The Phantom of the Opera  ――奇術 3 ――




翌日の新聞の一面を飾ったのはもちろんオペラ座のシャンデリア落下事件についてだった。各紙と も大々的に取り上げ、責任のありかを盛んに藤原家の二人に求めたが、上流階級の彼らに面と向か って追求できるはずも無く、司法当局は


『必ずや原因解明をし、二度とこのようなことを起きぬようにする』


と短い声明を発表するだけだった。その後、管轄であったパリ市警にどこからとも無く圧力が加わ り、結局この件は迷宮に半ば人為的に押し込むこととなる。

この一件で死者十五名――うち五名は狭い出入り口付近で大勢に圧し掛かられたために圧死、十名 はシャンデリアの直下に座っていたため逃げ遅れて潰死――と判明し、重軽傷者は50名にのぼり 、フランスが誇る芸術の館はそれ以降扉を閉ざした。

しかし、人々は知らない。

新聞が報道するまで、パリ市警が到着し事件の捜査に当たるまでに何があったかを。




怒号とも阿鼻叫喚ともいえる声とはこのような声のことだろうか。

人が本能のままに叫ぶとき、確実に時間をさかのぼって猿が警戒音を発するときのような声を出す 。金も名声も有り余って日々遊んで暮らす彼らは、天井から落下する圧倒的な質量の前になす術が 無かった。

誰も、こんなときにどうすればいいかなんて教えてくれなかった。


「・・・・・・ちっ!」


将臣が弾かれたように走り出す。すでに鼻腔にはすえつくような肉の焼ける匂いと、今まで聞いた こともない音が聞こえていた。

金切り声、轟音、慟哭、そして断末魔。


「将臣殿!?」


乱暴に扉を開けて出て行った彼を追う案内人は血相を変えて叫んだ。先を行く彼に追いつくには彼 女の足は機能を果たしていない。左足がびっこを引いて、うまく二足走行できていなかったのだ。


「走るな!」


将臣は振り返りざまに大声でそう返した。足を止めない案内人に、将臣はもう一度怒鳴った。


「お前の足が潰れる!」

「踊れぬ足に何の価値がありましょうや!」


案内人は怒鳴り返した。辺りは混乱の極みにあり、見覚えのある面々がドレスが破れるもの構わず 我先にと走り、狂い、髪を振り乱し、或る者は壁に激突し或る者は外へと続く階段に殺到している 。危機回避本能に支配された人間はどこか滑稽な様相を呈しており、皆一様に逃げだすということ しか頭に無い。

混乱の中で、二人は周囲と切り離されたように一度止まった。将臣は彼女の元へ引き返してきて、 こんな場面には全くふさわしくない笑顔で言う。


「俺は重衡のところへ行く。お前は逃げろ」

「でも!」

「いいか、警察が来る。そうしたら<湖畔>を何としても見つけて、後を追って来い」

「それでは遅すぎる!将臣殿、あの人がどんな人かは良くご存知でしょう」

「知ってるさ・・・・・・知ってるから追うんだ!」


いいな、と含めるように言われたのと同時に、混乱した人並みに飲まれて案内人は体のバランスを 完全に崩した。あちこちを蹴られ踏まれして一時の騒乱が過ぎ去るのを、じいと固まって待つしか ない。この足は、自分の体の一部とは思えぬ程己の意思を聞いてはくれないのだから。

顔を上げたときにはすでに遅く、将臣の広い背中はもう見当たらない。ボックスにいた観客も大方 逃げ出したようで、辺りには間抜けなほど底なしの静寂が広がっていた。散乱する装飾品の数々、 割れた花瓶、散り散りになってしまった錦の断片。

無残だった。無残すぎる。


「・・・・・ふふふ」


案内人は昏い笑いを口端に浮かべて、ゆっくりと立ち上がった。乱れた髪を細い手で綺麗に撫で付 けて、いつものように歩き出す。

後始末をせねばなるまい。




逃げ惑う人々の中で、彼を見つけられたのは本当に運が良かったとしか言いようが無い。どこか虚 ろになって何かを探している重衡の腕を捕らえたとき、やはりという確信があった。


「まさ・・・・・・おみ、殿」

「話は後だ」


短く言い捨てると、将臣は重衡が後をついてくるかの確認もせずに――彼ならば必ず追ってくる、 追ってこれると分かっていたので――劇場の下の階へと続く階段を駆け下りた。ホールの中はまさ しく地獄絵図であろうが、そんなことは今は構っていられない。

潰れたシャンデリアの炎が赤い絨毯を舐め、人であったものを焼き始めるまさにその瞬間、彼ら二 人は当に誰もいなくなった舞台へと駆け上がる。初めて登る、あらゆる役者にとっての聖域はすで にその威厳を失って、ただの空間へと成り下がっていた。書き割りも大道具もこんな場では何の役 に立つというのだ。


「何か武器は持ってるか?」


勝手知ったる様子で将臣はどんどん舞台裏へと走っていく。薄い水色の燕尾服の上着を脱ぎ捨てた 重衡は小型の銃を、とやはり走りながら返した。


「十分だ」

「・・・・・どこへ行かれるおつもりです?」


速度を緩めて空間の上下左右を見回す将臣に、重衡は尋ねた。贈られてくる品々をそこらへんに限 りなく適当に積み上げた、望美の楽屋でのことであった。当然、誰もいない。がらんとした楽屋は 開演前に重衡が訪れたときと、なんら変わるところが無い――部屋の主がいない、という点を除い て。


「地下の湖さ」

「誰も分からないとおっしゃっていたではありませんか!」

「見つけたんだよ、望美が攫われた時にな」


大きな姿鏡の前に立ち、将臣はこともなげに言う。コンコンと鏡を叩きながら構造を確かめている その背中を、重衡は抗議したいのをぐっとこらえてみているしかなかった。なぜあの時連れて行っ てくれなかったのか、と。


「俺だってな、後悔してんだぜ。アイツ――知盛を助けるんじゃなかったってな」

「・・・・・・?助ける?貴方が?」

「昔話さ」


将臣は言いつつ鏡の右下の端を押した。何かが外れる音がする。


「俺の祖国を知ってるか?」

「ペルシャ、でしょう?」


重衡の答えに軽く頷きながら、将臣が立ち上がる。重衡は子供が父を見つめるようにその一挙手一 投足から目を離せなかった。どけと目で合図されて一歩横に体をやる。空いた空間の背後にある壁 を手の平で探り、将臣は言葉を続けた。


「ペルシャでな、知盛に抹殺宣告が下ったとき、国外に逃がしたのは俺さ」

「・・・・・・」

「で、ここオペラ座にアイツをかくまったのがあの案内人。俺もまさかこんなところに居るとは思 わなかったぜ」

「それで」


切り替えした重衡に、彼は自嘲の笑みを見せた。こんなときに笑うのは、己の愚を認めるときか相 手の愚を示すときだ。今は、間違いなく――前者である。


「俺が居所を掴んだときにさっさと殺してれば良かったのにな」


ごめんな、と言ったのは一体誰に対して何のための謝罪だったのだろう。彼が負うべき責も受ける べき罰も何もないというのに。それでも将臣は、眉を軽くゆがめて淋しく笑った。


「でもな、あいつが稀代の天才なのは俺も分かってる」

「天才、ですか」

「あぁ――狂ってるとしか思えないほどの天才だぜ」


先ほどまでの大混乱、混沌が嘘のように静まりかえっている。重衡は返す言葉を見つけられず、壁 を探る将臣を見ているだけだった。彼の見てきた<怪人>――知盛という人物が頭に思い浮かべる ことがどうしても出来ない。望美は自分に似ているというが、全く出生も知らなければ声も知らな い。

狂人と天才は紙一重だという。ならば、彼はどちらに属しているのだろう。


「さ、て・・・・・・」


どこをどうしたのだろうか。将臣がふっと息を吐き出しながら鏡に両手を当てて下から押し上げる ようにする。不思議そうに見ているだけの重衡を振り返り、お前もやれと顎をしゃくった。がたん と僅かながら床と鏡面の間に隙間が出来――回転した。


「これは・・・・・・」

「まぁ、知盛お得意のからくりってやつだな。仕掛けさえ分かれば簡単なんだが・・・・・・どう やって思いつくのか」

「この先にあるというのですか?その、<湖畔の家>が」

「俺を信じるかどうかはお前に任せる」


疑問をぶつけてきた重衡に、将臣はそっけなく言い返す。愚問である。今、案内人を除けば<彼> を正確に説明できる人物がいないどころか、オペラ座に張り巡らされた<裏通路>を知る人はいな い。ましてや、<湖畔の家>に続く道など。重衡はためらいも無く将臣の背中を追った。

手にした松明の明かりだけが、狭い通路を照らす唯一の光だ。


「小型の銃の中に何発持ってる?」

「・・・・・・六発ほどでしょう」

「五発しかないと思っておけ。ま、知盛に銃が通用するとは思えないけどさ」


将臣は振り返りもせずにどんどん進んでいく。迷路の中は暗く、空気の動く隙間がないからかひど く湿気ていてすえた匂いが鼻についた。急勾配の階段を下り、直線の道を行き、角を曲がる。上下 の感覚はおろか東西南北の感覚は無くなっていった。先を行く将臣がいなくなれば、重衡は確実に 発狂してしまっていただろう。二人分の急いた呼吸と足音だけが聞こえた。


「ロープ・・・・・・にぶら下がる覚悟」

「は?」

「おっしゃっていたではありませんか、将臣殿。私は、あの人のためならなんでも出来ますよ」


振り向いた将臣は、松明に照らされた覚悟を決めた男の顔を見た。子爵という立場を生きてきた彼 は、こんなときでも気品を少しも損なってはおらず、その裏に隠された激情を上手くくるんでいた 。


「ここから先、何があるかわかんねぇからな。左手を首の高さまで上げておけよ」

「ええ、仰せの通りに」


強い瞳はたった一つのことを目指している。あの混乱の最中、舞台から一瞬の隙を突いてまたして も連れ去られた愛しい人。

髪の毛の一筋だって渡さない。吐息の温度すら教えてやらない。誰にも渡すものか。消えてしまっ た望美を、再びこの腕の中に取り戻すため――重衡は腰に隠した冷たい武器に手を伸ばした。

水の気配はすぐそこである。













剣闘士・将臣と騎士・重衡の冒険
ラスボスと対決するには明らかに装備不足。