それがたとえ、賞賛をもらうものでなくても

それがたとえ、悔い改めることになっても




The Phantom of the Opera――湖畔 2 ――




重衡が初めて<彼>を見たとき、奇妙な既視感と倒錯感に言葉を失った。

たどり着くのは容易であった。容易すぎて、これは何かの罠ではないかと思ったくらいだ。湖には 思ったとおり水の流れがあり、しかし櫂を掻くのに妨げになるほどではない。どこかしら外に通じ ているのであろう、空気の流れも分かった。

そうして近付いた<湖畔の家>は、電気やガスランプの見せる人工的な光ではなく、蝋燭のいささ か古代じみた光を灯していた。岸に直接家具を置いている風景はちっともこの景色に馴染まず異質 のものとして彼の目に映った。

嫌がおうにも心臓が高鳴る。今になって、本当に銃を持ってきたのか不安になる。なるけれど、そ んなこと構っていられない。

望美はすぐそこにいる。

確かな証拠などどこにもなかったが、重衡にはそれが感じられた。言いようのない高揚感が心臓を 掴んで離さない。張り詰めた薄い膜に細い針を刺せばそこから溢れて一面に広がるような、この感 情は何と名付けたものか。

怒りか。

憎悪か。

嫌悪か。

はたまた――我が物顔で平然と支配することが出来る<彼>に対しての嫉妬か。

いずれにせよ、今はそんなことを考えている場合ではない。


「・・・・・・望美さんは」


此岸から彼岸へと渡りついた彼の一言目は掠れてはいたものの、よく通った。

既視感の原因は分かっている。向かい合う<彼>があまりにも己の姿形と似すぎているのだ。もう 独りの自分が抜け出してあちらで嗤っている。誰にも支配されない、獰猛な空気を全身から漂わせ て、そこにいる。

<彼>はにいと笑った。喉の奥で、ぞっとするほど綺麗な笑い方だった。


――狂ってるとしか思えない天才だぜ


将臣の言葉が今ならわかる。彼の瞳に宿っているのは狂気に一番近く、そして遠い。殺気を感じる わけでもなく、無防備に突っ立っているその姿は隙だらけに見えるくせにどこからも攻撃できそう もなかった。

重衡さん、と彼女の声が聞こえる。あぁ、やはりここにいたのだ。

何も恐れることはない。


「・・・・・・っ・・・・・・!」

「どうした、子爵殿?」


間近でせせら笑う彼は、一瞬の後に間合いを詰めてきた。不可避だった。背中に回られ、首には何 かで締め付けられる感触がある。それが、細い縄だとは彼は知らない。


「愛おしい女に会えて嬉しいだろう・・・・・・?」


<彼>は一体どのようにしてこのような技を体得したのだろう。器用に片手で首を絞め、もう一方 で完全に重衡の自由を奪う。誰もがこの場で<彼>に従うより他ない――優位に立っているのは明 らかだ。視界いっぱいに自分と同じ色の銀色が広がる。隙間から見える菫色まで違わない。残酷さ と慈悲を取り替えたような、神の悪戯はこうして地に現れるものだろうか。

一体、どうして。


「はっ・・・・・・!」

「し、げ、ひらさん!」


かすむ視界の中、たった一人の悲壮な叫び声がそれは魔力を持って耳に届く。脳に届く血流が急激 に減る。視界の明るさは瞬きごとに低くなり、聴覚は分けの分からない雑音がかぶさって五感の一 つとして機能しなくなってくる。金属を撫でているような、頭の中心が麻痺していく音が――

間近で悪魔が囁く。


「どうした、子爵殿?愛しい女に会えたんだろう?もっと嬉しそうな顔をしたらどうだ・・・・・ ・?」


締め付ける力はより一層強くなり、口からは吐息にも似た、声にもならない息が漏れる。

骨の軋む音は何と不気味なものか。血が下がることも上ることも出来ずに、どこか太いところで留 まる感触の何と不快なものか。死に至らしめる、その一歩手前、本当にぎりぎりのところで手加減 されている。これほどの殺傷能力を身に着けた人間がこうも生かしておくとは思えなかった。

不思議と、迫り来る死に対して何も感じない。茫洋とし曖昧模糊とした感覚では何も考えられなく なるのだろうか。それでも、腰に忍ばせた銃を手に取ることを諦めてはいなかった。どこかで必ず 、その機会が来るはず、隙を持たぬ人間などこの世にいない。完全に先手を取られ、絶望的なまで に両者の優劣が決まっている現状でも彼は諦めていなかった。


「ほお……?子爵殿は死に至る病にかかってはおられないご様子、だな」


対して、余裕綽綽、嬲って遊んでいる知盛は再び揶揄の言葉を口にのせてゆるりと笑った。鈍い光 を持つ菫が残虐に緩む様は、それはそれは美しかった。流暢によどむことなく紡がれる声の透き通 りに、あぁ、これが悪魔の声かと重衡ははっきりしない意識でなんとか思った。

これなら、とり憑かれるのも頷ける。

かは、と重衡の喉が勝手に音を出した。もがこうにも紐を取り払おうにも手が拘束されていてまま ならない。むしろ束縛は一向に緩む気配を見せず、望美の声だけが聞こえた。

「知盛・・・・・!もう止めて、離して!」

「なぜだ?」


望美が声を上げてすがり付いても彼は綺麗に、さっぱりとした言葉で彼女を遠ざける。揺らぐ意識 の中で重衡はひたすら彼女のことを案じる。どうか、これ以上近付いてくれるなと。


「お前はこの男を選ぶか?」

「・・・・・・っ!」

「なぜ?」


子供のようにただ素直に聞き返してくる知盛に、望美は術を持たない。


好きなの、これから一緒に生きて生きたいの。


そう言えば全ては終わるだろう――あらゆる意味で。下からくる震えが腹に響いて体の中心に反響 する。生まれたての子羊が初めて自分の足で立っているようなものだった。己の力で立つことで精 一杯の子羊の前に、残酷な現実は文字通り容赦のない残酷さで彼女の前に広がる。我が物にならな い足では、その一歩をもどうしても踏み出せない。頼りない、一番信じられないのは自分自身だ。

涙などと言うものは涙腺の奥に引っ込んで、よって彼女は一層明確に視界を保っていた。振り乱れ た髪も強張る四肢も何もかもが切り離されていて、何を捉えてどう処理すればよいのか不明確なま ま、時は流れる。かみ締めた唇の下、顎が桃の種のようになっていた。


「知盛、お願いだから」

「・・・・・・この男をそんなに助けたいか?」

「死なせたくないの!」


望美はとても美しかった。乱れた藤色の髪も、真摯な光に彩られた新緑の瞳も、今は知盛だけに向 かっている。残虐な場面を目の当たりにしても彼女の清廉さは少しも損なわれず、舞台上で観客を 虜にしていたときのように、それは神々しくもあった。

全身全霊、そんな言葉がぴたりとあてはまる。


「の、のぞみさ・・・・・・!」

何も答えない望美に一瞬の疑惑と、それ以外の何かを抱いたのだろうか。知盛にほんの僅かな揺ら ぎが出来た。そして、それを見逃すほどには重衡の意識は持っていかれてなかった。

今まで妨げられていた分の酸素を吸い込むより早く、重衡は身を捩りついでに肘を相手に食らわせ て距離をとる。長年受け続けてきた海軍の訓練をかように活かすとは彼自身でも想像していなかっ ただろう。腰から無機質な金属の、精巧に計算された小さな武器を取り出す。

全ては本当に瞬きの間だけのこと、短い時間の中で彼は非常に的確に動いた。

相手に向ける。

はずみで知盛の右側を覆っていた仮面が飛ぶ。そうして、重衡は初めて<悪魔の十字架>を初めて 目にした。こんなにも細かく、精確に刻まれた烙印は彼にとても似合い――場違いな感想だが―― そうして、己の顔にも刻まれているように思えてくる。


「・・・・・・はっ・・・・・・きさ、ま」


至近距離、完全に紐から逃れ切れていなくとも銃口を相手の額に押し付けるくらい難なく出来た。 かちりと起こした撃鉄の音がやけに響いた。息を飲んだのは誰だろう。望美か、それともこんな状 況に陥ってもまだ余裕で笑う知盛を見た自分か。

ひゅうひゅうと、喉から不吉な呼吸音が聞こえてくる。


「無駄なことを」

「むだ、か、どうか、はまだ分からない・・・・・・!」

「あいにくだが、俺にそんなものは通じないさ」

「重衡さん!だめ!止めて!」

「何をしても彼女は渡さない・・・・・・!お前には絶対に」


過ぎ去るは過去、広がるは現在、未知たるは未来。


「もう止めて・・・・・・!」


生きるということを止めない限り、この呪縛からは逃れられない――ずっと、どこまでも。

それは堕ちた天使が受ける、最上の業。

果たして悪魔の囁きに下るか、永遠のゆりかごに眠るか。














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