黒鳥と仮面のワルツ [



四方八方に散らばっていた意識が急速に収束する。そしてそれは人の形をとり、彼女は目覚めるの だ。いつもと変わらぬ目覚めである。曇っていた脳内は、水槽の乱れて霧散してしまった泥が次第 に沈着し、何事もなかったかのように透明な水を湛えるがごとく、時間が経てば通常に戻る。

ただ、クリアになった視界に広がるのは見慣れた天井ではなく、もっと上等なそれだった。オペラ 座の寄宿舎は歴史の深さをそのまま当てはめたように修繕と改修を繰り返したと一目で分かるが、 今、彼女が見ているものはまっさらな白い天井だ。おかしいな、と小首を傾げて起き上がろうとし たとき――激痛が走った。

彼女が身体でもっとも気を使っている部位。何よりも大切にしている左足。

あまりの痛みに、肺に落ちるはずの息が止まった。


「――っ!」


何も認識できなかった。生きていて、左足に異常を感じたことがないとは言わないが、これはあま りに強く、そして最悪の事態だった。

何があったかは詳しく覚えてはいない。昨夜の舞台が跳ねた後、確かに歩いて舞台から降りた。そ のときにはこんなことにはなっていなかったし、また舞台に上がる前から異常はなかったはずだ。 なのに、目を閉じてあけたらこの有様だ。一体、己の身になにがあったというのか。

愕然とした女は額に手をやる。切れ長の双眸はまん丸にかっ開いていて、この場だけをみたものは 異様な表情をする女だと思ったろう。さらりと落ちてきた自分の黒髪がやけに現実味がなく、なん だと女は思う。顔に手を当てて形をなぞるけれど、そこには馴染んだ感触しかなく、この状況を説 明してくれるものは何もない。

ただ、左足から血流にのって全身を駆け巡る痛みと、それを感じ取る体の間に大きな壁があった。 体と精神が切り離されているようなものだ。今感じている感覚は自分のものなのに、それを認めよ うとしない。ためしに足を動かしてみても固定されているらしいそれは、痛みを以って反抗してく る。

やめてくれ。

こんな感覚は要らぬのだ。


「目が覚めましたか?気分は悪くないですか」


いつからいたのかも分からない人物は声を先に現した。ついと顔を動かせば、そこには看護師とし か形容できない人間が立っている。くるんと栗色の髪を項あたりで纏めて、青いカチューシャをし ている看護師は、女とそう年が変わらないようだ。淡い灰色のその服は肩ぐりがパフスリーブにな っており、長いスカートの裾が揺れたのをみて、ようやく自分のいる場所が分かった。

病院。

縁のない場所だと思っていた、病院。


「頭を打っていたようなのであまり動かさないでくださいね。顔色は・・・・・・悪くないみた いですが」

「ここは」

「市内の中央病院です。昨夜、担ぎ込まれました」


看護師はなれた手つきで女の手首を持ち、脈をカルテに書き込みつつ淡々と言った。なぜ、と女が 問うと、看護師は顔を上げて視線を逸らさずにいう。ふと寄った片眉に憐憫が透けて見えて、それ がまた女の癪に障る。


「階段から落ちたと話に聞いています。とにかく、安静にしていてくださいね。特に、足を動かさ ないように」

「・・・・・・」

「気がついたことを先生に報告してきます。何かあったらベルを鳴らしてください」


看護師はもうここに用はないといわんばかりに踵を返し、去っていった。その背中を見送りながら ――女はまだ、自分の身に何が起こったのか分からないでいた。




その日、女は三人の看護師と一人の医師に同じ質問をした。

なぜ自分はここにいるのかと。

彼らはみな同じ答えを返してきた。階段から落ちて、昨夜のうちに運び込まれたのだと。すると女 はこう聞いた。なぜ寝かされているのか、足が固定されているのはなぜだ、と。看護師達はこれま た判を押したように同じ解答をし、去っていった。医師は言う。


「階段からの落ち方が悪かったようですね。左足首と膝の靭帯を痛めています」


切っている、とは言わないのは配慮の結果からだろうか。どういうことだと女は聞く。医師は説明 する。だが、女の耳に入る彼の声は単なる音になっており、それを言語として処理していなかった 。打った頭は異常がないという。痛めた箇所が治ればすぐに退院し日常に戻ることができる、とベ ッド脇に座って言った。何があったのかと女が聞けば、医師は困ったように鼻の頭をかきつつ、苦 笑を交えてこう答えた。


「さぁ・・・・・・話では、舞台のあと、裏の階段で足を滑らせたのだと聞いていますよ。衣装の ままこちらに来ましたからね。意識がなかったので一時は危ないかと思いましたが、昏倒してるだ けのようでしたので、安静にしていました」


どくんといきなり心臓が存在を主張した。背中に残る、軽い衝撃。迫る階段の段差と影が一瞬の後 に反転し、景色は暗い色合いのストライプに変わった。そこで、女の記憶は途切れている。気がつ いたときには、着ることはないだろうと思っていた患者服を着て、寝ることはないだろうと思った 病院のベッドに寝ていた。

ノエルの公演からどれくらい経ったかも分からずじまいで、世間から隔離された別の箱に入ってい ることだけが分かったのだ。


「大丈夫ですよ、すぐによくなりますからね」


頑張りましょうと、あごひげを蓄えた医師は、メガネの向こうから柔らかく笑顔を見せた。気楽に 肩に手を置いて女の顔を覗き込むが、彼が垣間見てしまった女の瞳は何の言葉も受け付けてはいな かった。いや、言葉は愚か、現状を見てはいないだろう。

漆黒の瞳の中にたゆたう沼が底なしの闇を映しこんで、見るもの全てを飲み込んでしまう。幾人も の患者と出会ってきたが、こんなに絶望をありありと映す瞳は初めてだった。

慌てた医師は、取り繕うように言うが、声が裏返ってなんの効果も発揮しない。


「に、日常生活には支障をきたしませんよ。そ、っそうだ、歩いたり走ったりする分には何の――」

「おどれますか」

「・・・・・・へ?」

「また、おどれるようになりますか」

「それは」

「――おどれませんか、もう」


低い声は腹にくる。地獄のそこをのた打ち回って搾り出す彼女の前に、医師は声を失った。虚ろな 瞳を白衣の男に向けて女は言う。


「いらないのでもう、きってください」

「な、なんですって」

「おどれないあしはもう、いらないのできってください。わたしにはもういみがありません」

「そんな!そんなことは出来ませんよ。いいですか、きちんとした治療をして、適切な処置をすれ ば、日常に支障は出ないんです」

「きってください」


女の日常は踊ること、バレエが日常だった。あごひげの、人の良さそうな医師は日常に戻れると気 軽に言ってくれるが、女にとっては戻れないのだ。踊れぬ足を引きずりながら生きてゆけというの か。歩くことが出来ても、走ることが出来ても、バレエが出来ないなら意味は無い。

人前での作法を学ぶより早く足のポジションを覚えた。文字を知るより早く譜面の読み方を覚えた 。寝ると起きるの間にいつもレッスンがあったし、たまの休みは疲労の回復にあてがった。気難し い先輩や扱いが難儀なオペラ歌手を相手にして雑用をこなし、舞台に上がるようになれば逆の立場 になる。次々と辞めていく同期や夢を抱いて去っていった後輩の背中を見送りつつ、己を研磨する ことだけは止めなかった。

屋上に上がって、眠りにつくパリの街を眺めるようになったのはいつからだろう。気がついたら自 分にはバレエしかなかった。本を読んでも音楽を聴いても、誰と話しても、いつでも片隅にはバレ エのことがあったし、それを不思議だとも淋しいとも思わなかった。常に、振り付けをどうすれば 上手く舞えるのか、脚本家がこめた感情を表現できるのか考えていたのだ。

<オペラ座>は過不足ない空間だったのだと、今なら分かる。目を開ければ美術品が所狭しとなら んでいたし、そこに存在する人間も何かを常に探求していた。市井に生活の基盤を置く人々が、わ ざわざ大金を払って見に来るものが、当然のようにそこにあったのだ。

しかしもう、踊れない。それくらい分かる。踊れないのだ。踊れないならば今までのことは泡沫に なり、そうやって生きてゆくしか知らない彼女には、これからの時間が必要あるものとは思えない 。女の師は惰性で踊ることに飽きて舞台を降りた。

ならば。

惰性で生きてゆくくらいなら、いっそのこと。


「切断の必要はありません。また、貴方の体の状態からしてそれが切迫している様子もない。なの に、切ることは出来ません。落ち着いて、よく考えてください。切るのは一回でも、貴方の一生は まだ続くのですよ?」


一呼吸置いて、医師はそう告げた。彼はやっと、彼女が誰だか思い出したのだ。患者の服を着ると 、人は誰でも平等に「患者」になる。そこには金持ちも乞食もバレリーナも関係がない。だから、 医師は医師らしく、彼の言葉で言った。

受け止めるには時間がかかるだろう。一介の医者に過ぎないが、女の存在は耳に挟んでいる。また 、昨日のノエルの公演が、どれだけ素晴らしかったかも。当直で観に行けなかったことを恨めしく 思ったものだが、今は、そのバレリーナを助けてやれないことを恨めしく思う。

しかし、出来ぬものは出来ぬ。


「足を切って、後悔しないとは誰も言い切れません。貴方もね」


ロマンスグレイの髪を掻き揚げて医師はこれ見よがしに溜息をついた。足を開いて手持ち無沙汰に 組んだ両の手を開いたり指を絡ませたりしている。女は、奇妙な動きを見せるその十本の指に視線 を定めてみる。太い指だ。この手で、何人助けて何人殺したのだろう。

この手は、自分を救う手ではないのだろうか。

まっさらな糊付けされたベッドカバーの感触、窓から落ちる日差し。それから広がる個室は何もな くていそう寒々しい。カーテンは揺れもせず、下のほうに溜まった空気が澱のようにくすんで見え た。それから、驚くほど痛む足。軸足が悲鳴を上げている。その悲鳴が耳の穴一杯に反響して雑音 になる。


「なら――」


窓のからみえる青空に、一体何を託しているのだろうか。遠くのほうで鳥が自由に飛んでいる。女 の横顔に、昼下がりの陽が当たって、白い頬は滑らかな曲線を見せていた。長い睫が震え、目を閉 じた女は変わらない口調で医師に乞うた。


「なら、ころしてください。いっそのこと」


――ダーシャ、この世に意味がなくなりました












いや、なんつうか、あれだ。暗い。暗すぎる。
そしてやっぱり出てこないチモリンコ。