極上の歌声は悪魔の囁き

最上の愛は永遠のゆりかご




The Phantom of the Opera  ――開演前――




一年ほど前、パリの中心であり芸術の中心であったオペラ座で、天井に吊るされた200tの シャンデリアが落下するという事件が起きた。

聖書の一場面を描いた丸天井から落下したそれは、蝋燭の緋色の炎を一瞬にして血の赤に変え、 砕け散ったクリスタルがまるで雨のように降り注ぐ様は、無残以外の何物ではなかった。

その場面を再現するつもりはなくとも、泰衡が今読んでいる書類には延々と状況がつづられており、 嫌でも脳裏に現場が浮かんできてしまう。小休止がてら、ふうと息をついてすっかり冷えてしまっ たコーヒーをこくりと嚥下する。

パリ市警の一室は夕日のオレンジに満たされていつの間にか夜が迫る時刻となっていた。薄っぺら い木製のドアをノックする音がしたかと思った次の瞬間、 僅かに開いた隙間から同僚の九郎が顔を覗かせた。


「・・・・・・九郎、ドアを開けるなら返事を待ってからにしろと何回言わせる」

「あぁ、すまん」


返事を適当に口にしながら体を滑り込ませる。橙色の髪を項の辺りでさっぱりとまとめ、 階級に不釣合いなスーツはくたくたになっていた。何か言いたそうに口を開くが、 言葉を発する前に諦めてしまう。普段は実直で飾ることを知らない瞳が、不安に揺らいでいた。


「なんだ、言いたいことがあるなら早く言え」


対する泰衡はしかめっ面をさらに深くして言う。真っ黒な髪を九郎と同様、項辺りでざっくりと 留めているが多少の乱れが一日の煩雑な事務を表している。常にアルプス山脈のどこかが噴火し たかと勘繰ってしまうほどしかめられた眉が、早く言えと無言のうちに迫っていた。


「・・・・・・まだ、オペラ座の事件を追っているんだろう?」

「あぁ」


確認するような九郎の問いかけに、簡潔すぎるくらいに相槌を打ち、それがどうしたと訊ねる。 が、その視線を受けても九郎はやはり困ったように瞳を伏せてためらっている。

ためらう理由は、捜査が酷く中途半端だったのにも関わらず半ば強引に幕引きを見せ、そう仕向け たのが政府の芸術省の役人からの圧力があったということに他ならない。それでも上司の目を盗ん で捜査を続行する泰衡も泰衡なのだが、自分から付き合ってあちこち駆け回る九郎にも責はあるだ ろう。

だが、今回知らせようとしている情報を、九郎は本当に伝えていいのか本人の中でしつこいくらい に逡巡しているらしかった。


「その」

「なんだ」

「事件の関係者の居所が知れたと言ったら、どうする?」

「・・・・・・は?」


思っても見なかった九郎のタレコミに、泰衡は暫し停止してしまった。

オペラ座を巡る一連の事件で、関係者は善良な市民の義務として嘘偽りなく供述したのだが、 パリ市警には到底理解できるものではなかった。それはまるでたった今しがた幕を下ろした舞台 のあらすじを聞いているかのようで、現実味がなくそれでいて話している本人は本当だと言って 聞かないからさらに対応に困る。

そうこうしているうちに捜査は打ち切りと相成り、関係者もパリを離れるものが続出した。 一過性の熱が下がった後は一様に口をつぐみ――ここにも圧力がかかっているのだろうが――さ らに移住してしまった者の行方はようとして知れないのが現状だ。


「だから、オペラ座の女管理人の居所を掴んだんだ」


九郎は大きく息を吸い、そして吐き出しながら一気にそう言い切った。そうすれば少しは胸のつか えが取れるかと思っているように。一方、泰衡といえば九郎のもたらした情報が正しいのかどうな のか、むしろこの情報はからかいの種ではないのかと、すばやく頭を回していた。

しかし、単独で事件を追っている彼にとってはまたとない情報である。

飛びつかないわけがない。


「会えるのか」

「そういうと思って、この時間帯の居場所は掴んであるさ」


九郎は晴れやかに笑って答え、呼吸三つのうちに二人は部屋を後にしていた。

これが、長い長い夜の始まりだった。




そこはパリの中でも細い路地をいくつか入り込んでさらに地下に作られたバーだった。階段を下り て木製のドア――ものすごく細かい彫刻が施され、ぶ厚い――を開けるというより力いっぱい押し て店内に入ると、まず目に留まるのはカウンターいっぱいに置かれた酒のビンだ。

色とりどりのそれにガスランプの光が乱反射し、泰衡の目に刺さる。細長い作りのこの店は、 パリ・コミューンの際に逃げ場として設置されたものと推察でき、初老のマスターがこちらをちらと 見てすぐに奥に引っ込んだ。

店にはカウンター席しかない。ぶ厚い扉と壁に守られたこの店は外界から完全に遮断された世界を 作り出していた。耳に届くのは一番手前で飲んでいる男二人の所作音とグラスがテーブルに置かれ る音、それから自分の呼吸だけだ。

ここは息苦しいくせになぜか居心地のいいところでもある。世知辛い世間からほんの僅かな間、 そう一晩だけでも離れることが可能な店であり、けれどずっといられるというわけでもない。


「彼女だ」


九郎が泰衡に囁く。

手にしたコートをどうすることも出来ず、かといって席につき兼ねていた泰衡は、九郎の視線を辿 ってさらに奥を見た。

七席しかないカウンターの一番奥、磨きこまれた木製のテーブルは比喩ではなく鏡のようでそこに 座る人物をさかさまに映し出している。暗がりの横顔でも分かるほど勝気な双眸が酷く印象的で、 カラスの濡れ羽髪とも言うべき黒髪を高い位置で結い上げた女性。気まぐれに紙巻煙草を赤い唇に 運び、交互に酒を飲んでいる人物。


「あれは・・・・・・五番ボックスの」

「そうだ五番ボックスの案内人でオペラ座の管理人だ」


取調べにおいて、当局に一番まともな証言をしてくれるかと期待を抱かせ、それを見事に裏切った 女性でもあった。黒を基調とした服装は一年前と変わった様子はない。彼女はまるで十年前から変 わった様子がなく、また十年後も同じ姿でいるだろうと思わせる雰囲気をまとう、とても不思議な 女性だ。

一向にこちらに視線を向けないが気付いてはいるらしかった。


「今晩は」

「名前を呼ばないで下さるとありがたいわ」


挨拶も何もかもすっ飛ばして彼女は九郎の言葉を遮った。ふうと紫煙を吐き出して、ようやく二人 向かってにやりと笑ってみせる。


「一年前の事件を未だに追ってるだなんて、司法当局もずいぶん暇ですこと」


皮肉を一つ、今晩の挨拶代わりにして彼女は二人に席を勧める。泰衡と九郎は笑って流せばい いのかそれとも気の利いた皮肉を返せばいいのかしばし考え、結局黙って彼女の隣に落ち着いた。

絶妙のタイミングでマスターがラムを差し出す。


「ずっと、パリに居られたのか」

「ええ、妾はパリに生まれてパリに死ぬ女ですもの」

「オペラ座の・・・・・・」

「名前を出してくださるなと申しましたわ、九郎様?あの事件のお話を聞きたいのならお口 にお気をつけ遊ばせ?」


女は相変わらず飄々としていて、事件のことを話す気があるのかないのか九郎の目には判断が つきかねた。空いたグラスを音を立てずにテーブルへと戻し、新たな煙草を咥える。


「貴方は、話す気がおありか」

「一年前に洗いざらいお話したはずですけれどもね」

「あんな話を信じろというのか!」


泰衡の長い手が、テーブルを強く叩く。あまりの剣幕に狭い店の空気は一気に張り詰め、 席を空けた二人の男ですら固まってしまった。その中でも、女は眉一つ崩さずにマスターに別の ウィスキーを頼んでいる。

初老のマスターは無表情で琥珀のとろりとした液体をグラスに注ぎいれ、無駄な動作は一つとして ない。九郎が、やっと出されたグラスに口をつける。


「信じるかどうかは泰衡様のご自由でしてよ。妾の話を今一度お聞きになっても妾は同じ話しか いたしませんわ」


勝気な双眸をちらと泰衡に流してさらに問う。


「それでもなぜお聞きになりたいとお望みですの?」

「・・・・・・俺は、<怪人>の行方を知りたい」

「ふっふふははっはあははあああっは!」


泰衡の言葉を聞いた途端、女は笑い出す。長い黒髪が揺れ、細い腰を折ってくつくつと喉の奥に 笑いを押し込めるも、なかなか収まってはくれそうにもなかった。あまりに失礼な振る舞いに九郎 は女をたしなめようとするが、泰衡はしかめた面のまま、ラムを喉に流しただけだった。


「あぁ、<怪人>ね、<怪人>の行方をお知りになりたいとおっしゃいますのね!」


肩で呼吸を整えながら、女は目じりに涙を浮かべて泰衡を見る。笑顔は彼を嘲笑っているかのよう だったのに、なぜか、薄ら寂しさを感じさせるものでもあった。


「いいわ、泰衡様、九郎様。もう一度話して差し上げますわ」


嘘偽りなく、と女は付け加えた。かつてオペラ座の舞台にバレリーナとして立っていた彼女は、 すいと背筋を伸ばして二人を真っ直ぐに見据えて言う。


「お話するには・・・・・・そう、プリマドンナの政子の<ヒキガエル>と望美の<大成功>の前 ・・・・・・<支配人の交代>からお話しなくてはなりませんね」


女は咥えた煙草にようやく火をつけ、美味そうに煙を吐き出した。










いきなりオリキャラすいません
やすんにスーツが似合っても九郎には似合わない