The Phantom of the Opera ――奇術 1 ――
何事もなく新年を迎えた弁慶、ヒノエの両支配人の下に一通の手紙が届いた。見るのも忌まわしい
赤いインクと流麗な文字のそれは、紛れもなく<怪人>からのもので、平和に胸を撫で下ろしてい
た二人に水を注すには十分すぎた。
「・・・・・・あの野郎、腐れたこと言いやがって」
「ヒノエ」
今にも口汚く罵りだしそうな彼を、叔父はゆっくりと溜息をつきながら柔らかな声音で制した。手
にした便箋はとうに机の上に放り出し、読み返す気も起きないと言わんばかりである。
それもそのはずだ。今回の手紙の内容は、毎回の「二万フランを寄越せ」というものではなく、新
年の初演に関する内容だった。ひどく簡潔に要求を突きつけられても何も出来やしない。なにしろ
上演は十日後に決定しており、今更演目を変更するなど、対外的にも出演者にしても不可能である
。
「何をお考えかね。ユーモアにも程があるってもんだぜ」
「このまま、今予定してる<アイーダ>のままで行きましょうか。どうせ、<怪人>とやらは手紙
を送ってくるくらいしか出来ないのですから」
今まで出演を渋っていた望美が舞台に上がるというのでチケットの売れ行きは上々だ。それに新年
一回目の上演だけあって舞台装置にも力を入れてある。コンダクターのリズヴァーンが言うには、
オーケストラの仕上がりもまずまずとらしく、今のところぬかりはない。
いや、ぬかってはならないのだ。この舞台は今年一年のオペラ座の行方を占うばかりか、二人にと
って初めて迎える事実上の「初仕事」に値する。今までは前支配人の影があちらこちらに見えてい
たが、一掃するいい機会でもある。前の支配人以上だと訪れる観客に言わせるためにも、今回のプ
ログラムはパリ・コミューンの真っ只中で初演を迎えた、ヴェルディの作品を選んだ。
二人とも何も言わず、その沈黙にでさえイラついたヒノエが前髪をくしゃりと掻き揚げると同時に
、支配人室にノックの音が響いた。機嫌の悪いヒノエはそれを隠しもせず、やや乱暴にどうぞと言
い捨てると、ドアの向こうから黒いドレスの女が姿を現す。
「失礼いたします」
「ああ、君でしたか。どうぞ、こちらへ」
「いいえ、ここで結構でございますわ、支配人様?妾をお呼びになった御用向きを伺いに参っただ
けですの」
「バレエ団の調子を聞きたいだけさ」
ヒノエの質問についと細い首を動かし、万全でございます、と女は短く答えた。その他、彼ら二人
から聞かれること全てに対して必要最低限の言葉で答える。扉の直近に背筋を伸ばして立ち、腰の
前で手を組んでいる様はさながら黒い白鳥のようであった。弁慶の脳裏に、かつて彼女が演じた姿
が蘇る。だから、ついつい要らないことを聞いてしまうのだ。
「君はどうして引退したのです?若すぎるという声を知らなかったわけではないでしょう?」
「武蔵坊様、女に過去を語らせることの罪悪をお知りになったほうがよろしくてよ」
可愛げのない、それでも彼女の纏う空気にしっくりくる答えで以ってあっさりと向けられた質問を
かわした。にいと笑った口元はこれ以上の自身に対する質問を拒否している。初めてこの支配人室
で引き合わされたときと女は寸分変わることなく、白い肌と赤い唇をしていた。
そして、机の上に投げ出された手紙を見て――やはり、哀れむような視線を二人に投げかけたのだ
った。
このとき、どんな無理をしてでも<怪人>の要求を呑んでいれば、最悪の事態は免れたのかもしれ
ない。
全ては結果論だ。
十日後の土曜日、重衡は表面上、通常通りにオペラ座に姿を現した。開演よりいささか早く到着し
たのは望美の楽屋を訪れるという理由があったからだった。あの<アポロンの竪琴>の下で話をし
て以来、手紙の一通もやりとりしていなければ、一言も会話をしていない。舞台を控えたオペラ歌
手がひたすらこなすリハーサルの過酷さを思えば、あえて黙っていたのも彼女のためである。だが
、開演前に顔を見ることは当然の権利だと、重衡は踊る胸を押さえ込んで無表情を保っていたのだ
。
エントランスを潜り抜け、アイボリーとブラウンがマーブル状になった大理石の上に敷かれた赤い
絨毯を滑るように歩いていく。楽屋までの道すがら、久しぶりに<ペルシャ人>を見かけた。背の
高い彼は、重衡にはこのオペラ座で見かけるには浮いた存在に映るのに、周囲の人間が全く気に掛
けていないのが不思議である。
ぞんざいに着崩した燕尾服はよれて古いもの。オリエントブルーの瞳は意思の強さをそのまま凝縮
したような輝きを持ち、すうと通った鼻筋は精悍な顔つきを際立たせていた。ふと足を止めた重衡
に、彼のほうから近寄ってきてよお、と気軽な風に声を掛けられた。
「あれから何もないか?」
「ええ、将臣殿。至極平和ですよ」
「その殿、ってのは止めてくれないか。ケツあたりがむず痒くなって仕方ねぇ」
「では、何とお呼びすればよいのでしょうか?」
この国に生まれていない将臣の口は、子爵を相手にしているものとは到底思えない。しかし無条件
で良しとして受け入れさせてしまう大らかさが漂っていた。きっとこれが彼の地なのだろう。<怪
人>が絡んでいないときの将臣は、あっけらかんとして見ているこちらまで爽やかな心持にさせて
しまう青年であった。
「将臣、でいいさ。それに、子爵殿に敬称つけてもらうような身分は持ち合わせていないもんでね」
「そんな……私も、今日限りで己の身分を捨てる身でございます」
「……お前、まさか」
驚きに瞠目した将臣に、重衡は静かに笑った。口元が柔らかな弧を描き、目元は穏やかに緩んでい
るはずなのに、それ以上聞いてくれるなという拒絶が見て取れる。だが、将臣は途端に厳しい顔つ
きになり、耳の辺りを掻きながら言った。
「あの化け物から、奪い取るつもりか」
「奪うだなんて不穏なことを言わないでください。まるで、彼女の意思を無視しているようだ」
合意の上だと言外に含ませた重衡の発言に将臣は何とも複雑な表情を見せた。決して祝福している
ものではない。もちろん重衡とて、身分を捨てようとしている男を前にして手放しで喜んでもらえ
るとは思っていない。だが、滲み出る憐憫や悲壮と言った感情がまるで布越に見えてしまったよう
で、小さく首を傾げた。哀れんでもらえるほど、深く付き合ってきたわけではない。
「アイツはまた、独りになるのか・・・・・・」
思いも寄らなかった呟きが、耳朶に届く。重衡はほとんど無意識に訊ねてしまっていた。それは、
望美がさらわれた時に聞けなかった質問。オペラ座の関係者の間で「身元不明の謎めいた人物」と
して知られる彼の、一直線に引かれたラインの内側に入る質問だった。
「・・・・・・将臣殿、お聞きしてもよろしいですか」
視線を斜め下に逃がしていた将臣の双眸が自分を捕らえる。一瞬、開演前のざわめきが遠のいた。
「貴方は<彼>を化け物呼ばわりしたかと思いきや、慈悲を向ける発言をなさる・・・・・・一体
、貴方は<彼>の何を知っているのです?」
将臣はじっと重衡を見つめた後、魂を傷めた者だけが見せる表情を作り、言った。
「アイツの唯一の友人で、断頭台に引きずり出す人間さ」
背反二律のその言葉を重衡が完全に理解できるはずもなく、よって彼は何も言えなかった。何があ
ったのだと聞くことが出来なければ、話してみろということも出来ない。だた、見事な彫刻が出迎
えるエントランスの中で二人の男が息をして生きているだけだった。
先ほど朔が衣装に着替えたての格好で顔を出して帰っていった。何でも、新年の初舞台と言うこと
で兄の景時とその後輩にあたる譲という男性が彼女を呼びに来たらしい。慌しい楽屋訪問であった
が、望美の緊張を幾分か和らげるには十分だった。
今感じている緊張は今までとは一味も二味も違う――文字通り、これから旅立つ前の、不安と開け
る未来に対しての困惑がない交ぜになって、失うものの大きさを改めて突きつけられるような心持
であった。
歌えなくなるわけではない。舞台に何の未練があるものか。ただ、このパリを、フランスを離れて
ひっそりと生きていくだけの話だ。幸いなことに英語も話せる。生活していくのに不足はあっても
不満はないだろう。隣に、重衡がいる日々を思えば穏やかな凪いだ草原で生きるように、きっと歩
んでいける。
このオペラ座は見た目の華やかさとは裏腹に嫉妬と憎悪、陰謀と裏工作がはびこっている。内部の
人間にしか分からない、閉塞された世界ではのし上がるために演出家に体を開ける女の後は絶えな
いし、己より器量の勝る後輩を妬んだあまり階段から突き落とすということもある。本来ならば観
客に「見せる」という芸術を追い求めてしかるべき人間達は、だからこそひどく低俗な争いや妨害
をした。
波乱に満ちた人生は、このオペラ座を去ることで終止符を打つ。望美は鏡に映った自分をじっと見
つめた。
祖国と恋人の間に挟まれて、最期を愛しい人と迎えた悲恋の王女<アイーダ>の衣装は、奴隷と言
う身分にふさわしく質素であったが、柔らかな白と華美ではない装飾に彩られていた。古代エジプ
トを彷彿とさせるふんわりとした生地に望美はくるまれている。
『デーモンに出会うのはすごい確率でありえないことなんだよ』
かつて、生きていた父は幼い望美にこう言った。まだ小さかった望美はたどたどしい口調で父に聞
き返した。デーモンとは何か、と。優しい父親は柔和に笑って、魔物だと答える。それから少しば
かり考えて、こう付け足した。
『魔物だよ。人を狂わせるからね。一度それを見てしまったら、他のものは目に入らなくなるよ。
魔物を追い求めて、魔物を満足させるまで自分は満たされなくなるんだ』
小さな望美は父に尋ねた。お父さんは会ったことがあるのかと。夕日が空を赤く染める帰り道、左
手は父の大きな手に包まれていて、伸びる影がにゅうっと突然起き上がって自分を食べてしまいそ
うで怖かったことを覚えている。
『無いよ。無いから、こうしてヴァイオリンを弾いているんだよ』
なぜか父親は淋しそうに笑った。こちらを向いた顔半分だけが逆光で黒く塗りつぶされていて、望
美はこんな怖い話はもう止めてほしいと思った。けれど、父の語り口調は夜毎聞かせてくれるもの
と全く違わず、ついつい耳を傾けてしまう。望美はじゃあ魔物と出会ってしまったらどうしたらい
いの、と不安たっぷりに聞いた。
『その時は、きっとどうしようもないね――逃げ切るか、探し求めるかのどっちかしかないよ、き
っと』
今になってようやく分かる。父は一体何を言わんとしていたのか。心優しい父は、だから自分には
っきりと言えなかったのだろう。おそらく、彼は自分を魅せて狂わせるほどの何かに出会えなかっ
たに違いない。事実、彼は出会わないまま息を引き取り、天に召される間際、確かに望美と約束を
した。
<音楽の天使>を送るからね、と。
<音楽の天使>が何をもたらすのかも知らないまま、そうすることが最期に出来る唯一のことだと
信じて。
父は確かに幸せそうだった。記憶に残る生活を思い出して、少しばかり不自由したことはあれど不
幸だと思ったことも無ければ口に出したことも無い。母親のいない寂しさは紛らわせることが出来
なくても、上手に父が共有してくれてつらいと思うことは無かった。
「・・・・・・」
らしくも無く物思いに耽っていた望美の思考に、突如としてノックの音が入り込んできて、一気に
現実に引き戻される。ドアはまだ開いていないのに、きっとあの人だと頭は勝手に期待してしまう
。そしてその期待を裏切ることなく彼は立っている。
「重衡さん・・・・・・」
<マスカレード>で会った時と変わることない、ゆったりとして上品な空気を纏った彼は、扉が閉
じるなり望美を抱きしめて放さない。腕の中にある形や熱を、あのアポロンの下でしたように必死
に感じ取ろうとしていた。
――この人と
幸せになろうと心の底から思う。望美はゆっくりと彼の腕に抱きしめられたまま瞼を閉じた。
オペラ座最後の幕は、もうすぐ跳ね上がる。
ここにきてようやっと白虎の二人の名前登場
後はきよもりんとTOKIKOとこれもりんだけ、か……(出るの?