この極上の囁きを忘れる方法があるのだとすれば

耳をふさいでも体のどこかで燻る火種を消す方法があるのだとすれば

――あったとしても、望まない




The Phantom of the Opera ――悪魔の囁き――




どうしようもない。

惹きつけられて逃げること出来ず、魅せられて逸らすこと叶わず、そうして落とされる。理由も動 機も、全てが胡散臭くて滑稽なものになる。初めからそんなものは必要ないとわかっていても、恐 れる心は言い訳の逃げ場を探し出して、安全で楽な方へと勝手に向かっていく。

逃げられるわけもないのに。

忘れられるわけもないのに。

愚かなのは、一体誰なのだろうか。


「知盛・・・・・・どうして」


望美は言葉を切った。何と続けるつもりだったのか、一度はっと我に返ってしまってはもう分から ない。確かに手の中にあった砂を地面に取りこぼしてしまったのと同様、数多の単語の中に紛れて 探し出せるわけもない。

ただ、もうこんなことは止めて欲しいと思ったのは確かだ。

自分を試すような、それでいて彼自身を傷つけるような、こんな真似はもう終わりにしたかった―― して欲しくなかった。

彼がどこで誰に育てられたかも分からない。どんな時間をどんな風に過ごしてきたかも想像できな い。どうしてその十字架を顔に負っているのかすら聞けない。けれど、何もかもがどうでもいいこ とだ。全ては瑣末なこと、風が木々の間をすり抜けるがごとく、二人の間にはそんなことは何も関 係しない。


「その人を、重衡さんを・・・・・・離して。貴方のために」

「俺のため・・・・・・か?」

「そう、だから、その人を離して」


一つ一つをかみ締めるように、望美は言った。


「逃げないと言ったわ」


逃げられるものでもなかった。

かつて、ヴァイオリンを片手にあちらこちら歩いて渡った父が出会えなかったデーモン――魔物は 、芸術で構成されたこの建物に潜んでいた。そうして、魅入られてしまった。全てが始まっていた のはずっと前のことで、気づくには時間よりもきっかけが必要だったのだ。

あのまま、漠然とした心持で彼の授けるものを吸収していたとしても、きっかけは些細なことで、 己を暴き出したであろう。誰にも邪魔できないあの時間、何者も入り込めない濃密な世界。二人を 繋ぐのは歌と音楽だけだったはずなのに、それだけではもう満たされない自分に目を瞑り続けるこ との限界。


「貴方と共に居ると言ったわ」


――神様


「ならば、なぜ」


この男は邪魔だろうと無慈悲な声でさえ美しい。お前の人生から消してやろうと悪魔は言う。背後 に広がる漆黒と一線を引いた臙脂の人影は、手の中にある無抵抗な命をまた脅かした。そのたびに 、望美の制止の叫び声が響く。


――神様、貴方の


「その人に、死んで欲しいわけじゃないわ。いいえ、ここで死んでしまったなら、あたしは一生彼 を忘れない」


殺したのは貴方でも、死に追いやったのはこのあたしだもの。

望美の紡ぐ言葉は知盛に軽い笑いをもたらし、重衡に深い衝撃を与えた。一体、自分と共に生きる といったはずの女は何を言わんとしているのか。助けに来た自分は、なぜ彼女を救えないのか。

重衡は銃を構える腕に力を入れる。相変わらず体の自由は完全に戻ってこないが、だからと言って 何もしないで殺されるわけでもない。


「お願いよ、知盛。貴方の手は、人を殺すためのものじゃない」


――神様、貴方のご加護は


「貴方のその手は、音楽を奏でるためのもの。血に染めるものではないわ」


体の底からくる震えは、どうしたら収まってくれるのか、望美には分からなかった。けれど、恐れ ではない。広がる未来、自分が選んだことの結果。端から端まで、余すことなく受け入れて消化し て生きていくだけの覚悟くらい、ある。


「望美、さん・・・・・・」

「ごめんなさい、重衡さん」


ごめんなさい、と重衡に向かった安易な言葉は、彼の中のどこに落ちたのであろうか。泣き出すと きのような怖いお化けでも見たような、実に奇妙な――歪んだ――表情を見せる重衡に、望美はも う一度同じ言葉を投げた。


「どうして!」

「分かって、なんて言わないわ――貴方を慕っていた時間は、とても幸せなものだった。至福と言 ってもいいくらい。けれど」

「ならば、なぜ!」


叫び声と言っていいような重衡の声を鼓膜に感じながら、望美はつ、と視線を知盛に定める。

こんな状況にあっても己を崩さない彼は、望美から発せられるその視線を受け止めてにいと笑った。 不遜で大胆で余裕綽々の、あの笑顔だ。こちらの答えなんてとうの昔に見透かしていて、それでも あがく自分をこうして見ていたのだろう――一番残酷な方法を取って。


「彼に、出会ってしまった」


――神様、貴方のご加護はもう


それは一度芸術の領域に足を踏み入れてしまった者だけが分かる葛藤と苦悩。そして悪足掻き。垣 間見たその幻影を追って追って、そして溜息をついてもう止めようと自分に言い聞かせる。自分に 言い聞かせたその言葉の端にまた影を見て、追いかける。

誰に理解してもらわなくて結構。

ただ、自分が見た魔物を満足させられればそれでよし。

その感情は恋にも似ていて憎悪に近い。


「あたしに、世界を与えてくれた」


同じフィールドに立っている二人は他人がそれと分かるような絆を持っているわけではない。そん な薄っぺらなものでもない。二人が、二人だけに、二人だけで持っているものがある。その世界を 一度開いてしまえば、それ以外のものは全部第三者となって門の外に放り出されてしまう。

そう、幼い頃の可愛らしい恋の相手であっても例外はない。


「お前は、本当に罪深いほどに欲のある女、だな・・・・・・」

「そうよ、知盛」


白い絹が柔らかく包んで隠している激情の深さ。今までどこへ向かうわけでもなくただ底で眠って いただけの感情。それをいち早く見出したのは知盛。磨いてゆっくりと絹を剥ぎ取るようにあらわ にしていって、望美自身が無意識に恐れるまでに表面に出してきた。一気に噴出してしまえばもう 、後は身を委ねるより他ない。


「あたしは、誰よりも貪欲で浅ましい女だわ」


――神様、貴方のご加護はもう要らない


泣き笑いのような諦めているような、そんな笑顔は重衡の初めて見るものであった。自分の記憶に ある幼い少女、このオペラ座で再会してから塗り替えられた思い出と気持ちの、どれに照らし合わ せても知らない。同一人物かと思わず疑ってしまうほど、凄惨に美しかった。


「知盛、貴方の影を追って生きるほどあたしは弱くないの」

「ほう・・・・・・?」

「どうせ生きるなら――貴方の傍で、貴方の命のすぐ傍がいい」


出口が知れない湖の水面はささやかにさざめいて、辺りを照らし出すキャンドルの明かりは心もと ない。三人の影は揺らめきに不確定なものとなって地面に落ち、沈黙はそう長く続かない。ぴんと 張り詰めていた空気はゆっくりと終息に流れていく。

異世界と思えるほどのこの異様な空間にあっては、時間も倫理も常識も、全部塵芥と一緒だ。


「重衡さん――」


望美の呼びかけに応えたのか、彼の放っていた殺気が急速に彼自身の中に戻っていく。どこにある のか分からない、大切なところを引きちぎられたように顔を歪めて、重衡は望美を見た。真っ直ぐ に。<彼>と同じ、菫色の双眸は絶望に負けぬよう強く望美を視界の真ん中に据えて、彼女を形作 るもの全てを頭に叩き込もうとしているかのようでもある。


「望美さん・・・・・・本当に」

「・・・・・・」


ふるりと首を振った彼女にはもう、これ以上の何の言葉も通じはしないだろう。新緑の瞳はもう、 自分を写すことはないだろう。

彼女は自ら行ってしまった――あちら側に。

力が腕から抜けて、だらんと銃口は地面に向かった。殺気の対象から外れた知盛は、いささか興味 を失った面持ちで彼を解放し、命を奪わんとしていた細い縄も一瞬で姿を消す。


「貴方とまた会えて、あたしは本当に嬉しかったの」

「ええ」


長い藤色の髪、大きな新緑の瞳は豊かな感情を映し出し、淡い唇から零れる声。知らない間に成長 していた彼女をと再び見えたとき、心は滑り落ちるように彼女に溺れた。そして、心の底から愛し た、たった一人の女性。

生涯、忘れえぬ女性。


「初恋の人だった」

「――ええ」


吐息に紛れさせて、私もですよと重衡は言った。

静寂に溶けていきそうな儚い笑みを浮かべた望美は、この世にありふれた一言を口にする。それだ けでもう終わってしまうのかと思うくらい、簡単な一言で、だからこそずしりと重たい。

諦められないとわかりつつも、重衡にはそれを受け入れることしか許されていない。門外漢が無遠 慮に入り込んでしまった世界は深く、そして遠い。何もかもが未消化なまま、何一つ納得できてい ないことを悟りながらそれでもここから去れと愛しい人は言うのだ。

望美は知盛を見つめている。知盛もまた、望美を見つめている。


「お前は俺のものだ・・・・・・望美」


世間で年相応に騒いでるほど、軽々しい感情ではなかった。恋と言うほど生易しくなく、愛と言う ほど甘美でもない。混沌として名のない感情は、この人に教わった。


「さようなら――大切な人」


耳に残る柔らかな声を聞きながら、重衡は目を閉じた。















原作に沿ってないED。チモEDです。
やつのためのEDなのに全然喋ってないや。