眠るなら奥深く

誰の夢も見せないで

貴方以外の、誰も入れないように




The Phantom of the Opera ――永遠のゆりかご――




はじめから決まっていたと言い切ってしまうほど、簡単なことではない。運命だというほど、生易 しいものでもない。だた、望美には再会したときから彼が忘れられなかったし、再会していなかっ たとしても、ずっとずっとどこかで想っていただろう。

体の中心、それも魂に一番近いところで。


「知盛・・・・・・!もう止めて!その人を傷つけないで!」

「はっ!だがコイツは十分やる気のようだが?」

「やめて・・・・・・」


知盛の、残虐さがにじみ出る言葉を受けて望美はぐにゃりと顔をゆがめた。そして、重衡を見る。 彼は、端正な顔立ちを硬直させてこちらをじっと凝視しているだけである。まるで、これから望美 が何を言うのか恐れているようでもあった。


「ダメだ・・・・・・望美さん」


言うな、と重衡は薄い唇を動かした。その声は彼女に届かない。

望美は笑った。とても儚い笑顔だった。清廉で、純粋で、そして今にも壊れそうだった。


「あたしは貴方といきるわ――」

「ダメだ!自分を無駄にするんじゃない・・・・・・!」

「でも!」


白い喉から搾り出された声は赤い旋律を以って彼に届く。

紫色の、綺麗な菫色の瞳が揺らいだ。重衡は己の形のいい唇をかみ締めて、震えるように息を吐き 出した。零れる声の裏側に、何も出来ずにいる自分への呪いが透けて見える。


「貴方の人生を無駄にするんじゃない!」

「あたしは貴方を失いたくない!生きていて、どこかで」

「・・・・・・」

「望美さん・・・・・・望美!」


押さえ込んだ男、知盛は幾分か醒めた表情で重衡をなおも拘束し続ける。一度緩んだ縄を再び締め ることはしなかったものの、彼を解放する気もないようであった。重衡は何とか離れようともがき 続けて、撃鉄を起こすことも叶わないまま、狂ったようにだめだと叫んだ。

望美は魂の裏側から声を絞りだす。


「知盛・・・・・・」


涙など流すものか。泣いて縋って言うことを聞いてくれるような男じゃないと十分に、痛いくらい に分かっている。だからこそ、彼女は見えない両腕を彼に伸ばすように言葉を紡ぐのだ。

愛しいと、そばにいたいと思った男がどこかで生きている。

その事実だけでもういい。

記憶の中にある笑顔、覚えている限りの柔らかい声音、触れたぬくもり。

自分が、歌うことでしか生きる術を持たなかった自分が、これから先を歩んでいくにはそれがあれ ば十分だ、と望美は重衡を見る。見た目よりずっと触り心地のいい銀色の髪も、誰も知らない双眸 の奥深くも、生きていれば何度でも思い出せる。


「だから知盛、その人を離して・・・・・・」


お願い、と望美は続けた。泣き笑いのような、子供が全部を諦めた表情は何を求めているのだろう。

どこからか流れ込んでくる空気にしたがって、キャンドルの炎はいっせいに揺らめき、落ちる影は 不明瞭になる。濃密な気配は一瞬霧散し、そうしてまたすぐに収縮する。あたりを埋め尽くす闇と 、広がる水面と、細い首が揺れるたびに流れる藤色は、二人の男の網膜に焼きついた。

知盛に拘束されたままの重衡は、腹の底でのた打ち回る狂気と己の無力さを呪う炎でどうにかなり そうだった。誰にも渡さないと、それがたとえ稀代の天才であろうと類まれな極悪人だろうと構わ ない。彼女――望美を愛している気持ちだけは他の何者にも引けをとるつもりはない。彼女が、自 分以外と生きていくくらいなら、その事実を抱えて生きていくくらいなら、この世から消えてしま ったほうがいい。

なぜ、こんなときに体は動かないのだろう。

なぜ、彼女を守りきれないのだろう――愛しているのに。


「歌を、教えてくれて、ありがとう・・・・・・知盛」


辺りはしんと静まり返り、清水の中を覗き込むように全ての輪郭がくっきりと浮かび上がっていた 。張り詰めた糸を断ち切るにはまだ足りない。殺気を通り越した、一種純粋ともいえる気の向かう ところは一体どこなのだろうか。


「お前は」

「貴方は、あたしに全てを教えてくれた。あたしの、永遠のマイスター」


新緑の双眸が一度たりとも伏せられることなく、望美は言葉を紡ぐ。柔らかな、舞台の衣装は白を 際立たせて藤の色が良く映えた。瞳に宿る光の強さはかの太陽の熾烈さはなく、月が澄んだ光で木 々の影を見せるような、静寂が支配するときの凛とした輝きがある。


「そして、あたしは貴方の永遠の弟子」


ゆっくりと望美はかぶりを振った。そう、と小さく呟き、そうして重衡を見つめた。

少しだけ長い瞬きだった。両の目頭に力をいれてきつく目を瞑った望美はさらに続ける。動くこと が出来るのは彼女だけであった。キャンドルが気まぐれに明暗を作り出し、照らされた空間が一気 に狭まってしまうほどの気迫を、この少女の一体どこにあったというのだろうか。


「知盛、その人を殺すというなら、あたしはこの場で自分の喉を切る」

「・・・・・・それが、お前の答えか」


望美は綺麗な女だった。舞台の上では誰よりも輝いていたし、一度その歌声を聴いたものは天使を 見ることも可能である。舞台に上がる前も、上がっている最中も、降りてからも、全てを賞賛と拍 手で埋め尽くされ導かれるだけの才能を持っていた。それに気付いていない彼女自身を磨き上げて 世に送り出した。誰も知らない。悪魔を教授として受けた授業は、誰も知らないはずで、ずっと続 くはずだった。

けれど、彼女はもうあてのない歌は歌わない。小鳥が鳥かごの中で歌うのは、たった一人のためだ 。

それは彼女が愛した人のため。

それは彼女が愛を歌うため。


「・・・・・・ふ」


だらりと力を失った腕は重力に逆らうことなく体の両脇に垂れ、先ほどまで重衡の命を脅かしてい た細くも強靭なロープは一瞬で消えていた。臙脂の影は一歩後ずさり、それだけ一層闇に近くなる 。

どん、と重衡の肩口を強く押したのはその一瞬後のこと。

急激な加重に彼は体のバランスを崩したものの、手を地面につけることはなかった。慌てて望美が 駆け寄って、愛すべき体温を抱きしめる。


――あぁ・・・・・・


この熱を、失うなんて考えられない。

どこか冷静な自分が、知盛に行動の意図を問うように視線を投げかける。新緑の光を受け止めた臙 脂の影はふ、と皮肉にもう一度笑い――獰猛な獣が一匹、わざと小動物を逃がす余裕を持ったよう な――行け、と短く言った。


「と、知盛・・・・・・?」

「魂のない女をそばに置くほど・・・・・・趣味は悪くない、さ・・・・・・」

「それは」

「行け」


知盛はこちらを見ているようで、望美の頭の向こうを見ているような眼差しを向ける。獰猛で、と もすれば一気に暴れだしてしまいそうな気配をうまく包んだ人。硬質な色気を身にまとって、誰を も支配して離さない人。

誰よりも優れた才能を持って、誰よりも世界から切り離された人。


「ありがとう・・・・・・知盛」


感謝の言葉はとても陳腐でありふれていた。使い古されてくたくたになった言葉以外思いつかない 自分が恨めしい。けれど、言わずにはいれなかった。何に対して感謝を示すのかと問われれば全て に、と答えただろうし、他に言いたいことは思い浮かばない。


「ありがとう・・・・・・」


望美の腕の中にいた重衡が身を起こす。立ち上がった足取りは存外しっかりとしていて、そのまま 、知盛を――己に良く似た男を――じっと見据えた。見据えたまま、何も言わない。白群の男は武 器を地面に投げ捨てて望美の手を取る。


「行きましょう――望美さん。外へ」


人の傷の深さなど推し量ることなどできない。そんなことをしても意味が無い。例えそれが垣間見えたとしても、傷の持ち主でない 限り、痛みも流れ出た血の熱さも感じ得ない。だから、その傷を癒すように包んで休ませて眠らせ ることしかできないのだ。


「いきましょう」


どうせ眠らせるなら、悪夢も夢魔も入り込めないくらい、深く。目覚めたときに自分だけを見て、 微笑むように。そして共に歩んでゆけるように。

痛みを引き受けることは出来ないけれど。癒すことは出来る。清らかで美しいこの人がもうこれ以 上傷つかないように守ることは出来る。それが彼の独りよがりであっても、くだらない妄想であっ ても、何であっても構わないのだ。

望美が隣にいて笑っている、それ以上の何を望もうというのか。


「・・・・・・ええ」


望美は瞳を一度重衡へ向け、そして知盛に向けてはっきりとよどみなく言った。


「さようなら――あたしのマイスター」


二人は二度と振り返らない。

白い影二つが、早く消えてくれるようにさあ、キャンドルを吹き消そう。














原作沿いED。重衡EDです
別名、ちもりんこ振られるの巻(ちょっと違う)