The Phantom of the Opera  ――第五幕休憩――




女は一旦話を切ると、ちらと横目で泰衡を見た。彼の眉間に寄せられたシワは相変わらずである。 競馬で大穴を当てても、アルプスのどこかが噴火しても泰衡はきっと顔をしかめたままだろう。


「何かご不満でもございますでしょうか、市警殿?」


そんなことはとっくに察しているはずの黒いドレスの女はやはり揶揄する口調のまま言った。別に 、とただ短く返してラムを飲み干す仕草は、彼にしては僅かながらも子供じみていたが、テーブル に合わせていた視線を女に移したところを見ると話の先を請うているようだった。


「オペラ座の屋上をごらんになったことはありまして?」

「あぁ、あの日に一応捜査したが」

「まぁ、それではあの抜け道もご存知でしたかしらね」


喉の奥で皮肉に笑う女に、泰衡はふんと一瞥して返した。


「いいや、残念ながら発見できなくてな」

「妾を睨まないで下さいな。捜査の不備を呪うならば、どうか職場に戻ってからになさって」


女は楽しそうに瞳を細めてグラスの中身を飲み干した。一瞬、二人の鼻腔にジャスミンの香りがつ んと漂い、それは程なくして消えた。

九郎はそうとは分からないくらいに小さく首を傾げて女を改めて観察する。このバーに入ったとき から目に付く黒い髪。高い位置で結い上げているのにも関わらず、背中を中ほどまで過ぎる長さで ある。つややかに流れ落ちるそれを、時折煩そうに掻き揚げては煙草を口元に運ぶ。壁一杯に並ん だ酒瓶を眺める双眸は勝気そのもので、突き放すような色香を持った女であった。

自然とこぼれる溜息を押し返すように、九郎もジンを一気に飲み干した。今夜になってから何回目 の仕草だろうか。胃にいくらアルコールを流し込んでも酔いとなって体に現れることはない。いっ そのこと前後不覚にまで酔ってしまいたい気分だった。そうしたらきっと、記憶でさえ曖昧になっ て、これから語られることを脳裏に浮かべずに済む。

もう、真相を知りたいのか知りたくないのか、九郎自身分からない。

どこでどう見計らっているのか、マスターが奥からのそりと出てきた。抑揚の無いしゃがれた声は ここに来てから何度も聴いているはずなのに、全く耳に馴染まなかった。初老の彼はゆっくりとし た動作で女の前にある灰皿を交換し、ついで三人のグラスまでも交換した。何にするか、とシワで 半分隠れた瞳で聞いてくる。


「こちらの御仁にはラムでしてよ、マスター?この方はラムがお気に召したご様子ですもの」


ラムを注文しようと軽く口をあけた泰衡の横から、やはり変わらぬ口調で女が揶揄する。決まり悪 そうにそれにしてくれと言う泰衡は、彼女に何か言いたげに視線を送って結局止めた。そうして、 九郎はらしくもなくバーボンを頼んだ。

その注文にマスターは静かに頷き、ちらと女を見る。


「そうね、ウィスキーと水を同じ分量で割ってシェイクして下さるかしら?ほんの少し、氷を入れ てね」

「それではただの水割りではないか」

「だからって、同じ味ではございませんのよ、九郎様。こうすると、両方の味がうまく溶け合って まろやかになりましてね」

「水に味もへったくれもなかろう」

「まぁ、泰衡様は水の味をご存知ないのかしら?今度飲み比べなさるとよろしいわ」


女はどこか遠くを見る目つきでマスターの動きを見ていた。彼の振る、リズミカルなシェイカーの 音が鳴り止み、三人の前にはそれぞれ似通った色の液体が差し出される。中身の入ったグラスを細 い手で持ち上げながら、女は言う。白い手首と黒い袖の対比がやけに目に付いた。


「水が取れる地方によって、味が異なりますの・・・・・・まるで人間のようだと思いませんこと ?どんな環境で濾過を繰り返したかによって、違うものになる。同じウィスキーを割るにしても、 水は非常に大切な要素」

「何が言いたい」

「さぁ・・・・・・」


回りくどさを嫌った泰衡の発言に彼女は首を傾げて流してしまう。毎回思うのだが、どこから煙草 を取り出しているのかさっぱり分からなかった。気付くと赤い唇に咥えてどうやって火をつけたの か、燃えきったマッチが真新しい灰皿のうえにある。


「<怪人>は稀代の奇術師でございましたわ・・・・・・妾が見た、最大の<奇術>のお話をいた しましょう」


五番ボックス案内人は紫煙を吐き出した。










案内人のオーダーは某ミステリより拝借
この人たちのザルっぷりに乾杯(ぇ