The Phantom of the Opera  ――アポロンの竪琴 2 ――




瞳を閉じても明けても闇が見える。

腕の中、泣いているのかそうでないのか、望美はじっと固まったまま身じろぎ一つしない。控えめ に繰り返す呼吸のたび、小さく上下する薄い肩。時折吹く風に揺れる藤色の髪。


「望美さん」

「・・・・・・」


呼びかけても答える様子はない。けれど、自分の背中に回された手が、より一層きゅうと掴む力が 強まった。


「こちらを向いて、私を見てはくださいませんか、望美さん」


望美の体に回していた腕を外し、ゆっくりと彼女の頬を包み込んで上を向かせると――新緑の瞳が 涙で濡れていた。音もなく、幾度も幾度も滑らかな頬を滑り落ちては跡を作り、顎の終わりから胸 元へと染みを作る。何か言いたげに淡く開いた唇は、一体どんな言葉を紡ごうとしているのか。

望美が言葉を重衡に伝えるほんの一瞬早く、彼はその口を甘く塞いだ。

触れ合った頬に、涙を感じる。


「・・・・・・」

「・・・・・・私は」


ゆっくりと唇を離した重衡は、しかと望美の双眸を捕らえて言った。どうかこの想いが余すことな く伝わるように願いながら。それはどこか祈りにも似た気持ちだった。好きでも愛してるでも伝え きれないこの心の揺れ動き、感じる穏やかさ、ほんのりと色つくようにせりあがる感情。このすべ ての想いを、どうしたら彼女に伝えられるのか。


「望美さん、貴方が好きだ。もうご存知でしょうが・・・・・・伝えずにはいられない」

「しげ、ひらさん」

「半年後にはフランスを発たねばなりませんが、それでも、それまでの時間を貴方と過ごしたいと 思っています。もちろん、北極から帰って来ても」


北極遠征隊の過酷さを知らないわけではない。航海技術が格段に向上した昨今とはいえ、北の果て にある地を探索し、研究し、そして生き延びることがどれだけ難しいかは生存率が物語っている。 彼のように若く、家柄もよいものがなぜそんな遠征に加わるのか、重衡の周囲はしきりに首を捻り 一様に同情の目を向けた。

重衡が遠征に加わると決めたのは純粋なる好奇心――未開拓の地を自分の二本の足で踏んでみたい 、二つの目で見てみたいという思いと、代々平一門は海軍のどこかに属さねばならないというしき たりの結果である。今まで、彼はこの境遇を決して後悔したこともなければ、悲観したことも無か った。けれど今このときばかりは、赦された半年という猶予を恨みたい。


「貴方と過ごす時間が長ければ長いほどいい・・・・・・そう、命が消えるそのときまで」

「重衡さん、それは」

「私は、貴方が苦しいときはその苦しみを代わりに受けたいと思う。貴方が嬉しいと思うことを私 も共有したいと願う。望美さん・・・・・・私は、ひどく我がままで独占欲の強い男なのですよ」


貴方は知らないでしょうけれど、と重衡は続けた。宝石にも勝る二つのアメジストが柔らかに緩ん で、望美を拘束する。彼が何を言わんとしているのか、痛いくらいに分かって、それがまた涙を誘 って仕方ない。

<怪人>、知盛が即効性の劇薬だとしたら、この人は緩やかに侵食してくる緩慢な毒だ、と望美は 思った。

母にも父にも先立たれて生きる術をこの喉一つに託してきた彼女は、誰にも悟られることなく強く なるより他なかった。芸術は時に人を殺す。支配されつつも逆にこちらが操る程の心持ちでなけれ ば取って食われる。誰か自分以外に頼ること、それは即ちオペラから身を退くときだと信じて疑わ なかった望美は、何と応えてよいのか分からない。ゆりかごに揺られて眠るように過ごす、穏やか な日々をすぐに思い浮かべることが出来なかったのだ。

幸せな家庭を望んだことが無かったわけじゃない。目覚めて、夫と子供のために食事を用意して、 気まぐれに歌を歌い、それを子供に教え、日々の平和に感謝しながら眠りに就く――当たり前の、 路地で見かける光景を自分の身に置き換えては夢を見ていた時期もある。あるのだけれど。

あの<声>を知ってしまった。


「・・・・・・でも、重衡さん、貴方は」

「家を気にかけますか?それは問題ありません」


重衡はこともなげに告げた。


「私は貴方とともに生きられるのならば、平の姓を捨てる覚悟です」


まるで明日の天気を告げるような口調でもあった。気軽に口にしていい内容の話ではない。社交界 屈指の名門の重衡と、一介のオペラ歌手に過ぎない――どんなに名声を得ている歌手であっても― ―望美では身分の違いは否めない。否めないどころか、フランス中から非難されるであろう。ある 種閉鎖的な世界、ともすれば根拠の無い選民思想がはびこる上流階級では、生涯の伴侶もそれなり の地位を要求してくる。平一門であればなおさらのことだ。


「ダメです!そんなこと・・・・・・!お願いです、そんなこと言わないでください」

「でも、こうでもしないと貴方は手に入らないでしょう?」

「重衡さん・・・・・・!」

「望美さん、私はね、貴方と生きられるのならば平の姓も雨風を凌ぐ家もいらないのですよ。目の 前に暗雲が垂れ込めていても、どんな荒野でも、貴方が隣にいてくれれば生きていける――貴方が 、好きなのです」

「・・・・・・っ!」


声にならなかった。

何のためらいもなく言ってくる重衡の言葉が、望美の胸に一言一句漏れることなく染み込んできて 、容赦なく心を揺さぶってくる。緩慢に作用する毒はゆっくりと望美から声を奪い、救いを求める ようにただひたすら、重衡を見つめるだけだ。そうして、溢れ出した涙を彼はゆっくりとその唇で 掬い取った。


「どうか、貴方を私に下さいませんか・・・・・・地位も何もかも失った私が与えられるものは私 自身しかないけれど・・・・・・幸せにします」


闇の色に身を包んだ女はついに、純白の男を抱きしめた。もうこれ以上言わないでと。

自分の腕では余るくらい広い胸、肩。抱きしめ返してくれる暖かで長い腕。今この瞬間だけは何も かもを忘れて、そう音楽も<怪人>も忘れて縋り付いた。

自分の言葉に何も返さない望美を重衡はどう解釈したのか、それでも行動一つで明快すぎるほどに 分かってしまった。アダムにイヴが必要だったように、自分にもこの女が必要なのだ。幼い一時を ともに過ごした女性、彼女の父が語るフェアリーテールにともに耳を傾けた存在。あのときからき っと、こうなることはすべて神が決めていたのだと信じて疑わなかった。


「・・・・・・?」


信じて疑わない重衡の感覚に、何か一枚の紙が挟まっているような違和感が迫る。そう、望美と自 分と、それ以外の第三者の視線を感じているような。奇妙な感覚に辺りを見回してみても、そこに はだだっ広い屋上、それも闇に塗りつぶされて辛うじて腕の中の望美だけが認識できるような暗闇 が広がっているだけだ。

昼間ならば目の保養にもうってつけの、彫刻による神話の再現は一枚の大きな壁に遮られたように 見ることは叶わなく、彼らを見下ろすアポロンでさえそこにあるのか無いのか不定のものであった 。だから、その背後に潜む赤い影などどうして気付けようか。

気まぐれに吹いていた風はいつしか厚い雲を押しやって、天蓋にちりばめられた星々の姿を代わり にもたらした。大小色とりどりの鉱石をあてもなくばら撒いたような星空はどこまでも果てしなく 、夜の深まりとともに存在感を増してゆく。

つ、と面を上げた望美はしっかりとアメジストを見つめた。

この顔によく似たあの人は、この人とは真逆の空気と時間で以って自分を地下の、太陽の光でも入 り込めない空間に縛り付けていた。そして囁く声は悪魔の声。天使長の囁きに耐えられなかったエ バが誘い込まれて逃げ出せなかったように、望美もまた逃げることの出来なかった三日間。音に漬 かり音を追い求めて過ごしたあの時間は、望美が何をしてきたのか暴き立て、今まで培ってきた己 の個性まで奪い去られるようで――恐ろしくもあった。


「二週間後」

「え?」

「二週間後に、新年の舞台があります」

「出演、するのですか?」


こちらをじっと見つめてきた望美からこぼれた、思いも寄らなかった言葉――いささか場違いとも 思える――にほんの僅かの間だけ瞳を見開いた重衡は、それでも続きを待った。望美は何かを覚悟 するように自分の舌で唇を湿らせ、頬に添えられた手に自分のものを重ねた。


「それで、最後の舞台にします・・・・・・」

「望美さん」

「あたしはきっと、一生歌い続けるでしょう。だけど、二週間後の舞台が、人生最後のステージで す」

「私に、答えてくださったと思っていいのですか?」


子供のようにきょとんとして見つめ返してきた重衡の瞳に、喜色が浮かぶ。だが、それを望美は幾 分か冷たい声音で制した。


「ただし、その舞台は彼のために歌うことを許してください」

「<怪人>のために?」


自分のためにではないのかと出掛かった言葉を喉の奥に押し込めたのはやはり望美の瞳であった。


「あの人は、知盛はあたしに歌を――音楽を教えてくれた。その、せめてもの恩返しに」


それは少なくとも重衡に選ぶ権利の無い選択肢であった。嫌だと言ってしまえば望美は舞台から降 りない。つまり、あの男から離れないということを意味している。彼女は自分と生きることを決め ているのはもう明白の事実だ。そうはっきり言葉にすることは無いが、重衡は待ち望んだその瞬間 を無下にするほど愚かではなく、同時に愛しい女の我がままを盲目的に受け入れてしまうほど愚か だった。


「いいでしょう・・・・・・二週間後。舞台が終わったら楽屋へ迎えに参ります。馬車を用意いた しますから、そのまま」

「・・・・・・はい」


星の輝きが褪せるのは月が姿を現したから。雲が、ランプの上に掛けられた布を取り払うかのよう に月の前からなくなってしまえば、地上に落ちる影をもたらすだけだ。青白い光に照らされた二人 の影が重なり合い、これからの時間を寄り添って生きると決めた彼らは――やはりもう一つの影に 気付かないままだった。












重衡なのか銀なのか……びみょーもいいとこorz
覗き見チモリーヌに乾杯(ぇ