The Phantom of the Opera  ――仮面舞踏会 2 ――




いついかなる時、場所でもやはり新年と言うのはおめでたい。特に、摩訶不思議なことが日常茶飯 事で起きていたオペラ座がここ三ヶ月は何も無かったのだから、おめでたさはより一層華やかさを 増しみんなこぞって浮かれる。背後に<怪人>を控えた催しは誰しもその存在を忘れようとして出 来なくて、しかしそれでも忘れようとしてとにかくはしゃぐ。仮面を被っていれば誰が誰で身分や ら言葉使いやらを一切気にしなくて良いのだから、無礼講にしないほうが無理である。

浮ついた会場を泳ぐようにして人並みの間をすり抜ける赤い影が居た。真紅のマントに目が痛くな るような真紅の燕尾服。パリのどの仕立屋に頼めば作ってくれるのかと聞きたくなるような衣装で あった。ご丁寧に彼の――体つきからして男と分かるというだけであって――つけている仮面も真 っ赤だった。

しかしそれ以上に人々の視線を集めるのはマントに書かれた文字「触れるものは皆七倍の復讐を受 ける」だ。酒に酔った男が気まぐれにその人物に声をかけた。


「たいそうな刺繍じゃあないですか!どこの店であつらえたんです?」

「・・・・・・」


赤い人物はくるりと振り向いたまま何も言わない。仮面の奥からじっと見つめているだけである。 酔った男は酒に支配された頭でさらに絡みつく。吐く息がアルコール臭をたっぷりと含んでいて、 それを吸うだけでこちらが酔ってしまいそうなほどである。


「いやだなぁ、新年ですよ、新年!<怪人>が現れない新年!さあ教えてくださいなぁ」

「・・・・・・この文字も読めぬ、か」

「あぁ?なんですって?おや、これはまた珍しい・・・・・・」


酔った男の取り巻きが近くでやいのやいのと騒ぎ、赤い人物に群がってきた。この生地は上等だ、 刺繍が細かい、ボタンが珍しいなどと到底中年男性の口にする言葉とは思えないことを言い、やは りどれも酒の匂いとは無縁ではない。赤い人物が仮面の下でく、と喉の奥で笑った気配がした。


「ちょっと触らせてくださ・・・・・・」


初めに話しかけた男が手を伸ばしたその時。紅いマントの合間から白い男の手がにゅっと出てきて 思いもよらぬ力で彼の手首を掴んだ。それも、容赦の無い力で。

手首を掴むその手は骨ばってはいるものの、決して華奢な印象は受けない。綺麗な五本の指が細く は無い手首をぎりぎりと締め付ける。骨が軋みをあげる激痛に、酔った男は急激に酒の支配から脱 し、果たして紅い人物の白い手からは逃れることが出来なかった。


「七倍の復讐を受ける・・・・・・覚悟はおありかな?」

「・・・・・・・!」


声もなくもだえる男を、しばし取り巻きが唖然として見つめ、次に紅い男を見た。笑っている。 小悪な笑みを浮かべている。悪寒が背骨の隙間から徐々にしみこんでくるような笑みだった。


「お・・・・・おい、あんた!」

「余興はこれくらいにしておこうか・・・・・・?」


尊大な態度をもって彼は男をようやく放した。せいぜいお気をつけあれ、と言い残して優雅に立ち 去る背中を見やりつつ、取り巻きの一人が呟いた。

アレはまさか<怪人>では、と。





重衡は真っ白なゴーストのいでたちであちらこちらに顔を出している。今のところ、彼が「平重衡 子爵」であるということは誰にも気付かれていない。もっとも、普段ならば厳かに壮麗な威厳を以 って芸術を見せるオペラ座は、今だけは酒と音楽とダンスに浮き足たち、まるで街中の陽気な酒場 の雰囲気をかもし出しているのだから、彼が誰であるかなど気にもかけていなかった。

望美との待ち合わせ時刻はもうすぐだ。決して六番ボックスに直行せぬようと望美からの指示で小 一時間ほど辺りをぶらついていたのだった。

差し出されるシャンパンを気まぐれに受け取り、そこいらにおいてあるテーブルからパテやブルケ ッタをつまみ、ぼんやりと周囲を見回す。望美らしき人物はいまだ見かけてはいない。笑い声と冗 談に満たされたオペラ座は年に一度、今日この日だけのものだろう。

歩き回ってみるとこのパーティは意外に面白い。いつもは劇場の一段下に作られたオーケストラボ ックスにいる演奏者達、華やかな舞台の裏を汗まみれで支えている監督や演出家、そしてステージ を飾るバレリーナや歌手が一緒くたになって笑いあっている。とくに、物静かさを好むと聞いてい た一等コンダクターであるリズヴァーンを見かけたのには驚いた。オペラ座が抱える指揮者の中で も彼のタクトを気に入っていた重衡は声をかけようかとも思ったが、正体を悟られることを嫌って 止めておいた。


「・・・・・・」


さてそろそろ六番ボックスに向かおうとし重衡は、上から下まで真っ赤な男とすれ違った。毒々し いまでの緋色である。色とりどりの衣装が溢れる中、その人物だけは周囲と一線を画しており、自 分と同じ銀色の髪をしていることに気がついた。


「・・・・・・」


とんと肩がぶつかり、重衡は無言で会釈を返したがその人物はゆっくりと振り返りにぃと笑うだけ だ。背中の文字に目がいったがそれを読みきる前に彼は人ごみに紛れてしまった。

六番ボックスには愛しい望美が居るはずである。





パーティの会場となっているエントランスや広い踊り場とは同じ建物内にあるとは思えないほど、 劇場は静まり返っている。音楽と歌声の欠けたステージはただの一段高い空間であり、誰も座って いない客席はただ椅子が整列しているだけの存在である。六番ボックスに着いた重衡は、薄暗い空 間に視線を向けたまま望美を待っていた。

なぜ彼女がこんなところを待ち合わせ場所に指定したかその真意は知れない。いや、もう謎と不可 解さは山積していまにも崩れて自分の口から溢れそうである。一度崩れたら最後、雪崩のように噴 出してどこまでも望美を飲み込んだまま流れていってしまうだろう。


「・・・・・・っ!」


どこからともなく現れた気配に勢いよく振り返ると、そこには小柄なゴブリンが立っていた。ゴブ リンは牙のはみ出した口元に白い人差し指を立てている。


「望美さん・・・・・・?」

「何も言わないでください」


漏れた声音は確かに望美のものだった。真っ黒な艶のないローブを頭からすっぽりとかぶり、顔の ある部分には牙をむき出しにしているもののどこか滑稽な小鬼の仮面。あぁ、それでも重衡には空 気中を伝わる気配からそれが誰であるかわかってしまう。何かにおびえたように震え、しきりにボ ックスの扉を気にしている。抑えた声で再び黙ってと繰り返した。


「また、お約束ですか・・・・・・いいでしょう、何も言いません。ですが、代わりに貴方の顔を 見せてはくださいませんか?」

「・・・・・・」


ゴブリンはしばし逡巡した後、ゆっくりとその仮面に手をかけた。仮面の下からはいつもの、変わ らぬ望美の滑らかな頬が現れる。ついで、頭を覆う布に手を伸ばし、一気に背中へと払うと柔らか な輝きを持つ藤色が見えた。仮面に押さえつけられて額に張り付いた前髪のすぐしたから、新緑の 瞳がじっとこちらを見つめてくる。


「・・・・・・」

「・・・・・・」


無言で二人は視線を絡める。遠くからパーティのざわめきが伝わってくる。呼吸のたびに肩が上下 し、薄暗い中で先に口火を切るのはどちらからだろうか。望美は重衡の面からついに目を逸らし、 はだけたローブと取り外した仮面を再び身に付け、衣擦れの音だけをさせて扉のドアノブに近寄っ た。


「どうか、こちらへ・・・・・・ここではお話できません」

「分かりました。どこへなりと」


重衡の返事を聞くや否や、最小限の動作で扉を開け廊下へと体を滑らせる。続いて彼が出てきたこ とを確認すると後は真っ直ぐ前を見て歩き出した。足取りは確かである。開演前や幕間の休憩に利 用されるサロンを通り抜け、赤い絨毯が敷き詰められた階段を上り、前もって用意していたのか、 手燭に火をともして扉と壁の隙間に手をやって道を探り当てる。こんなところに通路が、と重衡は 驚くが深く考える前に自分の先を行く小さな背中を追う。

彼女は時々振り返り、ちゃんと重衡がついてきているか確かめ、同時にもっと後ろを見ているよう だった。まるで、誰かの尾行を恐れるように。何度も通路を曲がり、階段を上ったかと思いきや下 る。螺旋を描く階段に足を掛け、直線に伸びる狭い通路を体を斜にして進む。望美は重衡が見失わ ない程度にしかしくっつくというわけでもない一定の距離を保っていた。

なぜ望美がこんな、裏の通路を知っているのか重衡には甚だ謎であった。そもそも、彼女には謎ば かりが付きまとう。楽屋の外で立ち聞きしたあの<声>、<怪人>にさらわれた三日間、そしてこ の<裏通路>。オペラ座はもともと国が誇る重要機関のひとつであるがゆえに、他の建物と比べて 多少複雑なつくりになっているとは言っても、こんなふうにまるで蜘蛛の巣のようにめぐらされた 通り道の存在を、一体何人が完全に把握しているのだろう。

つらつらと取り留めのないことを考えているうちに追っているはずの小さな背中を見失ってしまっ た。心臓がどきりとひとつ跳ねる。それでもしっかりと目を凝らせば、自分の進行方向があと少し で行き止まりであることが分かった。そこに、望美が立っていることも。


「この扉の向こうに、もう一つ階段があります」

「・・・・・・はい」

「それを上りきると、屋上に出ます」

「屋上、ですか」

「えぇ、丁度、<アポロン>の真下に」


六番ボックスで見せたように、望美は薄く扉を開けると最小限の仕草でその向こうへと体を滑らせ た。当然のことながら重衡もそれに続く。急勾配の階段を二人は言葉を交わすことなく上ってゆく 。新年の祝い事から離れた、芸術をまざまざと見せ付ける建物の屋上へと――背後に忍び寄る、紅 い影に気付かぬまま。

あぁ、アポロンはこの寒空の下、どんな音色を彼の竪琴で奏でているのだろうか。












お重以上にちもの衣装が奇天烈
酔っ払いに愛の手を!(えっ