黒鳥と仮面のワルツ \



プリマドンナになったマリーの様子がおかしい、と報告を受けたのは年が改まってから丁度一週間 目のことだった。老いた支配人二人は揃ってうなりを上げ、念のためにパトロンの名前を聞いてみ たが、結局、思い当たる節はなかったのだった。ついているパトロンが性悪と言うわけではないら しい。


「どんな様子なんだろうか」

「それがですねぇ・・・・・・思いつめたように部屋に閉じこもったり、気が向いたように練習し たり。あ、この練習は無茶苦茶なんですわね、また。で、先生が止めに入っても聞きやしないんで すわ」


彼らと同い年くらいのボックス案内人は世間話でも言うように、手を顔のあたりで一つ振りながら 言った。ボックス案内にふさわしく、彼女――と言ってもそこいらの品のいいばあちゃんにしか見 えないのだが――は黒いドレスと黒い帽子を被っていた。

この<オペラ座>では舞台に上がる者以外は全て黒子に等しいのである。迎え入れる観客の気分を 害さぬように、そして何を所望しているのか言われなくても察せられるように訓練されている。が 、この案内人は少々口が多い。何度か苦情をもらっているが、自分達が就任する前から務めている ということで、支配人たちもおいそれと解雇することができないでいた。


「無茶苦茶、とは?」

「さぁ・・・・・・あたしゃあバレエのことはよく分かりませんがね」


あっさりと問題発言をするが、今はそんなことに構ってはいられない。とにかく、支配人は話した くてうずうずしている案内人を促した。


「何ですか、何でも、何時間もぴる・・・・・・ぴれ・・・・・・じゃない」

「ピルエット」

「そう、それを繰り返したり、振り付けの最中で急に出て行ったり。そうかと思えば鏡の前でじっ と動かなかったり。バレエ団長から何か聞いてません?もう、とにかくひどいらしいですよ。滅茶 苦茶、じゃなかったらありゃあハチャメチャ、ですわね」


滅茶苦茶とハチャメチャのどこがどう違うのか、と老いた支配人は同時に思った。しかし、今、目 の前にいる老婆は、かなり重要なことを言っている。

あの<ノエル>の舞台で、<オペラ座>は主力の一人を失った。何でも、舞台が跳ねた後階段から 足を滑らせたとかで病院に担ぎこまれ、現在も入院中だという。それについての報告も先日もらっ たが、決して色のいいものとは言えなかった。

現役復帰は絶望的――たとえ戻れたとしても、奇跡に近い、と面会した医師は言った。


「そうそう、夜中に突然踊りだすこともあるんですってよ。それもまた急にぴたーっと止めちゃう 。人と話もしないし、あんまり食べてないみたいですねぇ。あれはもう、気が狂ってますよ。気が 触れたんですよ。全く何があったかは知りゃあしませんがね。あたしもここは長いですが、こんな こと初めてですよ。何とかしてくださいな。解雇しちゃってもいいと思いますしねぇ。あ、でもあ の子のパトロンが煩いですかねぇ、困りましたねぇ」


支配人が黙り込んだのをいいことに、案内人の口は止まることを忘れてしまったようだ。バレエの ことは良く知らないと言っておきながら、スキャンダルには詳しいではないか。まぁ、日々フラン スのお偉方を相手にして守秘義務がある立場としては、人の噂話に生きがいを感じるのも無理から ぬ話ではある。

ようよう案内人を支配人室から追い出すと、老人二人は新たに持ち上がった問題に頭を抱えた。< 黒鳥>が不慮の事故で舞台を降りた今、その穴を埋められるのはマリー以外にいないのだ。一度呼 びつけて話を聞く必要があると判断した二人は、バレエ団長から裏づけをとることにした。

呼びつけられたバレエ団長はこう語る。


「支配人様には申し訳ありませんが、彼女は使えません」

「使えない、とはどういうことだね?」

「壊れてしまっているんですよ。完全にね。何がきっかけは知りませんが――マリーは壊れていま す。それだけははっきりしてますよ」


ダンサーらしく、支配人室のドアを背にして真っ直ぐ姿良くたっている彼に、支配人たちは胡散臭 そうな視線を投げることしか出来なかった。案内人の話も突拍子もなかったが、彼の話はその上を 行き、さらに抽象的なために理解できない。


「分かるように説明してくれないかね、君」

「さぁ・・・・・・一度、本人にお会いになるといいですよ、ええ、きっとそれで分かっていただ けると思います。マリーは壊れてしまったんです」


今日、一番の建設的な意見だったかも知れない。百聞は一見に如かずという言葉に従ってみようと 、支配人たちは話し合った。早速バレエ団長を使いに遣らせてマリーを呼ぼうとしたが、それは永 遠に叶わぬままおわる。




さてそのマリーである。

世話焼きで口さがない案内人は本当のことを言っていた。昼夜構わず踊り続けることもあれば、ぶ つぶつと何かを呟きながら狭い部屋をうろついて一日を終えることもある。さらにひどいときはず っと寝ていることもあった。マリーの取り巻き達は早々に彼女に見切りをつけて、次の舞台役者に 移っていった。


「・・・・・・違うわ違う、こんなじゃなくて・・・・・・」


ろくに櫛も通していないブロンドの髪は艶を失い、はりを無くした肌は透き通るように青白い。目 の下にはクマをこさえて、額に髪がかかっている様は、まるで悪霊にとり憑かれた哀れな令嬢のよ うでもある。窓の外はとうに日が出て暮れているというのに、この女には全く関係ないようだった 。

<ノエル>の晩から振り続けている雪は止むこともなく、連なる家々にぶ厚い綿を乗せたようにな っている。寒空のした、烏がカァと一つ啼いた。雪が音を吸収し、空気はしんと静かに密度を増し ていきながら、同時に清らかさも取り戻している。

火の入っていない暖炉はそれを見るだけでも薄ら寒く、マリーがあまりにも足音を立てるのでその 衝撃で一つ、炭がずり落ちて小さな煙を上げた。マリーは時折、ふと空中に視線を定めた後、なん でもないように踊りだす。そして唐突に止めてしまうのだ。

案内人の感想は正しかった。

この様子を見たら、誰もが「この女は狂っている」と言っただろう。それはそうかもしれない。気 が強くて気性も荒かった女は、本当に、何かにとり憑かれてしまった。彼女には何もなかった。た だ、頭の中に浮かぶ像が踊るように踊れない自分を、ひどく呪っていたのだ。


「こうじゃない・・・・・・あの女はもっと・・・・・・!」

「もっと、綺麗に踊っていた・・・・・・」

「そう、もっと綺麗で・・・・・・柔らかくて・・・・・・」

「気高さの中にも卑しさがあった、な・・・・・・」

「ええ、複雑で、混沌としていて・・・・・吸い込むような・・・・・・」


その影はいったい、いつからそこに居たのだろうか。真っ黒なマントを纏って、まるで窓から落ち る影の延長線上ににゅうと生えたように見えた。逆光で銀色の髪が輪郭を縁取り、右目のあたりを 覆う仮面が厭でも目立った。しかしマリーは気にしない。彼女の頭の中は、空虚に覆われて追い求 めることしかない。


「巻き込むような・・・・・・でも、もう」

「もう見られない」

「見られないの」

「なぜだ・・・・・・?」


影の左目がきゅうと絞られた。落ちる影は不気味で、彼の背の向こうには日常が広がっている。積 もる雪にじゃれ付く子供の歓声、時刻を知らせるラッパの音。落ちる夕日を留めることは誰にも不 可能で、赤々と燃えるそれは、鈍色の空と相まって奇妙な色合いを見せていた。

木枯らしがガラスの窓を叩く。マリーは何処も見ていない目を向けた。


「だってあたしが背中を押したんだもの」

「お前が背中を押した」

「そう、階段の前で。ころころ転がっていったの、あの女。衣装のまんま」

「それで、お前はどうしたんだ・・・・・・?」

「あたしは・・・・・・」


そう言ったきり、マリーは黙り込んだ。白くてここ数日で急に骨ばった手が、顔中をかきむしる。 何かに苦しんでいるのだろうか。彼女は実年齢よりも十は確実に老けて見えた。


「あたしは・・・・・・嗤ったの。だって、ころころ転がるんですもの」

「だがお前は届かない」


大きな瞳が、言葉に大きくかっ開いた。灰色がかった青い瞳は恐れをなして逃げ場を探す。ろくに 着替えてもいない彼女の服はみすぼらしく、その容姿は同一人物とは思いがたい。しかし、そこに 居るのは紛れもなくマリー自身で、対峙する影は、酷薄さを伴って存在していた。


「お前では届かない・・・・・・な」

「どうして!あたしだって、あたしだって・・・・・・あのくらい踊れる!」

「ほう?」


マリーが一言発するごとに、影は距離をつめていく。足音はない。木の床にぺたりと座り込んでし まったマリーは影を見ながらも、相変わらずどこも見ていない。金切り声が喉から出てきて、その 音は影の眉をひそめさせた。歪む口元に慈悲は一切ない。


「お、踊れるわ!踊れるんだから!ダーシャにだって認めさせてみせる!」

「・・・・・・それから?」

「あの女を這い蹲らせて、許しを乞わせるの!」

「・・・・・・そして?」

「あたしが、あたしが――あたしが一番よ!」

「だから、壊した」


マリーは人影から距離をとろうと一生懸命になって逃げる。四つんばいになって逃げる。愚かなこ とに、自らドアから離れていった。いいや、彼女はドアから逃げようという余裕すらなかったのか もしれない。迫り来る、この死神のような影から逃げられるのだとしたら、窓のガラスをぶち破っ ても構わないという気さえしていた。


「あたしが悪いんじゃない!あの女が!」

「あの女が?」

「あんな風に踊るから――ひいっ!」


混乱した口は勝手にしゃべっていく。<ノエル>の夜にしでかしたこと、隠したこと。本音に憎悪 、それから嫌悪と羨望に野望、願望。まったく俗にまみれた女は逃げ切る術もなく、もう終わって いた。ありとあらゆる意味で。

マリーとて、才能が皆無と言うわけではなかった。ただ、実力に見合わぬ地位を強く望みすぎてい ただけで、もっと客観的に己を見ることが出来たら結果は違っていたかもしれない。<オペラ座> の舞台に上がる以上、彼女も一流の看板を背負っていたはずなのに、それを泥にまみれさせたのは いつの頃からだろうか。


「あ、あんな、あんなの知らない!見たこともない!何なの、あれは何だったの!」

「さぁ、な・・・・・・?」

「あたしもあれが、あれが欲しいのに!」

「お前には出来ぬさ・・・・・・あれが何か分からぬ時点で、終わりだ」


影の纏うマントから、一本の細くはない何かが伸びてきた。マリーがそれを人の腕だと分かる前に 、簡単に捕まってしまう。四肢を精一杯使って抵抗しても、圧倒的な力の前には無力である。首も とをがっちり掴まれて呼吸が出来ない。白いシャツに爪を使ってみてもびくともしなかった。


「だから壊した、のか・・・・・・」

「ひっ・・・・・・」

「何を壊したか分からない、か・・・・・・」

「ひひひゃあ・・・・・・た、助け」


助けて、と最後まで言い切れなかった。ただ、最期に彼女が見たものはとても美しいアメジストで 何もかも見抜いているようなその瞳に、諦めに似た気持ちで命を手放した。

全部終わってしまった体にはいくつかの細工が施される。それを発見するのは哀れで罪のないバレ エ団長の役目である。善良な彼がその後の人生にそのシーンを引きずるのは無理からぬ話であった 。誰しも、首吊り死体を見てしまったのなら、一生忘れないだろう。












出てきたちもりんこ、必殺仕事人。
案内人みたいなおばちゃんは嫌いじゃない