The Phantom of the Opera  ――アポロンの竪琴 1 ――




アポロンはギリシャ神話の中でも、際立って美青年であったにも関わらず悲恋を多く経験する神で ある。太陽神として崇められる一方、音楽・予言・詩歌・芸術を司るアポロンは、竪琴を抱えて奏 でる坐像か円盤を右手にしっかりと持ち今にも放り投げそうな立像で模られることが多い。

オペラ座の屋上にあるのは言わずもがなであるが、坐像のほうだった。それの真下、台座の部分か ら二つの影が冬の寒空に這い出てきた。片方は一度消した手燭に火を灯し、もう一方はもの珍しそ うにあたりを見回していた。


「本当に……本当にここに出るとは」

「この道は知盛・・・・・・あの人が教えてくれたんです」

「知盛?」


重衡は燭の小さな光に照らされた望美の顔を見つめた。吐く息が白くけぶって、強い風に流されて ゆく。曇天は真っ暗なくせに重たくのしかかるようで、眼下に広がるパリの夜景は新年を祝う華や かさに彩られていた。

望美の唇からこぼれた男の名前に、重衡は思わず眉根がよってしまう。望美はローブを取り払い、 自らの腕で体を抱きしめた。


「あの人との三日間をお話します、今、この場で」

「なぜ?」

「・・・・・・」


重衡の、至極もっともな質問に望美はふるふると頭を振った。長い藤色の毛先が彼女の胸のあたり で踊り、さらに風で乱れる。色をなくしたかのように見えるその顔色は果たして寒さによるものか 、そうでないのか。重衡は言葉の続きを待った。


「今、お話させてください。でないと、もうこの先貴方と顔を合わせることも出来なくなってしま うかも知れない」

「・・・・・・?意味が、よく」

「あの人は、知盛は、オペラ座にいる間だけはあたしを貴方に会わせてくれたの」


それはまるで計算されたゲームのお話。望美はゆっくりと息をつき、額に手を当てて一度固く閉じ た瞳を真っ直ぐに重衡に向けた。凄惨なる美しさと透明さをたたえたその瞳は、これから告白する ことの恐ろしさを十二分に伝えてくれる。


「何が・・・・・・あったのです」

「初めに言っておきますが、あの人は何一つ傷つけようとはしませんでした。ただ、起きてオペラ を奏で、そしてあたしに歌わせ、彼自身も作曲をする――たったそれだけ、でした」


重衡の悪い想像を牽制するかのような望美の言葉に、彼は何と返したものか窮してしまう。聞きた いことは山ほどあるのに、なぜだか今はこれと言って言葉になるものがない。ひゅうと空音を立て て風が吹きぬけた。燭の炎が一旦消えかけ、それから再び勢いを取り戻す。


「彼は、彼の音楽はそう・・・・・・。神に愛されるというよりも、神さえも虜にして翻弄するよ うな・・・・・・あらゆる意味で『聴いていられない』もの。そして同時に『聴かずにはいられな い』もの」

「・・・・・・」

「わかりますか。耳を塞ぎたいのに続きが聴きたくなるような音楽を。あの人は全てを呪って遊ん でいる人でした」

「それで」


重衡には望美の言葉の半分も理解できなかった。一つ一つの単語は簡単に理解できるような分かり やすいものなのに、分からなかった。

おそらく、重衡が<音楽>に身を投じていた者ならば察したのかもしれない。それは同じ境遇に身 をおいた者が一定の情報や思想を根底で共有しているからこそ通じるものであって、門外漢にとっ ては理解不能以外の何物でもない。丁度、彼ら二人が幼い頃の記憶を共有しているのと同じように 、望美と<怪人>――知盛は音楽を媒体として言葉では表せないものを共有しているのだろう。


「それで」


どうしたのです、と重衡は口を開いた。望美は答えが足元に転がっているかのように視線をそこに 固定して話を続けた。


「あたしが目覚めると、彼がいました。それから・・・・・・仮面をとって・・・・・・仮面の下 、に」

「下に?」

「知盛はこのオペラ座で噂されるような髑髏ではなくて、重衡さん」

「はい」

「貴方に・・・・・・貴方と良く、似た男の人でした」

「な・・・・・・」


何を馬鹿なと呟いた声が彼女に聞こえたかどうかは定かではない。しかし、望美は足元から彼の顔 に移した視線を外そうとはしなかったし、燭に照らされた瞳が何よりも真実であることを物語って いた。世の中には似た人間が三人はいるという話があるが、自分に似た男が不吉の代名詞、<オペ ラ座の怪人>であることに、どう反応したらいいのかさっぱり分からなかった。一笑に付しても彼 の顔を見た望美は悲しく否定するだろう。かといって憤慨したところでどうなるものでもない。

傍目に見ても訳の分からない反応をした重衡に、誰かの笑い声が聞こえた気がした。


「たった一つ、決定的に違う点があって・・・・・・悪魔の十字架、が」

「悪魔の十字架?あの中世の、魔女狩りの?」

「そうです。忌むべき悪魔と裁判で認定された女に刻まれたというあの十字架が、顔の右側に」


望美は自分の指で顔に十字架を描いた。


「針金で深く、直接刻み込まれた十字架があって」

「待ってください、望美さん。本当に?あの十字架を正確に知る人間なんかもういないはずだ。そ れに、そんなものを顔なんかに刻まれるとは・・・・・・それは、どういうことですか?」

「分かりません。あの人は話そうとはしなかったし、あたしも聞けなくて」


中世の魔女狩りは狂気の捌け口であった。民衆はどこにも行き場の無い不満不平、憤懣を罪の無い 女にぶつけ、殺し、それを喜んだ。歴史上でも屈指の汚点である過去の遺物がなぜ、<怪人>の顔 にあるのか――訊ける人間がいたら見てみたい。刻まれたのか、はたまた自ら刻んだのかはこの際 問題ではないのだ。それを体のどこかに持っているという事実、それだけで何を意味しているのか は明瞭である。

どうしようもないほどの悪――それだけだ。


「でも、それでも彼が、知盛が一度歌いだすとあたしは――自分でもコントロールできなくなって しまうの」

「・・・・・・」

「彼の歌や音楽はそういうものなの。惹き込まれて流されて戻れない。だから、だから聴くのがと ても恐ろしい・・・・・・彼はあたしにいくつかのオペラを歌わせた。たまに合唱もした。疲れた ら眠って、お腹が空いたら何かを食べる。全部、音楽と歌の合間に繰り返してた」

「・・・・・・」

「知盛は一度だけ、あの人が作った曲を弾いてくれた。あたしはあんな曲を生まれてから初めて聴 いた。それこそ、もう二度と戻れないと思ってしまうようなものだった。崇高で神々しいほどに悪 魔的。あれが本当の音楽、オペラだというのなら、あたしが今まで歌ってきたのは一体何だったの ?あたしが眠ってから彼はあの曲を作っているみたいだったわ。誰にも聴かせないように隠してい るところを、あたしが見つけて弾いてもらったのだけれど」


望美は自分の耳に手をやった。出来ればあのときの記憶を、音を耳から取り除いてドーバ海峡にで も放り投げたい。そんな仕草だった。聴いたことを後悔するほどの傑作とは、一体どんなものか重 衡には想像すらつかなかったけれど、彼女の意識が現実から離れていくようで、それだけが怖かっ た。瞳が宙を睨んでいる。


「時々、不意に姿を消してはやけに上機嫌で戻ってくるときがあった。そんなときはあたしを<湖 畔の家>から連れ出して、オペラ座の<裏通路>を歩いて回ったわ」

「・・・・・・そのときに、逃げ出そうとはしなかったのですか?」

「逃げる?どうやって?道を知っているのはあの人だけだったし、引き返したところで元の所に戻 れる保障もなかった」


それは重衡も体験済みであるので納得できた。あの順路を逐一記憶するだけでかなりの年月を要す るであろうし、誰か先達があって行き来できる複雑さであった。


「それだけ、ですか・・・・・・?」


それだけのことならば、なぜ今まで三ヶ月も頑なに口を閉ざしていたのだと聞きたい。そんな重衡 の心の内を読んだのか、望美は小さな唇をかみ締めて眉をゆがめた。ローブの皺から見え隠れする 右手に金色の指輪が光った。


「あたしが彼のところに行ってどれくらい経ったか分からないけれど、彼は唐突に聞いてきたの。 上に戻りたいか、と。あたしは戻りたいと答えた。なぜと言われて、みんなが心配しているだろう からと言ったら、知盛は笑ったわ。本音は貴方に、重衡さんに会いたいだけだろうと言って」

「・・・・・・でも、戻ってきたではないですか」

「条件があると言った。あたしが彼の信頼を裏切らないという――それがこの指輪」

「それがどういう意味を持つのです?」

「あたしはオペラ座から出ない、誰にも話さない、この指輪を外さない。知盛は言うの。あたしが 貴方を何とも思ってなければ避ける必要はない、オペラ座から出ないという条件さえ守れば、会っ ていいと。戻ってみたら、たった三日しか経っていなくて・・・・・・初めは混乱して、朔からオ ペラ座で大騒ぎになっているって話を聞いてやっとわかったの」


重衡は望美の右手人差し指にはまった指輪を見つめながら、なんという悪趣味なゲームだろうかと 思った。人の心を玩んで笑っている顔が目に浮かぶようだ。しかも、その顔が生まれてこの方ずっ と付き合ってきた自分の顔そっくりだとはなんたる皮肉か。


「なんて・・・・・・なんて酷い」

「そう、酷なことを言う人でしょう?でも、あたしはそれでも貴方に会いたかった・・・・・・!」


望美の新緑の瞳は見る間に潤んでいって、今にもこぼれてしまいそうだった。じっと見つめる二つ の双眸に誘われて、重衡の足は急激に距離を縮める。抱きしめた体は冷え切っていて壊れそうなく らい震えている。広い胸と暖かな体温を感じながら、望美は続けた。


「どんな条件をつけられても良かったの。あの<声>から離れて、重衡さんと話したかった。向か い合って笑いたかった。だから、必死で」

「はい」

「貴方が、あの三日間をどう思っているのか分からなかったわけじゃない。けれど、話すには危険 が大きすぎた。あの人はきっと、貴方を殺してしまう――だから、話せなかった・・・・・・!」

「もう、いい」


重衡は藤色の髪に覆われた小さな頭を掻き抱いた。きゅうと彼女の手が背中辺りを掴んだのが分か る。かちゃんと軽い音がして、望美が手にしていた手燭が下に落ち反動で明かりが消えた。一瞬の 後、強い風が連れてきた闇にあたりは真っ黒に塗りつぶされて、今、彼が抱きしめるこの体温だけ が確かなものに感じた。












驚くほどのんのセリフが長い
悪魔の十字架と魔女狩りについては嘘八百(いつものこと)