黒鳥と仮面のワルツ ]



バレエダンサーと言うものは、その名のとおりバレエを踊る者である。そして、ある種スポーツ選 手とも言って差し支えない。一公演を踊りきるための体力、体型を維持するための食事制限。さら に技を磨くための筋力強化。単に彼らがいるのがフィールドでないというだけで、実際はアスリー トと同じなのだ。

そして、人よりも発達した身体能力を持つ彼らは、その回復力も早い。中央病院にいる女は、女の 意思に反して癒えてゆく体を持て余していた。


「・・・・・・」


初めの一週間、看護師たちは彼女から目を話せなかった。何も重篤患者と言うわけではない。気を 抜けぬ患者というわけではない。だが、病院であるまじきことが発生する恐れがあったのだった。

突発的に、そう、誰も予想しないタイミングで女は窓から飛び降りようとする。機能しない左足を 引きずって何かを喚き散らしてよだれを垂れ流して抵抗する。慌てて駆けつけた医師が鎮静薬を注 射するまで、看護師の体にはいくつもの傷ができた。


「・・・・・・」


そうかと思えば何もなくなってしまうときがある。ベッドに横たわり、虚空の視線をあたりにさ迷 わせて、食事もしない。言葉も発しない。屍という表現がよく当てはまった。このときも看護師た ちは当然、目を離せなかった――ゆりもどしが激しいのである。

女の精神はふり幅の大きな振り子が不規則に揺れるごとく、それがいつ来るか分からなかった。狂 気と虚無の境を行ったり来たりしている彼女には細心の注意を払ったものだ。あまりに暴れるので ベッドに縛り付ければ、もがいて手足首に擦り傷を作ったし、金属のフォークが出ればそれで手首 を切ろうとした。スプーンで掬って口元に運んでも全く飲もうともしない。手を焼くという表現で は生ぬるい。

まるで、そう人を相手にしているとは思えぬのだ。

幼児か、獣か――怪物か。


「・・・・・・」


生きるということを放棄しかけている彼女にとって、何かを映し出すことはもう無理なのだろうか 。




退院の日がやってきた。

快晴である。目に痛いほどの青い空の下に医師は彼女を放りだしたのだ。体はもう日常――医師の 言う「日常」――に耐えうるほど回復していたし、精神が落ち着きを取り戻したかに見えた結果、 退院することに決まったのである。幾分かやつれてしまった顔をしばらく上に定めていたけれど、 女は、ふと視線を医師の顔に戻した。

凛と澄み渡った空気の中で、女の纏う雰囲気は凄惨さを増し、相変わらず底なしの沼の瞳で医師を 見つめる。あたり一面に積もった雪の白に映える女の髪を、一陣の風が吹いて乱していった。


「では、これで」

「・・・・・・人は、何かのために生きていくものだと思いますよ。貴方も、何かを見つけたらよ ろしい」

「その何か、を見つけるために生きろと?」

「私は医師です。貴方を治せなかった医師です。けれど、私の技術を必要とする人がいるかも知れ ない。だから、医師を辞めることはしませんよ」

「・・・・・・先生はいいですね。死ぬまで、医師でいられる」


女の言葉に医師は丸眼鏡を取って目頭を押さえた。ロマンスグレイの髪は乱れきっていて、日々の 激務を垣間見せる。彼は、辛抱強く女の治療にあたったのだが、ついに届くことはなかったのだ。 それを、女は責めもしなければ罵りもしない。無言の態度が一番こたえた。


「私は、一生私ですからな。医師であることも含めて、そうでない私も含めて」

「・・・・・・お元気で」


あごひげの医師は泣き笑いの顔を作って女を見送った。これから途方もない時間を彼女はどうやっ て生きていくのだろうかと、それを思えば胸が軋みをあげる。何一つとして彼女の役に立てず、こ うして送り出すことしか出来ない。

それでも、医師は彼女に生きることを選択して欲しかったのだ。

なぜかは分からない。世界は広く、深い。それは一個の人間の一個の一生で計り知ることは不可能 と分かっていても、その広さと深さを感じ取って欲しかった。驚異的な回復を見せる中で、彼女の 内面は凝り固まったままだった。辛抱強く接してきた彼だからこそ分かることで、あの日、殺して くれと乞うたあの彼女が、どんな風に立ち直ってゆくのか見てみたい気もしたのだ。


「貴方も、ね」


小さく、ありんこのような影になった女の背中に向かって呟いたその言葉は、彼の口の中だけで反 響した。




<オペラ座>の寄宿舎に戻った女を出迎えたのは何をしに来たという冷たい視線とこれからのあた しを見ていなさいよという、強烈な視線だった。この建物の中に彼女の居場所はとうになく、<ノ エル>の夜から三週間ほど過ぎているということがやっと分かった。

あてがわれた個室の中、彼女は物を整理してゆく。要るものといらないものを仕分けているのだが 、傍目から見れば、それは無造作に投げているようにしか見えない。さっさと出て行っとくれ、と この寄宿舎の管理人は開口一番に言った。行く当てはもちろんない。今後のことを思えば、今まで のパトロンに擦り寄っていかようにも出来たのだろうが、女の頭には浮かんでこない。


「・・・・・・お取り込み中、失礼」

「どなた?」


開けっ放しにしていたドアを軽く叩いた音がして、女が振り向くと、そこにはフロックコートに山 高帽を被った、いかにも刑事然とした男が二人ばかり立っていた。一人はかなりの身長で、この寄 宿舎の天井の低さに見合っていない。もう一人はひょろりと神経質そうな目つきをした男で、なん だか胃腸が弱そうな印象を持った。


「こういう者です」


フロックコートの隙間に入れられた手が持ち出したのはいわずと知れた身分証明証。泣く子も黙る パリ市警の紋が入っている。片眉をひょいと上げて用件を聞けば、男たちは咳払いをした後に


「マリーというバレリーナをご存知ですな?」


と険しい視線を向けてきた。


「知っていますが、何か」

「彼女が死んだことはご存じない?」

「・・・・・・は?」


マリーが死んだのだと二人はいう。彼女の部屋で首をつった状態で発見されたのが一週間前だと。 何か心当たりはあるかと聞かれても、女に答えようがない。大体、やっかまれていたのはこちらの ほうで、彼女が死のうとどこかへ行こうと、関係ないのだ。

いいや、彼女は今、全てのものに関係がない。


「失礼しても、よろしいかな?」

「出て行く準備中で散らかっておりますが」


背の高い刑事は身をかがめるようにして部屋の中に入ってきた。もともと何もない部屋である。ひ とまず彼らは並んでベッドに座り、女は窓の桟に浅く腰をかけて話を聞いた。

――疑っているらしい。

彼らの視線の中に、疑惑を感じ取る。


「これを見ていただけますかな」

「なんですか?」

「マリーの日記です・・・・・・貴方について、こんなに書かれている」


ぶ厚い装丁のそれを手にとってぱらりとめくると、一ページに何個も自分の名前が出てくる。嫌い だ憎いという言葉に混じって、マリーがどんな感情を抱いていたのかよく分かる。しかし、それは 全てバレリーナである自分に向けられたもので、バレエから外れてしまった自分は受け止めること が出来ない。

つ、と視線を神経質そうな方に向けて、話の先を促した。


「これでも、心当たりはありませんか?」

「ないですわね。第一、彼女が死んだ日、病院にいましたし」

「ええ。確認済みです。そういえば、貴方は彼女から嫌がらせを受けていたとか」

「そんなことは日常茶飯事ですわ、刑事様」


このことは彼らとて確認済みである。但し、話を聞いて回った結果として、マリーが一方的にライ バル視しており、目の前の黒い髪の女は相手にしていなかったと分かっている。だが、全てを疑っ て可能性を一つ一つ潰してゆくのが仕事である。

背の高いほうが形式的に聞いた。


「マリーに恨みを持っている人を知りませんかね?あとは・・・・・・そうだ、変わったこととか」


しかし、この問いかけに女は予想外の切り返しを見せる。


「――なぜ、あなた方は殺しと断定しているのです?」


神経質そうな男のほうは、フロックコートについたほこりを嫌いながら、答えを濁した。女は煩わ しそうに目を細める。少し伸びた髪が頬にかかった。


「こういっては何ですが・・・・・・ここで人が死ぬことは珍しくありませんのよ。突発的に自殺 してしまいますから」

「自殺と断定できるまで、殺しの線を消さないのが我々の仕事ですからな」

「殺しの線を消させない何かがある、と?」

「そういうことです」


マリーが死んだことも死ぬ理由も知らない、と女は冷たくいい放ち、それ以降口を開こうとはしな かった。決して疚しいところがあって言葉を紡がないのではなく、これ以上話すことがないという 態度の前に、刑事二人は諦めるしかなかった。


「・・・・・・日記は貴方に預けておきますよ。また、<黒鳥>が帰ってくる日をお待ちしており ます」

「そんな日は一生来なくてよ、刑事様?」


ひどく感情を押し殺したように見えた女に、刑事達はかける言葉が見つからなかった。













暗いな!暗い!
というわけでチモリンコ出てこなかった、またかいな。