の上に羽織ったローブを細い手で軽く握り締めて言い放つ。


「落ち着きなさい!」


彼女の声は楽屋中の壁に届き反射しそしてその場の全員の耳に届いた。顔はこわばったままだった が、颯爽と歩き飛び込んできた後輩を楽屋の外に連れ出すという 賢明な判断を下す余地はまだある。

日々の厳しい稽古をともにした彼女を連れ出し、様々な役割を持つ人々の間を抜け――たどり着い たのは楽屋から離れた、奥まったところにある、使われていない控え室だった。


「怪人が出たって、どういうことなの?」


囁く口調は普段の彼女の柔和なものとかけ離れたもので、問い詰める視線は厳しく強い。


「怪人の仕業としか思えないのよ!朔・・・・・・聞いて!」

「ええ、聞くわ、聞くから話して頂戴」


朔は今にも泣き出しそうな彼女の肩を両手で掴み、深呼吸を促した。初めて舞台を踏む後輩 があがってどうしようもないときにしてやるのと同じだった。朔はこのオペラ座の寄宿生の一人 で、数字を覚えるより先にステップを学び、読み書きよりも先にバレエの譜面を暗譜することを学 んだ。兄が一人いるが、彼は大学で法律の研究をしている。


「ねぇ、この楽屋の前の廊下、突き当たりでしょう?大体、この区域を過ぎれば書き割りとか ・・・・・・大道具を下げる空間があるだけだし・・・・・・でも見たのよ!」

「見たって何を?」

「だから怪人よ!」

「待って、待って」


興奮して顔色をなくしかけている彼女をなだめながらも額に手を当て、じっと何かを考え込むよ うにしていた。待っての一言は確実に目の前のバレリーナに向かって言ったはずなのに、 朔自身に向けたものでもあった。


「どうしてそれが<怪人>だと分かったの?」

「だってね、朔、いい?黒いマントに・・・・・・あぁ、あの仮面!仮面をつけていたの!」

「仮面?でもそれは・・・・・・支配人を驚かせるピエロかも知れないし」

「ピエロは壁の中に消えないわ!」


彼女の話をまとめるとこうだった。

群舞の中にも訊ねてくる男はいる。出演前に短い逢瀬をするのは別段特別なことではなく―― 今日も楽屋の前で待ち合わせをしていたのだという。約束をした男は遅れ、彼女は待ちきれずに 廊下をどんどん歩いていった。すると、見慣れないシルエットを見たのだといった。

マントを着た仮面の男だった。仮面はともかくとして、マントを着用するのは特に不思議なこと ではない。シルクハットを被ったそのマントの男は、この楽屋の前を通りすぎてそのまま真っ直ぐ 壁の中へと消えて行った、と興奮した口調のまま言った。


「・・・・・・ガラ・コンサートの日なのに・・・・・・」


悲痛な口調は決して大げさなものではない。ここ最近起きた事件のほとんどに<怪人>が絡んでい ると思われ、いつだったか、五番ボックスの案内人は「支配人は<怪人>のプレッシャーに耐えら れないのよ」と言っていたことを思い出した。

きらびやかで華やかな舞台の幕開けを前に、おかしなことが起きなければいいけれど。朔は小さく 溜息をついた。

まずは、まずは、すぐに楽屋に戻り、浮き足立ったバレリーナを落ち着かせることだ。今日歌う 予定になっている望美のところへはいけそうもないわと軽く頭を振ってその場を立ち去った。




怪人にまつわる噂は絶えることがない。噂を毎日話して生きているようなバレリーナをはじめ、 口さがない年よりたちは言葉の限りを尽くして<怪人>のことを言い合い、そうして顔を見合 わせて肩を震わせる。

いわく、誰もいない楽屋から声が聞こえたといい、そのすぐ横では誰もいないのに<オルガン装置> を操作する音が聞こえたという。さらには観客席で見たどこそこの誰々が実は怪人の招待だという 始末だ。

怪人の存在はまるで不吉の代名詞のようにオペラ座の関係者の中にあった。

だから、今夜のガラ・コンサートが何事もなく無事に終わり十六枚の幕が降りきった後、お目当 ての歌手やバレリーナの下にパトロンや男が通ってくる。新たに支配人となった弁慶とヒノエは人 の間を縫うようにして各楽屋に顔を出していた。

むせ返るほどの人いきれの中彼ら二人は前任の支配人の後ろをぴたりとついて周り、主要な人間と 二言三言交わしては次の枝に止まる鳥のようにオペラ座の裏を歩いていった。

黒い燕尾服姿の二人はすれ違う女を振り向かせるだけの美麗さを持ち、かと言って気軽に話しかけ られるような安っぽい空気は纏っていない。


「此処から先はプリマドンナの専用の空間となっておりましてな」


年老いた元支配人は背後をやや気にしながら説明を加える。


「今夜の舞台に立てなかった、政子の楽屋もあります」


しっかりと細部にまで彫刻が施されたドアノブに手をかけ、扉を開くと、むせ返るほどのトワレ に包まれる。壁一面の姿鏡に床を埋め尽くすほどの花束、豪華の限りを尽くした政子の部屋は、 フランスが誇るプリマドンナの楽屋にふさわしく、そして彼女自身はこの空間のどの宝石よりも 毅然としていた。

鏡越しに男たちの姿を認めた政子が優雅な仕草で立ち上がる。


「今晩は、支配人様」


十分にきらびやかだった舞台衣装からそれ以上にきらきらしい自前のドレスに着替えた政子が、 すいとドレスの裾を持って腰を折る。茶目っ気たっぷりの瞳を緩く細くして手を差し出せば、 支配人はその手を恭しくとり、まるでクィーンにするかのようなキスをする。


「今夜の舞台にはぜひとも立って頂きたかった。」

「ええ、長年務めてらっしゃった支配人様をお送りするための舞台ですもの。あたくし、今夜ほど 喉を恨んだ日は無くてよ」

「お気持ちだけで十分ですぞ。貴方に無理をさせたと知れたらフランス中の貴方のファンから焼き 討ちにされてしまう」


政子は昼間の稽古で喉の調子が悪く、どうしても出せない音があった。完璧を求める彼女はこんな コンディションで舞台に立つことは観客へ無礼に当たると言い張り、突然の降板に至った。歌を追 求する姿勢と我侭は常に紙一重である。急遽出来た穴を埋めるため、老人は最後の仕事と割り切っ て東西奔走した。


「まぁ・・・・・・お上手ですこと。あら、そちらは?」


緩くウェーブのかかった髪をかきあげながら男の肩を通り越して二人を見る。

弁慶は琥珀色の瞳を少し笑む形にして頭を軽く下げ、ヒノエは無駄のない所作で政子の手にキスを してからウィンクして見せた。まだまだ年若い二人は見目もよく、血筋も各界で名だたる一族に通 じる。顔が広いというわけではないが知る人ぞ知る藤原の秘蔵っ子であった。


「ああ、紹介が遅れましたな。こちらは私の後任を務めます――」

「ヒノエとお呼びください、我らがプリマドンナ?」

「僕は武蔵坊弁慶と申します・・・・・・至らぬ点がありましたらなんなりと」


それぞれがそれぞれの好きなように、前支配人の紹介を綺麗さっぱり無視して自己紹介をすると、 政子は満足げにころころと笑った。


「いいえ・・・・・・こちらこそよろしくお願いいたしますわ」

「以前、舞台を拝見させていただきました・・・・・・あのアリア、<夜の女王>は感涙ものですね」

「どうもありがとう」

「ブレのない高音はまさしく女王の名にふさわしい。美しい貴方に女王という褒め言葉はありきた りでしょうが・・・・・・」

「まぁ、そんなことはなくてよ?」


口のうまい二人はここぞとばかりに政子を誉めそやした。なぜならば、ここの部屋に来る直前の前 支配人に言われたこと――政子は気性が激しくとても扱いにくい――を受け止め、 これからの雑務を出来るだけ少なくしておこうという腹つもりがあったからだ。

第一印象を良くしておけば面倒ごとは格段に減る。たとえ、相手が時期を過ぎた果実であろうとも そんなことはお構いなしだ。


「さて、我々はこれで・・・・・・まだいくつか回らねばならない箇所がありましてな」

「ええ、あたくしもこれにて帰りますわ。外に人を待たせてありますの」

「左様ですか。帰り道、お気をつけください」

「ふふ、ご心配は無用でしてよ。では、ごきげんよう」


終始にこやかだった政子に心の中でほっと一息ついた老人は後任の二人を伴って部屋を出る。彼女 の代役がオペラ座始まって以来の大喝采を受けたことを、そう気にしている様子でもなかったから だ。そうして耳打ちした内容は、ヒノエと弁慶の二人にやはりご機嫌とりをしておいてよかったと 思わせるものであった。


「彼女のパトロンはかの『頼朝様』でして」


二人は顔を見合わせて苦笑し、そうして促されるまま支配人室へと足を運んだ。老人はやや疲れた 足取りで二人の先頭に立ち、交わされる挨拶をそよ風のように流し人並みを掻き分けてドアの前に 立つ。幾分か、その表情が暗いのは照明のせいかそれとも寄る年波のせいか。


「さて・・・・・・パーティの前に、お二人に職務規定についてお話せねばなりませんな」










カルロッタ=政子
新しい支配人二人=天地朱雀
メグ・ジリー=朔ちゃん