眠り姫は花の中

鳥が鳴いても目覚めない




The Phantom of the Opera――湖畔 1 ――




湖畔、と聞いていた重衡の予想を裏切ることなく、その場所は確かに湖畔であった。ただ、規模が いささか小さいのと、湖面に映るのは空の移り変わりではなく整備されていない鍾乳洞のような天 井、湖の深さは知れない。水面に映る松明が風ではなく、像そのものが揺らめくのを見れば、ああ 水の流れがあるのかと独りごちた。


「この先に・・・・・・」

「あぁ、知盛がいるかどうかの保証はねぇが、来ないよりはましだろ」


将臣は辺りを隈なく照らし出すように松明を動かした。不思議なことに、この空間は迷路よりも空 気が新鮮――生きている気がした。

巨大な空間が目の前に広がったとき、先を行く将臣の持つ明かりのお陰で地面と水面の境が分かっ たが、その先は当然のごとく闇に飲まれていた。地下というのだから当たり前なのだろうが、こん なところに本当に人が住めるのかと思いたくなる。

天蓋と地面の間はさして狭いというわけではない。おそらく人二人分は優にあるだろう。ただし、 地面は整備されたそれではなく、潮に侵食された岩壁をそのまま真横にしたようなもので、足元は 覚束無い。


「わからない・・・・・・のですか」

「あのな、俺だってアイツの全部を知ってるわけじゃねぇんだ。ただ、あの状況で逃げるとしたら ここしかねぇってだけの話だぜ」


将臣は言外に引き返しても構わないと言っていた。しかし、それで引き下がる重衡ではない。いい えときっぱり言い返す彼はじっと菫色の双眸を湖の向こうに向けた。二人分の足音が不規則なおう とつを見せる壁に反響して、おかしな風にエコーがかかる。


「子爵様についでながら言っておくとな、この先に水門があるんだが・・・・・・」

「が?」

「その水門のレバーを上げないとその先には進めないらしい」

「らしい・・・・・・と言うと、行ってないのですか?」

「あぁ、先に進む前にアイツに見つかった」


将臣の口調は相変わらず厳しい。オリエントブルーの瞳は一体何を見ているのか。いや、何を見て きたのだろう。将臣の身のこなしから、彼が安穏と人生を送ってきていないことくらい、容易にわ かる。その彼を以ってしてこんな警戒を抱かせるほどの人間――<怪人>とは、ゆえに<怪人>で あるのだと今更ながら背筋を滑り落ちる悪寒を感じた。


「将臣殿・・・・・・ひとつお聞きしてもよろしいですか」

「何だ?」

「<怪人>――知盛に会ったらどうしたいのです?」


どうしたいもこうしたいも何もあったものではないだろうが、重衡は問わずにいられなかった。彼 らが共に過ごした時間、知盛が犯した罪と受けるべき罰は知らない。だが、どうしても将臣には何 か一つ、それも重要な一つがかけているように見えた。


「さぁ・・・・・・殺したいのか生きて欲しいのか、俺にももうわかんねぇな、正直」


答えた将臣の声に力――覇気と言ってもいいだろう――はなく、ただ、襤褸屋に隙間風が吹き込む 時のような、体の芯に染み入る寂寥が漂っていた。重衡は彼の右肩辺りを見つめながら、ひたすら 後をついていく。

歩き続けた先に、レバーがあった。地面に固定され、左右のどちらかに動かすと水門に連結し開閉 が可能なのだろう。二人の腰先まで高さがあり、遠目から見てまるで地面に大きな棘が突き刺さっ ているように見えた。波打ち際近くにぼろ船が浮かんでいて、水流に合わせてゆらゆら揺れている のが分かる。松明の光はせいぜいそのくらいしか照らしてはくれず、話題にのぼる水門とやらはど こにあるのか見当もつかない。

レバーは錆付いてはいたが使用されたあとが認められる。構造からして誰か一人がこのレバーを支 え続けていなければ水門は上がらないのだと言われた。しばしの沈黙のあと、将臣は松明を重衡に 手渡し、ふっと軽く笑う。


「お前が行けよ」

「将臣殿?」

「俺だと、またアイツを逃がすかも知れないしさ、それに、女の方に意識がいかねぇかもしんねぇ」


頼む、と静かに渡された松明は重たかった。

照らされた将臣の顔は暗い影が落ちていて、ざんばらに切られた髪が風もないのにふわりと舞った 。瞳の奥が見えない。


「・・・・・・お引き受け、いたします」


松明を受け取り、いつ沈んでもおかしくない小船に乗り込んだ。

水面に急激に重みがかかって不安定さに揺れ、それでもゆっくりと漕ぎ出した。

水門が開く。




目が覚めると、いつかのように黒い紗が目に入った。頭はぼんやりとしてうまく機能せず、体の先 端だけがやけにはっきりと感覚を教えてくれた。通常ならばしびれるはずの指先が意思とは裏腹に ピクリと動き、そうしてああ自分は寝かされているのだと分かった。

望美の最後の記憶は、臙脂の影に覆われて明瞭ではない。

一体何があったというのだろう。

耳に届くはずだった音が遠くにいってしまい、目に入るはずだったものが形を失って、確かなもの は、あの声、あの瞳、あの仮面が自分を支配したことだけだった。


「・・・・・・」


上半身に意識を集中させて起き上がってもどこもなんとも痛まない。ただ、頭が。


「・・・・・・ここ、は」


見覚えのある天蓋と見覚えのあるベッド――そう形容するのが一番最適であって、これが本当にベ ッドなのかどうかは知らないが――で今どこにいるのか分かった。ついで、頭に手をやれば、髪結 いが綺麗に整えてくれたはずの髪がさらりと解かれていた。近くに水の気配がする。


「目が覚めたか?」

「あ・・・・・・とも、もり」

「油断ならぬな・・・・・・お前といい有川といい・・・・・・」


その人は薄い紗の向こうで皮肉に笑った。仮面が見える。鮮やかで、妖しくて、それでいて人を受 けつけない輝きを放つ仮面だ。その下に、悪魔の十字架、烙印がある。何をして生きてきたらあの 十字架を刻まれるのだろう。


「なに、をしたの・・・・・・?」


言葉を発しようにも、どうにもこうにも喉がうまく動いてはくれない。視界はぐらりぐらりとまる で船に揺られるようにゆれ、一向に明瞭な像を結ぼうとはしない。


「手品が成功しただけさ」

「どうして」


薄い紗を間に挟んでの会話は全く持って不毛としか言い様がない。相手の銀色の髪――重衡を嫌が おうにも思い起こさせる――と完璧なバランスを描く臙脂のシルエットが、数々のキャンドルの明 かりに照らされて、あちらとこちらで世界を分けていた。頭が正常な機能を取り戻していないせい か、思考が感覚についていかない。


「どうして、とお前が言うのか?滑稽だな」

「・・・・・・と、ももり」

「欲張りは破滅の元さ、お嬢さん・・・・・・?」


知盛は喉の奥でく、と笑いそうして紗を上げた。望美の視界の明度が上がる。

ぼんやりと光を放つキャンドル、光の洪水。その中で、彼はそこだけ切り抜いたかのように黒い影 として、凛然とそこにあった。

燕尾服のポケットに気だるげに手を突っ込み、じいと睨む先は湖がある方向だ。銀色の髪が覆う頭 、しなやかなラインを描く肩は大理石から削りだされた立像のように美しく、やはり全てを一度に 破壊してしまいそうな気配を皮一枚で辛うじて包んでいる色気が漂っていた。仮面に覆われていな いほうの、端正な顔が見えた。眼球だけを動かして望美を捕らえる。


「来た・・・・・・ぜ」


何が、どこに来たというのだろう。脈絡のない彼の一言は当然、望美の靄がかった脳みそで十分に 咀嚼できるわけもなく、紗の開けた場所から外を覗き見ようと儚い努力をするより他ない。しかし 、体を動かそうにも雲の上を這い蹲るような、何かが四肢を捕らえて重たく、うまく動作に結びつ かなかった。結果、うあとかわぁとか、およそ言語とはかけ離れた声が喉から飛び出してきて上半 身からベッドに突っ伏した。


「良くおいでくださいましたな・・・・・子爵殿?」


ししゃくどの。

ししゃくって、なんだ、だれのことだ。


「・・・・・・望美さんは」


声と言うものは声帯が空気を震わせ、口腔で音を発する形を作り、頭蓋骨全体に反響して発せられ るのだという。声帯の大小、頭部の形の差異でその人の<声>が特徴つけられるのである。だとし たら、二人の声は似ていて当然だろう――同じと言って過言ではないほど、似た形容の容貌をして いるのだから。


「愛しい女を追ってここまで来たか・・・・・・愚かというか、ご苦労というか・・・・・・」

「彼女を返してくれさえすれば、何も言わない、お前のことも追わない――無事なんだろうな?」


しげひらさん、と望美の唇は勝手に名を紡いだ。

それが契機となったのかそうでないのかは本人でも知れない。だが、靄がかった脳裏は一閃の光を 得て、曇った硝子が急速に透明度を取り戻すようにはっきりしてきた。体の隅々まで血液がいきわ たり、今まであるのか無いのか不定だった体温が戻ってきて、その勢いに軽い眩暈を覚えるほどだ 。

かつんと足音が響いた。知盛のいる位置は変わっていない。では、その足音の主は。


「お前には渡さない」

「ほう・・・・・・・?」


望美が紗から完全に飛び出すのと、重衡と知盛が間合いを詰めるのと同時だった。

臙脂と白群が交錯する。













やっとここまでたどりつきましたぞ!
あー、長かった