黒鳥と仮面のワルツ Y



眠る、起きる、踊る。眠る、起きる、踊る。

毎日がこの繰り返しである。例えば何かを食べたとしてもそれは踊れる身体を作るためのものだし 、公演が迫ってくれば必然と食事内容を変えていった。何かを見に行ったとしても、それは動作を 学ぶためだ。レッスンを休むことがあっても、単にそうすることが必要であるというだけのこと。

そんな彼女を、或る者は機械のようだと形容したし、或る者は追求者と呼んだ。しかし、全ては彼 女の預かり知らぬところでの話であり、結果として彼女にとってはどうでもいいことだった。

踊ることを止めてしまったらと想像したことも無ければ、踊らない自分を思い描くこともなかった 。バレエは、彼女にとって呼吸することと同じだ。日々の積み重ねが今の技術と名声を得たのだと いうことは至極簡単で、結果はついてきただけである。

その<子ネズミ>が息を切らしてレッスン室に駆け込んできたのは午後の練習が始まってすぐのこ とである。

幼いながらも楚々とした顔立ちと黒い髪が印象的で、主役の華があるとは言いがたかったけれど、 将来を有望されている数少ない<子ネズミ>の一人であった。後に一級団員を務める――それを言 い渡されるのは少し先の未来であるが――朔である。その子は一瞬だけ大人のバレリーナが見せる 気迫に圧されたように足を止め、しかしぐっと息を飲み込んで目的の人物を探した。

彼女は、どんな群集の中にあっても一目で見つけられる空気を纏った人物である。


「あのっ!」

「・・・・・・何の用?誰?」


壁際のバーで基本的なポジション練習をしていた女は、突然の邪魔に対してなんら不機嫌を隠さず 、邪険とも言える声音で振り向いた。眉間に寄せられたシワが女の子から声を奪おうとするけれど 、小さな朔が仰せつかった伝言の大きさは計り知れない。特に、愛弟子と誉れ高い彼女に関するこ となのだから。


「練習中に申し訳ありません・・・・・・電報が届きました」


どうぞと差し出した紙切れを女は不機嫌のまま受け取り、瞬き一回の間に読み取った。そして、面 白いくらいに顔色を変える。短い一文、主語と述語だけで構成されたその文章は理解するに難くな い。けれど、いざ受け止めろといわれてできるものではなかった。

一度固まった全身がばね仕掛けのようにレッスン室を飛び出すのにさほど時間は掛からなかった。 そばに居た朔がはじかれても仕方の無いくらいの勢いだ。駆け出した女のあとを、放り出した紙切 れがひらひらと舞う。その紙切れにはこう書かれていた。


――ダーシャ・フレデリック・ルビンスタイン危篤なり




レッスン室に小さな女の子が姿を現したときのように、女はその部屋にやってきた。

練習着の上にコートを羽織っただけの格好は見るほうが寒々しく、乱れた黒い髪はどれだけ彼女が 急いでやってきたのかを示している。馬車には乗らず、直接馬を駆けてきたのだろう。外気に晒さ れた頬と鼻の頭がうっすらと赤くなっていた。


「マエストロ・・・・・・!」


青い屋根の大きなお屋敷。居間の暖炉の前で思わぬ告解をしたその男は、ベッドの上で静かに呼吸 をしていた。窓から差し込む日光はダーシャの姿を浮き立たせている。寝室の天井、四隅に追いや られた薄汚い影が彼の魂を虎視眈々と狙う死神のようだ。重たい曇天の下、ノエルに向かって華や ぐ街は呑気で、道端のアコーディオン弾きが奏でる讃美歌が掠れて聞こえる。子供達が歓声をあげ てきゃあきゃあと走り去り、そのあとを木枯らしがぴゅうと吹いてガラス窓を叩く。


「あぁ、きたのかい・・・・・・」


ゆっくりと、うっすらと目を開けて彼女の師は微笑んだ。緩んだ口端に力はこもっておらず、この 人はすぐにあちら側に逝ってしまうのだと直感で分かる。透き通った青い瞳に宿る生気はほんの僅 かで、女はみしりと自分の顔が歪む音を聞いた。


「マエストロ・・・・・・」


何を言えばいいのだろうか。何も言いたくない。

もつれそうになる足を何とか叱咤してベッドの傍まで行くと、師は大きな骨ばった手を彼女に向か って差し出す。頬に触れたその手はとても暖かく、今、この瞬間は生きていることを教えてくれる ――今は、まだ。

ぎゅっと唇をかみ締める女を見て、かつての振付師はわがままな孫に向けるような、柔らかな声音 で言う。


「泣きそうな顔をして・・・・・・私は、主に召されるだけだ」

「ダメです」


柔らかなその声。かつては自分を怒鳴りつけて石でもぶつける勢いで罵ったその声。もう、力の無 い声だった。一瞬の間もおかず首を振って否定する女に、ダーシャはまた微笑んでくれる。


「わかっていたことだろう・・・・・・?」

「ダメです、逝かないでください」

「あぁ、お前の我侭を初めて聞いたような気がするね・・・・・・」


その我侭はかなえられそうもないけれど、と力のない声で続ける。女は小さな子供がいやいやをす るように首を振る。頬に添えられた手を掴んでいれば、すぐ傍の死神が近寄ってこないと信じてい るのか、両手で縋った。女が発した声は彼女自身が驚くほど掠れていて、そして震えていた。


「厭です、マエストロ」


もう間近に迫ったその時を肌で感じながら、女の内部は血液の代わりに後悔が駆け巡った。

ああ、どうしてもっとここに来なかったのだろう。どうしてもっと多くのことを語らなかったのだ ろう。どうしてもっと――教わるべきことはまだまだ山積みなのに。


「置いて逝かないでください」


切れ長で勝気な双眸が見つめるのは穏やかな青い瞳だった。まるで、山間の静かに水を湛える湖面 のような。空の青を映し込んで、雄大に広がっているだけの鏡のような瞳だ。醜い感情も、汚い思 考も、全てを映して己に見せてくれる。さあ受け止めろと非情に言うようでいて、穏やか。この人 を召すのだという神が憎い。

どうしてこんなときに、厭だとかダメだとか、そんなありきたりな言葉しか浮かんでこないのだろ う。

もっと、もっと別のところに伝えるべき言葉があるはずなのに。


「いいかい、私の可愛い弟子。良く聞きなさい」

「・・・・・・」

「お前が今感じていること、悲しいと思うことすればよかったと後悔すること。全部覚えておきな さい」

「マエストロ・・・・・・」


ダーシャは、蝋燭の火が燃え尽きる瞬間、もっとも輝きを見せるその瞬間を迎えていた。よどみな く紡がれる言葉は余すことなく女の身体に向かっていき、口から鼻から肌から全部吸収される。美 しい顔が青ざめて、寄せる眉の作る皺に軽く触れて先を続けた。


「何かを見て感動したこと、誰かと話して楽しいと思うこと、全てがお前のものになる。知らなけ ればよかったことなんて何一つないんだよ」

「・・・・・・はい」

「それら全部が溶けて――お前の肉になる。お前の血になる。お前を構成する、全てのものになる」


人は生れ落ちたその時からたった一つのものに向かって歩んでいる。今、こうして老人に向かい合 っている彼女も、暖かい部屋で寛いでいるどこかの金持ちも、寒空の下で蝋燭を売る少年も、皆が 等しくそれに向かって歩いている。

その過程は人それぞれ。百人いれば百通りの歩み方がある。目の前の老人はバレエと音楽にその指 針をゆだねた。そして最後の最後で素晴らしい素材に出会うことが出来た。きっと、彼女ならばア レを――魔物の呪いを撥ね付けてくれるのではないかと期待してしまうような。だから、誰よりも 厳しいレッスンをしたし、<オペラ座>のどのバレリーナにも向けたことの無い罵詈雑言を浴びせ て育てた。

彼女は、期待通りだった。全身の筋肉がばねのようで、同じ振り付けをしても一人だけ抜きん出て いた。言ったことは言葉の裏の裏まで察して実行したし、きつい練習に耐えうるだけの精神力も持 っていた。バレエの神がいるというならば、間違いなく彼女は寵児だろう。その子を、自分に―― 魔物の呪いにかかったままの自分に引き合わせてくれた神に感謝したい。

その神が自分を召している。何を恐れることがあろうか。


「色んなものを見なさい。色んな音楽を聴きなさい――お前を豊かにするもの全てを、受け入れな さい」

「マエストロ・・・・・・?」

「お前は賢い子だ。とてもね。だからこそ、たくさんのものを感じるんだ。心を揺り動かして、頭 がどうにかなるくらいの何かに出会えるように」

「それが、魔物だというのですか」

「いいや・・・・・・お前はもう出会っているね、きっと。だから、これがお前に教える最後のこ とだよ」

「いいえ、まだです。まだ教えて欲しいことが・・・・・・!」


お前は我侭だねぇとダーシャは困ったように、それでもこの場にそぐわず嬉しそうに言った。


「お前がそんなに我侭だったとは知らなかったよ・・・・・・」


心配だ、と師がいい女は何がと問い返した。すると老いた男は我侭すぎると、うっすら笑って言っ た。切れ長の綺麗な瞳を持つ彼女はならば逝かないでくださいと、苦痛に顔を歪ませていう。

冬の、澄んだ空気はゆっくりとしていてはぜる暖炉の薪と、女の心なしか荒い呼吸、そしてダーシ ャの間隔の長い呼吸の音しかしない。ベールのように日差しが降り注いでは二人の影を落としこん で、あるいは一枚の絵画のようにじっと動かない。

どうしてこの人が、今この瞬間に。

なぜこの人が今日のこの日を選んで。

柔らかな布に包まれるかのように逝ってしまう。


――あぁ、神よ。この人でなければいけませんか


「ダメです、目を開けてください」

「・・・・・・」

「マエストロ!」


呟いた言葉は聞き取れなかった。愛していると聞こえたような気もするし、自分の名前を言ったよ うな気もする。ただ、女は背後の看護婦が制止に入るまで喚いた。その眠りを妨げれば彼はまた瞳 を開けると思って。喚いていれば死神が魂を連れて行かないと思って。


「厭です!ダーシャ!目を開けてください!」




それを正式に受け取ったのは夜もとっぷりと暮れてからのことだった。郵便屋は驚くほど陽気に彼 女にそれを渡し、ノエルに向けての一言を言ってから去っていった。中身の重さも内容も知らない 人間はとてもお気楽にしていて、またなんだか滑稽でもある。貼り付けた笑顔を引っ込めて自然と 足が向いたのはいつもの屋上だった。

こんな時期にこんなところに来るのは酔狂としかいえない。もうそれが<オペラ座>全体に知れ渡 っているのか、最後の弟子となった彼女に向けられる視線は憐憫をスパイスにして、大半が同情を 含んだものだ。だが、彼女の腹の中はたった一言で片付けられる。

手燭の炎は空っ風に揺らめいて、頬に落ちる睫の影だけが、今の女に宿る表情であった。ぱーんと 巨大な緞帳を張り詰めた空には星の輝きがあちこちに見て取れる。手の中の速達を、ひっくり返し てみても透かしてみても、きっともう事実は変わらない。

それくらいで変わってくれるなら、とっくにそうしている。

女は煙草に火をつけた。


「・・・・・・いるなら、出てきたらどう」

「これは心外・・・・・・感傷に浸っているかと思いきやご立腹のご様子」

「茶化さないで」

「お前でも、そんな眼をするのか」


どんな眼だ、と女は思った。いつだって自分の眼は、この顔にくっついている二つの真っ黒なこの 瞳しかない。


「早すぎる」

「あの男は十分生きたさ」


ふうと吐き出した紫煙の向こう、くゆった後に広がる闇の中にいつものシルエットが浮かんでいた 。視界一杯に広がる星空はそこだけが人型に切り抜かれていて、はためくマントが彼を実体である ことを教えてくれる。

手紙の封を切ろうともしない女はまた、苛立ったように煙を吐き出した。


「知ったような口をきくのね」

「お前が知っていることが全てじゃあない」


いらいらする。落ち着かない。視線は一定に止まらず、そわそわと勝手に手足が動いた。そうしよ うという意識も無く奥歯をかみ締めて、何か言おうと口を開いても声が出なかった。顔の中心に力 が入る。


「じゃあ、貴方は何を知っているって云うの」

「さぁな・・・・・・だが――」

男は暗闇の中、仮面の下から女を捕らえていう。


「あの男を正確に弔えるのは、お前だけじゃないのか?」


一体なんだというのだろうか。何もかも、生きてから短いとも言い切れない時間を過ごしているの にさっぱり分からない。さっきまで手の中にいた小鳥が飛び立ってしまったようだ。残されたもの は、空中に舞うひとひらの羽を見つめて呆然とするしかない。

でも、一つ分かることははっきりしている。


あぁ、マエストロ――私の神。

もういない。

こんなパリに何の意味もない。












朔ちゃん出てきた。
よかった、キャラが知盛で終わったらどうしようかと。