The Phantom of the Opera  ――奇術 2 ――




<アイーダ>は古代エジプト、ファラオ時代を舞台として描かれる、男と女の悲恋をつづったオペ ラだ。作曲者であるジュゼッペ・ヴェルディにオペラ座支配人を通して依頼を飲ませたという経緯 を持つ。現支配人であるヒノエ・弁慶の両支配人が知るところではないが、全四幕で構成されるこ のオペラは今でも高い人気を誇っている。

敵国エジプトの王女アムネリスに身分を隠して奴隷として仕えるエチオピアの王女アイーダは、エ ジプトの武将ダラメスに恋をする。ダラメスもアイーダに想いを寄せ、二人は人知れず恋仲であっ たが、奇しくも彼の率いるエジプト軍はエチオピアに大勝してしまう。連れてきた捕虜の中にアイ ーダの父、つまりエチオピア王が身分を隠して紛れ込んでおり、再会した娘にダラメスから軍事機 密を聞き出すよう命ずる。

アイーダは祖国と恋心に挟まれて苦悩しながらも彼から機密を聞き出し、この現場をアムネリスに 抑えられたが、ダラメスが身代わりとなりアイーダ親子を見逃してもらう。一方、身代わりとなっ た彼は生きながら神殿の下に埋められるという死罪を下され、王女アムネリスと結婚すれば帳消し にしてやるという取引にも応じなかった。人生の終わりを迎える神殿の、出口のない地下牢でひと りアイーダに想いを馳せているそのとき、物陰から彼女が現れ、二人は天界で結ばれることを約束 しながら息絶える、という話だ。

ダラメス役のテノールが歌うソロ、<清らかなアイーダ>に象徴されるように、そのままでも十分 に清廉な望美にこの役は適任といえた。手元のパンフレットから劇場に視界を広げた重衡は、舞台 に上がる彼女と、彼女に浴びせられる賛辞を想像し期待し、無意識に口元が緩んでしまう。


「今日はなんだかご機嫌ですね、重衡殿」

「あぁ、敦盛。経正はどうしました?」

「兄上は帰りの馬車の手配に行っておられます」


静かに返した敦盛は、いつもの六番ボックスに入るなり重衡の隣に滑り込んだ。

薄い水色の燕尾服と濃紺のタイを締めた重衡と、艶のある黒のタキシードに身を包んだ敦盛が並べ ば会場中の視線を集めないわけが無い。二人はさながら一枚の絵画におさめられた王子の気品を醸 し出し――実際に王子と同等の血筋を誇っているのだが――それは会場の貴婦人から善良な中産階 級の女の目を愉しませるには十分だ。


「・・・・・・敦盛」

「なんでしょうか」

「いいや、なんでもありません。今夜の帰りは車輪が溝に落ちないといいですね」


年若い従兄弟に向けた瞳は限りなく穏やかで、そして浮かべた笑みはとてもとても儚いものだった 。何かを言おうとして開きかけた口を、やはり留めてただ、言葉無く笑うその姿に、敦盛はなぜか はっとするものを感じた。

まるで、これが最後、と言うような。

引き止めねば行ってしまうと思っても、彼の言動は平素からして穏やかそのものであり変わるとこ ろはなんら無かった。幕の上がらない舞台に視線を送る菫色の瞳を見て、敦盛は結局そうですかと 言うより他なく、今、ここに彼がいることに不思議さを微塵も感じずに隣に座っていた。よもや彼 の直感どおりこれが最後の姿となることなぞ思ってもみなかったのだ。

次に一緒に来るオペラはなんだろうと考えているうちに経正が戻ってきて、一呼吸置いた後に会場 の照明が軽く瞬いた。

開演の合図である。




五番ボックス案内人はふっと軽く息をついた。

大方の名士をボックス席に懇切丁寧にご案内し、その短い間に交わされる会話を全て戯れとして有 耶無耶にしてしまうのも骨が折れた。何しろ相手方は名前だけならどこに出しても恥ずかしくない お方達なのだが、いかんせん好色が過ぎる。

だが仕事はまだ終わっていない。

今日の公演から考えてもう十分だと思われる頃合に、彼女は黒いドレスの裾を翻して五番ボックス へと足を向けた。そろそろ、いるはずである。

彼女の歩みのテンポは一定のものとして一足たりとも乱れず揺るがない。頭頂部が上下しないのは 膝から足全体をキチンと使って歩いているからであって、今歩んでいる先が舞台に変わっても下町 の汚物の匂い溢れる道に変わっても、やはり彼女の優美な歩き方は変化しないだろう。


「あら」

「・・・・・・五番ボックスに行くのか」


ボックス席の扉が並ぶ階へ至る階段の途中、ガスランプに照らされた人影に彼女は器用に片眉を上 げた。将臣が腕組みをして壁にもたれかけ、こちらを見下ろしたまま聞いてくる。ご覧になればわ かるでしょうと女は返す。踏み入ってくるなと拒絶するわけでなく、かといって受け止めようとも していない。聞かれたから返す、それもただ返すのではつまらないから皮肉って返す。たったそれ だけだった。


「ついていらっしゃるおつもりかしら?」

「あぁ、アイツに話がある」

「良い知らせなことをお祈りいたしますわ。機嫌が悪くなると八つ当たりされますもの」


それなりの身分を持っていなければ出入りできないサロンに、彼がいる理由は一切問わない。二人 は暗黙のうちに互いの間にラインを引き、その線を越えないようにして付かず離れずの関係を続け てきた。割り切った、冷えた瞳をした二人は、結局それ以上の会話をすることなく五番ボックスへ とたどり着いた。

重厚な木製の扉を半ば押し開けるようにしてボックスの中へと滑り込む。案内人の片手には本日の プログラムとクラッカー、ラムの入ったグラスを乗せた盆を持っている。<怪人>は大抵、ボック スに置かれたこれらのものを姿見えないままどこかへ消し去ってしまう。将臣はそれを倣うように して大きな体躯をしなやかな動作でボックスの中に入れた。


「・・・・・・あら」

「・・・・・・」


扉を開けて最初に感じたのは、第二幕の第二場<凱旋>でバスの歌手が高らかに歌い上げる声と管 弦楽の見事な重和音だった。そして目に入ったのは深い臙脂色の燕尾服の背中。気だるげに首周り に巻かれた男物のストールが背もたれのこちら側に垂れていた。


「珍しいこともあるものですわね、貴方がいらっしゃるだなんて」

「・・・・・・驚かないのか」

「どうせいつもいらっしゃっているのでしょう?どこかの誰かさんはかくれんぼがお上手ですこと ・・・・・・けれど、今日は鬼に見つかったご様子」


盆を抱いたままの女を振り返ることなく、その男は喉の奥で静かに笑った。視線は舞台に固定され たままである。聖書の一場面を描いた天井に吊るされた、見事なシャンデリアを初めとする照明が 彼のシルエットを半分浮き立たせ、何処で見た子爵と同じ髪の色を際立たせる。退屈そうに肘掛に 体を持たせかけ、長い足を組んでいる姿は一見して正統なる血筋を持つ王家の人間を思わせるが、 漂う空気は全く別のものであった。タイを締めていなければ、上着のボタンも全部開け放したまま と、決してこの場にふさわしい格好ではないのに、視線を捕らえて離さない。

人を惹きつけて魅惑させるだけさせて、あとは好きにしろと勝手に振舞うような空気を纏った男だ った。

姿形の端正さはシルエットで十分に察すことが出来、彼を構成するひとつひとつのパーツが憎たら しいくらい完璧なバランスで以って集約されている。イタリア・ルネッサンス期の美しい彫刻を思 わせるその背中を、将臣はひどく苦痛に満ちた視線を送る。


「退屈・・・・・・なオペラ、だな」

「貴方が見れば大抵のものはそうでしょうよ。なら、観に来なければ済むことですのに」

「相変わらずだな、お前は・・・・・・有川、そう思わないか」

「・・・・・・」

「褒めてくださっているのかしら?」

「どうとでも・・・・・・と言っておこうか」


女と将臣は入り口から一歩も動こうとはしない。手を伸ばせばお互いに触れられるくらいの距離で 、三人分の気配が固定された。あつらえた椅子や彩る布地は最高級の装いでもって居る人を迎えて いるのに、このボックス席は張り詰めた、殺気とも緊張ともつかない空気に包まれていた。

男はじっと舞台を見つめたまま、姿勢を変えずにいる。気まぐれに頬杖をつく以外の仕草をするこ とは無い。飽きた気配を肩の辺りに漂わせながらも、望美が歌うシーンになれば僅かながらも反応 した――半分ばかり、揶揄のこもったものだったが。


「あぁ、発声がなってないな・・・・・・一体、何に気取られている」

「うちの歌姫に評価を下すのはご自由ですけれどもね、誘拐は金輪際御免こうむりたいものですわ ね。支配人から八つ当たりされる身になって御覧なさいな」

「どうも悪いことをした・・・・・・な」

「悪いとも思っていないくせに、よく言いますこと」


呆れた風に溜息をつくと、彼女はようやく体を動かした。舞台は場面転換し、王座でエジプト王が 娘とダラメスが結婚するようにと命令を下すところであった。流れる歩みで男の右側に回り、サイ ドテーブルに盆を置きつつ言う。


「鬼から逃げなくてよろしいのかしら?」

「・・・・・・さぁ、な」


男は仮面に覆われた右目をちらと動かし、女を見る。視線を受け流した女はついと首を動かし突っ 立ったままの将臣を見る。


「鬼さんは捕まえずにいてよろしい?」


物音ひとつ立てずにテーブルから一歩身を退き、ずっと追っていらっしゃったくせにとからかいの 口調で続ける。将臣は張り詰めた空気を自分から追い払うようにふっと息を吐き出すと、そうだな と小さく呟いた。視線を一度足元に逃がし、腕を腰の後ろにやりつつ、男――知盛に言った。


「昔話でもしてみるか、知盛?」

「上演中はお控え願いたいものだがな・・・・・・」

「お前がこのオペラ座に居ついてからもうどれくらい経つ?」

「さぁ、な・・・・・・芸術は時を忘れる手段のひとつさ」


知盛は舞台から視線を外そうとはしない。公演はつつがなく進行し、アイーダ役の望美が、恋人の 結婚を嘆くアリアを伸びやかな声そのままに豊かな表現力でもって涙を誘っていた。音楽の合間か ら、会場の貴婦人がしとやかに鼻をすする音が聞こえる。


「ペルシャ国王からの命令はいまだ有効だって、忘れたわけじゃねぇだろ」

「何のことだか・・・・・・」

「あんな城を建ててやるからこうなるんだぜ」


将臣の言葉に知盛は馬鹿にし切った笑いを見せた。

今でこそ<オペラ座の怪人>と言われる彼が、かつてペルシャにいたとき、その奇術の完成度を買 われて王宮に滞在していたことがある。将臣は国王近衛の一人で、彼の滞在中の警護を預かってい たという。もっとも、知盛に警護など必要なかったが、二人は共に過ごす時間のなかで友人と呼べ る間柄になったのだ。


「戯れに建てた城を、いたくお気に召すとは・・・・・・お前の国の王はやはり悪趣味だな」

「・・・・・・」


知盛は国王の命ずるまま、夜毎その奇術を見せて目を愉しませてやった。見せるたびにエスカレー トしていく要求を、この男は退屈しのぎに承諾していき、そのたびに人が死んでいった。拷問が白 日の下に堂々と行われて憚らない国の王は、人の死ですら奇術の一端にしろと求める。悪趣味極ま りないといえばそれまで、至極もっともな意見である。


「そんな王に未だ仕えるお前の神経も知れないが」

「・・・・・・俺はお前を逃がすつもりはない」

「ほう?」


王はあるとき言った。お前の奇術を存分に生かした城が欲しいと。知盛は求められるがままにから くり城を設計して建ててやった。完成した城を王はいたく気に入り、この城を世界で唯一のものに したいと思った。どうすればそうできるか。

設計から建築まで、関わった人間を全て殺せばいいのである。


「人を殺したことには変わりねぇからな」

「お前らしいな、有川」


よって二人は追う者と追われる者に別れた。ペルシャ国王からの命令に拒否権などあるものか。首 をとってこいといわれて将臣は祖国を出立するより他なかった。身代わりを仕立て上げて悪王の欲 求を満たそうとしても、知盛の顔はとうに知れているし、偽りの報告でも王は納得しないであろう 。

何より、将臣にとって戯れに人の命を奪うことを償って欲しいということが大きかった。


「だが、その情の篤さが命取りだぜ・・・・・・?」

「そうか?」


腰にやった手を、真っ直ぐに知盛に向ける。太く、長い腕の先についている無骨な右手には、ペル シャが最高照準を誇る銃が握られていた。かちりと撃鉄が起きる音がして、知盛はようやく将臣を 振り返った。案内人は黙って成り行きを見ているだけである。


「あぁ、そうだ・・・・・・<湖畔>を見つけた時に俺を捕まえていればよかったのにな・・・・ ・・?」


にいと彼の口元が不敵に笑んだ。両の瞳は紫紺の光を放ったまま、向けられる殺気をむしろ愉しん でいるかのように見える。立ち上がり、舞台に背を向けたまま一歩下がる。将臣は銃を向けたまま 一歩前に進む。


「そうかもしれねぇな」


将臣はどこか虚ろに呟き、案内人は間近で聞くであろう銃声に備えて目を閉じた。だが、その直後 に聞こえたのは予想していた火を噴く音ではなく、知盛の低く笑う声であった。


「・・・・・・っ!」

「あ・・・・・・」


目を開けた案内人が見たのは、宙に身を躍らせた知盛と、瞠目する将臣、それから見事なシャンデ リアだった。

落下する彼に合わせるように、あぁ、200tのシャンデリアが。













オリキャラが出張ってて申し訳ないです……!
「どうやってシャンデリアを落としたのか?」
という疑問は抱いてはなりません、神子さま(じゃんもわからない)