黒鳥と仮面のワルツ Z



その年のノエルは特別なものだった。<オペラ座>のみならず、ヨーロッパ各国で名を馳せた一人 の巨匠が逝去した。華やかさを抑えた分、その夜の<オペラ座>は厳かで、一種、選ばれた人間し か寄せ付けない空気を醸し出していた。

磨きこまれた滑らかな大理石の階段。敷き詰められた赤い絨毯。迎えいれる数々の彫刻。芸術と呼 べるもの全て、呼べぬもの全てがかの巨匠を偲び、悲嘆にくれている様がありありと分かる。ノエ ルの演目は変わることが無かったが、頭に「追悼」と言う言葉が当然のようにくっついた。

オペラ座の関係者は全てどこかしらに黒い小物を身につけていた。例えば、燕尾服の胸元、本来な らば白いスカーフをさしているポケットには黒か紺色のものを。受付嬢は黒いカチューシャや黒い リボンを髪に飾り、そうできないものはブレスレットやネックレスを黒いものに変えた。たとえ、 今彼女や彼氏らが着ている服装にそぐわなくても。それらが意味するところは考えるまでもない― ―喪章である。

舞台に上がるものも例外ではなかった。皆、二の腕や首もとに黒いベルベットのリボンを巻き、星 となってしまった巨匠に対して尊敬と哀愁を以ってその冥福を祈る。

支配人がそうせよ、と命じたわけでもないのに舞台の裏から表、オペラ座の表から裏まで、携わる 者皆が自発的に行ったことだった。いかに、<ダーシャ・フレデリック・ルビンスタイン>が偉大 なる人物だったか分かるといえよう。

しかし、いついかなるときでも例外とは存在するものである。

彼の最期の愛弟子がそうであった。

だが、彼女の姿を見たものは一様に口をつぐんだ。今夜の彼女は、皆のようになまっちょろい喪章 なんか身につけていなかったし、その必要もなかったのだ。

<オディール>を演じる予定の彼女はその役柄にふさわしく黒鳥の姿をしていたし、生来の黒い髪 には通常のように何かを飾りつけるということをしていなかった。髪結いが何かつけるかと問うた ところ、要らぬと一蹴したことは楽屋でのささいな出来ことである。真っ黒なビスチェには白いイ ミテーションの真珠と糸で作られた刺繍が見える。白い肢体に着けた舞台衣装は、今夜の誰よりも かの師を偲んでいたし、勝気で切れ長の双眸の中には誰よりも深い悲しみがありありと浮かんでい た。

誰も、彼女に話しかけることなどできはしなかった。




「今夜はまた・・・・・・何か違った感じがしますね」


<オペラ座>のエントランスを潜り抜けた、一人の男が感嘆を滲ませて口にする。琥珀色の髪と瞳 を持ち、まとう空気は落ち着いたもので、そしてどこか人を寄せ付けない容貌をしている。溜息を つきつつ天井を見上げる彼の横で、兄がかかと笑いながら言った。


「なんだ、オメェ知らねぇのか、弁慶?」

「えぇ、ここのところ、雑務に追われていましてね」


ぴっちりと隙無く礼服を着こなした弁慶のよこで、燃える緋色の髪をした男はまずいという表情を 作るが、後の祭りである。一瞬だけ弟に視線を向け、あーとかうーとかうなってあさっての方向を 向くも、弁慶の容赦ない一言は降ってきた。


「誰かさんがちゃんとこなしててくれれば、僕も幾分か楽だったんですけれど・・・・・・ねぇ、 兄上?」

「おう」

「そうは思いませんか?」

「さぁて、今夜の舞台はなんじゃいなっと」


藤原の一門、ここフランスでも屈指の門閥を形成する一門の頭領は、弟の笑顔をするりとかわして 手元のパンフレットに視線を落とした。今夜のプログラムが書いてあるものだ。上質な紙に一文字 たりとも誤植が無く、丁寧なイタリックで印刷されたそれは、ボックス席――フランスの社交界の サロンと言っても過言でない場所――に通される者だけが手にすることが出来る。


「お、<白鳥の湖>か・・・・・・第三幕ねぇ」

「<黒鳥>のパ・ドゥ・ドゥですね」

「あぁ、多分、追悼の演目なんだろうな・・・・・・役者見りゃあ一目瞭然だ」

「追悼?」


八番ボックスは藤原家が所有している。しかし、その空間にいるのは弁慶と、兄の湛快、そして彼 の妻だけだった。彼らの子供であり次期藤原の当主にして弁慶の甥であるヒノエの姿はない。ちょ っと、と言ってサロンへといってしまった義姉は見かける人に挨拶でもされているのだろう、戻っ てくる気配は無かった。


「あぁ――ほれ、このバレリーナ」


と言って湛快は太い指でとある名前を指し示した。手元を覗き込んだ弁慶は、それを一瞬にして読 みとり、まさかと呟く。彼女が演じた<黒鳥>が世間の賞賛をかっさらったのは記憶に新しい。が 、悪役の見せ場をこの特別な夜に上演する理由は一つしかない。兄の言葉が、彼の脳裏ですばやく 合点し、納得がいった。


「亡くなった・・・・・・のですね」

「五日くらい前のことだ。急遽演目を変えやがったと思ったらコレさ。まぁ、致し方ねぇっつうか 、なんつうか・・・・・・」

「なんですか、兄上にしては気持ちの悪い」

「コイツ、葬儀に参列どころか、形見分けも断りやがったんだとよ」

「へぇ・・・・・・」


片眉だけ器用に上げて弁慶は相槌を打つ。彼女がついていた師匠がどれだけの人物だったかは良く 知っている。誰もが逝去を惜しんだその人物、もっとも近いところで教えを受けていた弟子が、最 大の不義理をしたと罵る声が聞こえた、と湛快は苦笑して教えてくれた。


「ま、えれぇ別嬪さんだがね」

「ふうん・・・・・」


その人物とはお互いの立場を変えて間近で接見するのだが、少し先の話になる。一階上の特等席、 十六しかないボックス席の中でも一等の場所にある空間に、平家の人間の姿が見え始め、遠くなが らも目が合った彼ら二人は軽く頭を下げるだけにする。

今の情勢下では表立って対立しているわけでもないが、さして仲良くしているわけでもない――と言 うより、どの門閥も互いの利益と実害を考慮したうえで付き合いをしているのであり、立場上、藤 原はどことも仲良しこよしという関係はない。ざっと見たところ、平家のほうは現党首である清盛 、奥方の時子、そして息子の重衡と親類の敦盛――彼だけはヒノエと面識がありそれなりに付き合 いがあるようだ――の姿が見える。

あとでいくらでも話をせざるを得ないだろう。古く、由緒ある家柄というのはいつでもしがらみと つながりの中で喘ぐようにして生きていくしかない。そして、弁慶の横にいる人物とその息子はそ の社会から見たらかなりの異端児だろう。自由すぎる。


「さぁて、始まる前に何か飲むか」

「今夜は酔って寝るなんて羽目にならないでくださいね。一緒にいる僕の身になってください」


しっかりと釘さす弟に限りなく頼りなく、そして根拠の無い笑顔でおうと湛快は言い切った。




<白鳥の湖>はチャイコフスキーの代表作としられ、悲恋の物語である。あまりに有名なこの作品 は、実際に目にしたことがなくても誰でもストーリーを知っているだろう。作者自身が泣きながら 脚本を書いたという、嘘かまことか知れない噂も生き残っているくらいだ。

その第三幕、宮廷で王子が妃を選ぶ場面で、主役の一人である<オディール>――いわゆる<黒鳥 >――には超絶技巧が要求され、このバレエ一番の見せ場が待っている。それは、三十二回連続の フェットである。平たく言えば、その場で三十二回くるくる回転するだけなのだが、一回もよろけ るなぶれるな、もちろん目を回すなという注文がつく。

この幕では王子の婚約相手として各国のお姫様があつまり、それぞれ自分をアピールする。しかし 心に決めた人がいる王子は見向きもしない。そこに、魔王の娘である<オディール>が登場し、魅 惑の踊りで王子を魅了してしまい、彼は彼女を妃として選んでしまう。それを窓の外から見ていた <オデット>――呪いで白鳥に変えられてしまった姫で王子の惚れた人物――は悲嘆にくれて湖へ と逃げ帰る。一瞬にして事態を悟った王子は魔王親子の高笑いを背中に彼女を追いかける、と言う ところで場面転換だ。

本来ならば、ノエルの晩に上演されるのはこの後に続く第四幕、白鳥の姫が呪いを解かれ、魔王親 子が退散される場面であった。しかし、ダーシャの訃報をもってオペラ座は上演を変えた。彼の最 後の弟子にして最高傑作、そして世間の評判も上々である彼女が存分に踊れるように取り計らった と言っていい。だから、一人二役で踊るはずの役を一本に絞ったのだった。

<オディール>を弟子が、窓の外から悲嘆にくれて逃げる<オデット>をマリーが。

当然、この采配に気の強すぎて自分を省みない英国人は反発した。が、オペラ座の権力の前には最 終的に首を縦に振るしか道は無く、横に振っていれば今の地位を捨てて祖国へと連れて行ってくれ る船に乗る運命だった。

出番が近付いてきた役者たちはそれぞれが登場するほうの舞台袖へと移動をし始める。前の演目が 終わったのか、大きな拍手が掠れながらも聞こえてきた。上演中の舞台裏は特別な緊張感と高揚に 満ちていて落ち着きないことこの上なかったが、女はそ知らぬ顔である。ともに踊るはずの役者、 王子役ですら近づけない何かがあった。いつもなら気分を落ち着けるために口にするラムも飲みは しない。


「・・・・・・」

「・・・・・・」


それを、忌々しい視線で見つめるのはたった一人しかいなかった。青い瞳に燃える炎は憎悪と言う には生易しく、嫌悪と言うには何か足りない。嫉妬や不快、そんなものでもなかったし、マリー自 身ももう何を思っているのか分からなかった。

ただ、師匠の死を踏み台にして栄光を掴むであろうあの黒い髪の女が憎い。

それしかなかった。

全身全霊であのダーシャの教えを享けていた人物は、その人が死んでしまったというのにも関わら ず、涼しい顔で翌日もレッスンをしていた。その翌日も、だ。葬儀に参加するかと思いきやすげな く断り、なんら変わらぬ足捌きで当然のように技術を磨いていた。誰しも、女の神経を疑ったこと だろう。バレリーナは口々にこき下ろしたものだが、それすらも女には届かなかった。

あのダーシャが、唯一声を荒げて手を上げていた人物。そばで見ていれば厭でも分かってくる。マ リーは、一度としてダーシャに怒鳴られたことも無ければぶたれたことも無い。一体、何を意味し ているかなんて今更考えるまでもない。


「――っ」


いっそのこと舞台で転んでしまえばいい。この公演で笑いものになってしまえ。そうじゃなければ 事故でも起きてその足が潰れてしまえ。

――起きないならば、起こせばいい。

さぁと降り注ぐように頭の中に光が見えた。いいひらめきかも知れない。ダーシャももういなくな ったことだし、彼女が舞台を降りれば、その名声はマリーに向くだろう。


「・・・・・・」


舞台進行の合図で幕が上がる。それぞれの役者はそれぞれのやり方で気合を入れたあと、観客の前 に散らばっていった。

せいぜい、最後の舞台を味わえばいい。

マリーの見せた笑顔はとても凶悪だった。




観客席はしんと静まり返り、誰も声を発する者がいなかった。それは感嘆とも言えず、驚愕とも言 えず、今、たった今優雅に礼をしてみせた人物が本当に実在するかと疑う目で舞台を見ていた。呆 然とした彼らを置いて、さっさと音楽は進行してゆく。

今見ていたものは一体何だったのだろうか。

今まで見ていたものは何だったのだろうか。

突きつけられた女の<バレエ>はまさしく<バレエ>だった。才能を惜しげもなく発揮し、しかも ただ発揮するだけではなかった。正しく才能を発揮し、無知な観客の前に冷然とした芸術を見せつ けたのは――紛れもなく<黒鳥>と呼ばれる女だった。


「化けたなぁ」


くつくつと喉で笑う湛快の言葉で、弁慶はやっと我に帰った。ふと見やれば、自由すぎる兄はゆっ たりと頬杖をついて舞台を見ている。一拍遅れて、間抜けなように劇場が歓喜と拍手で満たされる 。ブラヴォーと向ける言葉しかないのが惜しい。


「形見なんざぁ、あの女にゃ必要ねぇじゃねぇか」

「・・・・・・?」


しばらくやむ気配のない拍手に混じって、兄の不可解な一言が耳に届く。ふと片眉をしかめて言葉 の意味を探ろうとしても、周囲の観客は彼女の一挙手一投足にいちいち拍手を大きくした。

先日この世から去ってしまった巨匠は彼女を一から育てたのだという。<子ネズミ>の時から抜き ん出た身体能力を見込まれ、通常より早く舞台でソロを務めた。ミスをしたとしても、それを二度 繰り返すほど愚かではなく、観客の期待に応え続けてきた。

だが、今夜の彼女はどの舞台に上がった彼女ではなかった。別人と言ってもいいだろうし、湛快の 言葉通り、「化けて」しまったと考えるのが自然だ――御伽噺めいた表現ではあるが。バレエはい わば無形の芸術である。映像技術がさして発達していない昨今、今夜の踊りを再現できるものはこ の世にいない。人はここまで美しく踊れるのだと、動作とはこんなにも美しいものだと目の前に突 きつけてきた女は紛れもなく誰のためにも踊っていなかった。ただ、この世のどこを探しても見つ けられない彼のために、ひたすら弔いのために、余すことなくその技術を磨いてみせたのだ。深い 感情の前に、観客はさながら覗き見してしまった幼子同然で、いかに拍手を送ろうといかに絶賛し ようと、彼女には届かない。

理解を求める卑屈さはなく、大衆に向けられたものでもない。ただ、踊った。美しい振り付けを、 美しく踊った。美しい振り付けを遺してくれた師のために、美しい振り付けを踊れる身体を遺して くれた師のために、踊った。

たったそれだけのことだ。しかし、それだけのこととして受け止めている人間が幾人いるのだろう か。彼女を正確に掴んでいる人間は――いるのだろうか。観客の拍手は、やはり届かないのだろう 。


「芸術だねぇ」


誰も手に届かないところ、誰しも手にしたいと思うものが芸術であり、決して手に出来ないから芸 術である。見るものが見れば、今夜の彼女だってどこかしら欠けている部分があっただろう。しか し、それすらも美しく欠けた部分だった。

ええと曖昧に頷いた弁慶の横で、ようやく湛快も拍手に加わり、それは、彼女の最後の一礼でもっ てひときわ大きなものになった。

彼らは知らない。

今の一つの動作が彼女の最後のものになるなど――そして、誰も知らない劇場の暗闇から、舞台を 見ていた二つの眼のことも。

この舞台を降りた女の意識は突如とした衝撃と一瞬の浮遊の後暗転し、目覚める場所は<オペラ座 >の外であるが、それは翌日のことだ。

きっと、目覚めないほうが幸せだったかも知れない。

夢か現か知れぬ舞台を提供した彼女は二度とその場に上がることなく――人知れず、賞賛のうちに 姿を消した。今となってはその真実を知るものは彼女と<怪人>以外の誰もなく、<オペラ座>が 門戸を閉ざして以降、人々の記憶からひっそりと消えて行った。












名前だけ平家のキャラ登場
弁慶と湛快パパの会話は考えてて楽しかったっす、先輩!(は?